社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

山田耕之介『経済学とはどんな学問であるか-経済学の現状と3つの文献について』(私家版)1994年

2016-10-18 11:38:18 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
山田耕之介『経済学とはどんな学問であるか-経済学の現状と3つの文献について』(私家版)1994年

 ケインズによる「若き日の信条」「我が孫たちの経済的可能性」「アルフレッド・マーシャル」のテキストに依りながら,経済学がどのような学問なのか,しかして経済学の現状はどうなっているのか,経済学と数学との関係,ケインズの経済学,マーシャルの経済学は何をめざしていたか,について論じた本。

 いまある経済学が現実分析に無力であることを指摘し,社会主義体制の崩壊からただちにマルクス経済学の終焉をいう似非マルクス経済学者について批判的に検討する対極で,あるべき経済学の姿をケインズ,そしてマーシャルに見ている。筆者は,経済学が無力なのは,それが自然科学を範とする「科学主義」に傾き,数量分析をもちあげて現実から遠ざかり,研究者は人間社会にそれほどの関心がなくとも「数理モデル」の開発に現をぬかしているからであると説く。

 ケインズもマーシャルも,そうではなかった。ケインズは倫理的に最高善と考える社会を実現するために経済的豊かさを追求し(ピグーがそうであったように),経済学を倫理学の侍女とみなしていた。この思想は,その経済学の中身の核にあった「有機的統一の原理」(ヘーゲルの影響もあった),「原子仮説」に活かされ,快楽の追求と効率の重視に重きをおくベンサム主義とは相いれなかった(というよりベンサム主義を批判の対象とした)。

 マーシャルがケインズとともに目指していたのは,モラル・サイエンスとしての経済学,自然科学的思考を排して一定の価値判断に基づいた社会科学である。ケインズのこの考え方を理解するためのキーワードが,いわゆる「内部洞察力(経済学的直観)」である。

 筆者は,このような議論を補強する意味をこめて,マーシャルを追悼した文章にそって,「経済学と倫理学」「経済学と経済学者」「経済学と数学」の3つのテーマを論じている。マーシャルは若いころに聖職者を志し,そのための教育も受けた。また,もともとは自然科学の分野(数学,物理学)で仕事をした人である。そのような経歴で,マーシャルは経済学に接近し,大著「産業と商業」を成すが,一貫していたのは経済学が絶えず変化する現実,そしてその担い手である人間集団をその対象とし,これゆえにこの学問はモラル・サイエンスでなければならず,数学との関係でいえば,これに依存してその演算結果をすべてに優先させることはモラル・サイエンスに備わっている精神性をはく奪することになる,とした。

 もっとも筆者は,マーシャルがケンブリッジ大学に経済学部を創設したことが,当人の狙いからはずれて経済学がモラル・サイエンスから一気に遠ざかっていくきっかけになったのではないかと,見ている(p.54)。

本書は筆者が長く在職した大学のゼミナールのOB・OG会である「立山会」での最終講義にむけて書かれたものであり,長年の経済学研究のバックボーンであった根本思想を平易に語っている。上記のケインズの3つの文章の翻訳を資料とともに箱入りの品のいい作品に仕上がっている。

池永輝之「経済学における数学利用」『統計学』第49・50合併号,1986年

2016-10-18 11:35:50 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
池永輝之「経済学における数学利用」『統計学』第49・50合併号,1986年

 1970年代半ばから,社会統計学の内部で経済学における数学利用の意義の再評価の動きがみられた。それらは数学利用の可能性と有効性を認め,主要な研究方法として積極的に位置づける潮流を形成した。筆者は,それらの動き,潮流が従来のこの分野での議論の到達点とどのように関わるのか,それなりの吟味が必要という視点で本論稿を執筆している。
まず,数学利用推進派の見解が2つのグループ,すなわち野澤正徳と置塩信雄によって代表されるグループと関恒義,横倉弘行によって代表されるグループについて要約され,次に批判派の見解が是永純弘,山田耕之介の両者の見解についてまとめられている。

 野澤正徳と置塩信雄の見解は,概ね次のとおりである。経済科学が政策科学としての課題を果たすには,経済全体の数値的分析が必要であり,そのためには数理的数量的手法の援用が不可欠である。その理由としてあげられているのは,①経済は複雑な相互依存の構造をもっている,②政策提言は諸政策間の整合性をもった具体的数値で提示しなければならない,③各政策がもたらす長期的,間接的波及効果の測定,予測が必要となる,というものである。上記のように社会統計学の分野ではこれまで,計量経済学の研究方法に対して,モデル構築過程における恣意性,質的側面の捨象,確率モデル導入の問題性であった。これらの従来の批判について,野澤正徳,置塩信雄の見解は,計量モデルにおける諸量は具体的質的規定をもった定量なので質的捨象という批判はあたらない,パラメータの安定性については政策科学が考えるモデルによる予測は将来の外生変数のあれこれの推移のもとで変化の方向性を示すことなので,係数一定の現実的妥当性は重要な問題ではない,確率論利用については,計量モデルの攪乱項に関わる想定が現実妥当性をもつかは証明できないので,確率論的接近によってモデルの推定が現実と合致するか否かに関わらずその接近法は有意義である,というものであった。

こうした見解は,筆者によれば,手法の正しさが分析目的との兼ね合いで決まり,また手法の正しさは相対的な有効性の度合いで判断すべきものとする,数学利用そのものの方法論的問題の検討の放棄に他ならない。  

関恒義の見解は,次のとおりである。数学利用の根拠は,①経済学は量的性格の強い科学であり,経済諸量の相互関係の究明には数学利用が不可避である,②民主的経済モデルの提示には計量経済学の諸手法を批判的に活用しなければならない,経済学における数学利用のあり方は,質と量との,異質性と等質性との相互関係の解明,とりわけ異質性をつらぬく等質性の析出が原則で,析出した等質的な関係を厳密な量的関係として表現することである。関にあっては,数学利用によって客観的対象の認識が深められるとし,その推進を主張されるが,そのことを論証しえていない。そこで民主勢力のよりどころとしての民主的経済モデルの提示という主張を導入して数学的方法の有効性を根拠づけるが,成功していない。関の計量経済学批判の観点は,それを構成する経済学の性格に絞られ,その固有の方法については積極的に評価されている。結局,計量経済学に対して批判すべきは,その利用の仕方につきるのである。

 推進派の2グループに共通する見解は,「計量モデルの提示→経済諸量の相互関係の分析を経済学の主要課題として設定→数学利用」という論理構造,と整理できる。

推進派の見解に対し,数学的分析の方法的性格という観点から批判を展開したのは,是永純弘,近昭夫,山田貢である。是永は推進派の立論の基礎に,数学的方法の適用によって研究の厳密性が保証されるという誤解があり,これをただすために多岐にわたる批判を行うが,その中心論点は2点である。一つは数学的分析の方法的性格に対してであり,他の一つは経済諸量の連関分析を経済学の主要課題として設定する姿勢に対してである。前者は関恒義の数学論と関係し,関が言うところの,異質性を貫く等質性を抽象し,その関係を厳密な量的関係として表現することが必要(異質性のままでは数学が利用できないとする見地)というのは誤りで,数学は質的に無関与とでそのことを行いうるのであって,個別科学が異質なものから共通性を導き出すことに数学は関わらない。諸科学における量と数学が扱う量を認識する方法には本質的な区別があるが,それを見ないのはそれらの認識方法の理解が不十分と言わざるをえない。

後者は,数値的分析が重視される以上,計量経済学的諸手法の摂取,批判的活用が要求されるが,このような課題の先取りは計量経済学の方法体系がもつ原則的誤りが軽視されることになり,その利用目的の当否でこの体系の当否が判断されてしまい,これらに対する批判は,科学方法論としての客観的評価としてあるべきものが,数学利用の政治的役割にたいするものへとすりかえられてしまう,というものである。近昭夫もこの議論の延長線上で,関の議論が数学的方法の評価が,対象との関連で相対的なものに化してしまうことに懸念を表明している。

山田耕之介は,関の議論が結局,数学利用の根拠として経済学が量的性格の強い科学であるということを除けば,何一つ経済学の本質に根差した理由を示しえなかったと整理し,問題は経済量をいかなるものと理解し,その性格をどのように規定するかにつきるとする。経済量の理解にとって必要なのは,質と量についての認識である。質はある物がどんな物であるかを示す規定性である。経済量はこの質に対応するものであるが,それは客観的な存在として独自にあるものではなく,対象のどの側面をどういう目的でとりあげるかによってひとつの量が経済量になったりそうでなかったりするのである。ところが関にあっては,質とは「その事物を特徴づけるさまざまな性質の総体」と考えられているので,質とは事物そのものであると述べているにすぎない。また量に関しては事物に関わる数と考えているので,事物があれば必ず測定できる数値があると理解しているのである。

数学利用に関しては,それは個別科学である経済学が質的側面に終始する利用でなければならない。数学は質的側面を捨象して純粋に量的関係や形式を問題にするのであるが,質的側面の捨象ということは異なる事物の間に同質性を仮定することである。関の言うように,同質性を見出してそこに数学を利用するということではなく,数学を利用することそれ自体が同質性を仮定することになるのである。資本主義の複雑な経済現象を分析する際,同質性を仮定することは困難である。したがってそこに数学を利用する可能性はほとんどない。

 筆者は最後に,経済学における数学利用に関する議論の方向を指摘している。第一に,この問題が科学方法論の領域における問題ということを確認し,その範囲で数学あるいは数学的方法の性格とその適用の可否を検討することである。第二に,推進派は数学を利用した具体的な作業を俎上にのせ,現実の経済分析がどれだけ進んだのか,経済的認識がどこまで進んだのかを示すことが必要である。第三に,歴史科学としての社会科学を再認識し,この観点から科学の発展をはかることである(数理科学的手法の適用によるのではなく)。

池永輝之「経済学と数学利用-関恒義教授の所説の検討-」『岐阜経済大学論集』第17巻第2号,1983年6月

2016-10-18 11:33:14 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
池永輝之「経済学と数学利用-関恒義教授の所説の検討-」『岐阜経済大学論集』第17巻第2号,1983年6月

 1970年代,保守反動の日本の政治が革新のそれへと転換する可能性が語られ,大きな政治運動となった。民主勢力は経済民主主義を標榜し,そのための政策立案を唱え,民主的経済モデルの構築を課題とした。マルクス経済学は新しい可能性をもとめ,一部の論者は近代経済学の体制弁護論的性格を批判すると同時に,その方法を批判的に摂取すべしと主張した。当時,その典型的な論客のひとりだったのは関恒義(一橋大学)であった。

筆者は本稿で,この関の経済理論を批判することをメインテーマとし,それとの関わりで,経済学において数学的方法を利用することが理にかなったものなのかを論じている。

筆者による関理論の整理と理解は,次のようである。取り上げられている関の著作は,『現代資本主義と経済理論』(新評論,1968年)と『経済学と数学利用』(大月書店,1979年)である。関によれば,近代経済学批判はその社会的・政治的役割の暴露,イデオロギー批判でなければならないとする。この主張は,近代経済学が現実の社会で果たしている反動的な役割,経済社会の基本的法則の隠蔽と歪曲を基本としていることの解明が重要であるとするものである。そのコンセプトは,近代経済学をその方法論から内在的に批判する立場との差別化である。

近代経済学批判は,それが前提としている方法,とりわけ数学的方法の排除を意味しない。むしろ,それらを積極的かつ批判的に摂取しなければならないし,すべきである。関の経済学の立脚点は,民主連合政府の樹立である。現代マルクス経済学の課題は,逸にかかって経済民主主義の構築にある。経済民主主義の構築の要諦になるのは,民主的経済モデルの作成である。そのためには数学利用は不可欠である。数学的方法(計量経済学の手法)の利用なしに,モデルの作成はありえないし,不可能である。その根拠は,経済学は量的性格の強い社会科学であるからである。数学は高度に抽象的で,汎用性をもち,論理的に厳密な科学であるが,その数学利用の科学方法論を準備できるのは,ひとりマルクス主義ないし科学的社会主義だけである。くわえて労働運動・民主主義運動が必然的に要請する政策課題に応えるためには,そうした運動と近代経済学批判を結び付けることが重要である。具体的・数量的解決策の提示は,それらの運動を支えるよりどころである。         

 概略,以上の関恒義の主張に対して,筆者は方法論批判の観点から近代経済学批判にアプローチする。近代経済学の理論と体系とその性格に対する批判は,それに固有の科学方法論についての批判を経由して初めて十全な科学的批判となる。なぜなら,方法は思惟が客観的過程を把握する認識過程であるからである。

 経済学は量の科学であるから数学が利用されなければならないと言う関の主張に対しては,経済量と数学が扱う量(質に無関与)との相違をおさえた上で,関が一方で数学を純粋に量的関係のみを扱う科学であると言いながら,他方で質と量との相互関係を明らかにするところに数学利用の根本問題があるとしている点に関の混乱をみている。そして価格や家計の例を引いて,それらの質の解明には量的表現が不可欠ではなく,ましてや質と量との相互関係を経済学の一義的課題として設定するのは誤りであると断じている。また関は,科学が発展すればするほど量的分析をとおして解明される必要性が高まり,科学全体が精密な思考を必要とするようになると述べ,経済諸量の相互関係を明らかにするには数学利用が不可避と主張しているが,そこにあるのは信じがたい数学信仰である。数学の利用は科学の精密性を保証するとは限らないし,経済諸量の相互関係の解明に主導的役割を果たすのは経済学の論理である。

 関がマルクス経済学でも数学利用を積極的に行わなければならない根拠として挙げた理由に,民主的運動の「よりどころ」を提示する必要性があった。これは政治的要請から導かれた根拠づけであるが,これは民主的経済モデルの政治的必要性から数学利用という科学的結論を説く,科学的にあってはならない顛倒した考え方である。筆者はそのことを確認して,関による計量経済学(モデル)の評価の仕方を検討している。計量経済学(モデル)に対しても関は,その体制弁護論的性格を批判するものの,その利用の仕方=政治的悪用を避ければ,立派に科学的方法として利用可能であるとする。計量経済学の方法的特質は,現実の経済過程を確率的世界とみなす誤った世界観にもとづき,その根本的,致命的欠陥は現実の経済過程に本来適用できない,適用しても意味のある結果をえられるはずのない方法を,あたかも科学的方法であるかのように扱うことである。関にはその論証がないし,このことはそもそも論証できるはずのないことである。

 理論は事実の具体的分析の導きの糸である。それは諸現象の背後にあり,それを規定する本質を論理操作にもとづいて一つの概念体系に構成したものである。この理論たるものの正しさや科学性が計量モデル=数量表示によらなければならない,というのはプラグマティックな発想であって認められない。

 関は数学的方法によって客観的対象の認識が深められると主張していたのであるが,その論証の不十分なままに,あらたによりどころの提示という主張で,数学的方法の有効性を根拠づけようとしたが,前者の論証が不十分であれば,後者の主張もその根拠を失う。民主的経済モデル構築の主張は,科学的基盤を欠いた空虚な政治スローガンにならざるをえない(p.34)。

山田耕之介「経済学における数学利用と経済学の数学化」『金融経済』(金融経済研究所)第200号,1983年

2016-10-18 11:31:39 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
山田耕之介「経済学における数学利用と経済学の数学化」『金融経済』(金融経済研究所)第200号,1983年

 本稿の目的は,数学利用それ自体が自己目的化した感のある近代経済学の現状とともに,マルクス経済学の内部にもそれが飛び火するかのように経済学に数学利用を唱える論者の,すなわち関恒義の方法論を批判的に検討することである。具体的には関恒義『経済学と数学利用』(大月書店,1979年)が批判の俎上にあげられている。

 全体の構成は,「経済学の量的性格」「経済量の性格」「経済学の数学化」からなる。ジェボンスによれば,経済学への数学利用の最初の試みは18世紀初めのことと言う。そのような例もあったが,経済学は長く数学利用に積極的でなく,むしろ経済学への数学利用に対する批判的見解がたえず存在した。マルクス,ケインズしかり,マーシャル,ミル,マルサスも懐疑的であった。しかし,19世紀以降の自然科学や技術の目覚ましい発達,そして近時の情報機器の飛躍的進化はそれを担った数学への評価を高め,次第にいわば「外圧」として経済学も数学に対する誘惑にかられる傾向が強まった。その結果,経済学はそこに数学が使われれば使われるほど現実から遊離し,現実的有効性を示した例は何一つ現れない事態が招来した。

 関による上記の著作は,マルクス経済学の立場から初めて,数学利用の積極的理由を明らかにした。この著作は,経済学が社会科学の中で最も量的性格の強い科学である,という一文で始まる。関による経済学への数学利用の論理は,特別のものではなく,普通にみられるもので,要するに経済学が量的性格をもつのは,そこに登場する理論的範疇としての諸概念が貨幣表示され,一定の貨幣量として現象するという経験的事実にもとづく言明にすぎない。

 しかし,筆者は経済学の扱う理論的範疇の大多数が貨幣表示され得るという理由で,経済学が量的性格の強い科学であり,それを数学利用の根拠とするのはおかしい,と断ずる。ここで言われる根拠は,数学そのものが日常生活において必要とされ,利用されている理由にすぎず,この事実でもって経済学における数学利用の正当化の理由にはなりえない。

 このことと関係して,数学利用を主張する論者には,貨幣表示されている量が経済量であるという誤った先入観がある。筆者はこの問題提起を行って,次に経済量とは一体何なのか,関連して経済学が対象とするものの質と量とをどのように理解すべきか,という問題の考察に入る。いくつかの例をあげての考察になっているが,結論として言わんとしているのは,経済量というものは何か客観的存在として独自にあるものではなく,対象のどの側面をどういう目的でとりあげるかによって,ひとつの量が経済量ともなり,そうでなくもなるということである。

 関は「質と量とは,事物を規定する基本的な二側面である。この質と量との相互関係をあきらかにするところに,数学利用の根本問題がある」と述べる。重要なのはここで,関が質とはひとえに事物そのものに,また量は事物そのものにかかわる数(測定できる数値)であると思い込んでいることである。筆者によれば関の見解は誤りで,質はある物がどんな物であるかを示す規定性である。このある物を規定する質は,その物の多面性を反映して多面的であり,無限である。そしてそのひとつひとつの質はその質に規定された量をもつ。つまり,あらゆる物はその質的側面の多様性に応じてそれだけ多くの量的側面をもつ。したがって何を問題にするかという分析の目的に応じて,その問題にとって本質的といわれる質的側面が定まる。それぞれの個別科学によって扱われるのは,特定の事物の質的性格ではなく,事物の特定の質的側面とその量である。
筆者は経済学における数学利用というより,経済学が数学化していることに懸念をもっている。引き続き関恒義の議論を敷衍し,疑問を投げかける。関の見解は,人々が同質であると直接認識できるような形で存在しているものだけにしか数学が利用できないというのであれば,その利用の範囲が限られるが,異質と見えるもののなかに同質なものを見出せば数学利用の範囲が広がっていく,と解釈できる。質はそれぞれの事物について異なるが,量は諸事物に共通の側面である。具体的に存在する異質なものを前提として,それらの物のなかに貫く同質性を抽象することは,物質性という低次の質まで下降していくことである。あらゆる異質性が抽象されたのちに残る低次の同質性にたどりつくというこの主張に,「異質性をつらぬく等質性の抽象」という数学利用の必要・十分条件を重ね合わせると,この条件は自己目的としての数学利用に適う説明になるが,経済学にとって意味のある利用ということを考えると避けられなければならない。

 問題が経済学における数学利用である限り,それは個別科学としての経済学が対象とする質的側面に終始した利用でなければならない。数学は質的側面を捨象した純粋に量的な関係や形式を問題とするものであるが,質的側面の捨象というのは質を考えないということではなく,異なる事物の間に同質性を仮定することである。数学利用それ自体がただちに同質性の仮定になる。したがって,この仮定のもとで展開される数学的演繹の結果は現実にこの仮定が満たされるかぎりで現実に妥当する。
この同質性は3つの存在様式(無機的自然,有機的自然,社会)によって異なる。これらの存在様式のなかで,もっとも複雑な質的変化を特徴とする社会は,同質性を前提できる範囲が極端に狭い。

 純粋に量的な関係を扱う数学が経済学において補助的方法以上のものになりうることは,絶対にありえない。いまだ解明されていない経済過程を数学にたよって明らかにしようとしても,それは無駄な試みである。数学を推理=分析の手段として経済学で使うことは許されないことである。

 数学利用を説く人々が事実の問題として対象の質的分析をおろそかにし,数学的推論を用いて分析を行っている現状は,経済学における数学利用ではなく,経済の数学化を図ることにつながる。そこでは,数学を利用すべき経済学が独自の存在としてその主体性を失っている。

石倉一郎「社会科学(経済学)と自然科学,対象と方法論-社会統計学派の理論的基調にふれて-」『統計学』(経済統計研究会)第39号,1980年9月

2016-10-18 11:27:19 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
石倉一郎「社会科学(経済学)と自然科学,対象と方法論-社会統計学派の理論的基調にふれて-」『統計学』(経済統計研究会)第39号,1980年9月

 前半では人間社会と自然との一般的関係が論じられている。社会科学でこの関係は得てして,自然が人間の改造の対象として一面的に捉える傾向が強かったが,よく考えてみると人間といえども自然の一部であり,その社会は自然の影響を大きく蒙っているのであるから,両者は相互に作用する関係のなかで考察されるべきであり,それこそが弁証法的な考察になりうる。事実,マルクスは初期に既にそのような理解をもち,『資本論』でもこの視点は一貫している。現代の哲学者,A.シュミット,F.フィードラーもこのことを強調している。

 筆者は以上のことを確認したうえで,自然には2種類あると言う。「二つの自然」という問題提起である。一つは,「根源的あるいは純粋の自然」である。もう一つは,「人間社会との相関にある自然」である。これらは,同一現象の思惟による抽象度の相違によるものであって,いわゆる「天然自然」と「人為の加えられた自然」との区別とは異なる。筆者は「人間社会との相関にある自然」は自然と社会との境界領域に存在するものととらえ,ここにこそ多くの現代的諸問題が発生しているとみる。

 それでは,社会統計学派は社会と自然との関係をどのように理解しているのだろうか。筆者によれば,第一に,この学派は両者を峻別しているとみる。もっとも,筆者はこの学派が「人間社会との相関にある自然」を否定しているのではなく,社会と峻別されているのは「根源的自然」である。数理統計学が対象とするのは,この「根源的自然」である。
第二に,現象の数量化は自然現象と社会現象とを問わず,それらの特定側面を抽象して認識するという,限定された一つの技術的過程である。社会現象の数量化は,社会認識の手段としての「統計調査」という一つの技術的過程である。自然現象のそれも同様に「実測」という一つの技術的過程である。しかし,「統計調査」と「実測」とは異なった性格をもつ。

 このように現象の数量的認識過程が限られた一つの技術的過程であるということは,統計学が方法科学であることに対応する。統計学はその数字を作り,批判し,解釈し,利用する方法についての科学であるがゆえに,その限りで自然現象と社会現象とは峻別されるのである。要するに,社会科学と自然科学とはその対象そのものが密接に関連しているので,両者は共通の問題意識と緊密な協力のもとに研究を行わなければならない。この視点は,自然現象と社会現象を峻別する社会統計学派の立場と矛盾しない。その峻別は「根源的自然」についてなされているのであり,一般に数的資料の作成の仕方,使い方という限定された研究方法次元に限られるものである。問題なのはこの限定された範囲における峻別を,世界観や科学者の基本的問題意識の領域,あるいは社会科学全般の方法論にまで拡大することである。

 社会統計学派にとって,「根源的自然」自体は社会統計学のあずかりしらぬところであり,その意味で統計の対象ではない。しかし,社会的意味や関連のある自然(「人間社会との相関にある自然」)の計測結果は,この学派においても統計と見做されている。

筆者は最後に,科学方法論全体のなかで社会現象と自然現象とでそれぞれの性格がどのように異なるかを比較,検討する。そのなかでまず,一方で自然法則は自然現象のなかで斉一的に貫徹するが,それとて進化の段階によって一様でないこと,他方で社会現象にも人間の意思から独立して法則が貫徹するが,人間は科学をとおして法則を認識し,その法則を利用して環境を変えることができること,しかし社会法則は人間の主観的な意思にもとづく行動を通じてのみ貫徹するので,表面的には複雑に変化する多様な現象をつうじて現れることが確認されている。社会現象と自然現象,社会法則と自然法則とは根底において共通な性格をもちつつ,異なる側面をもつのである。

 筆者によれば科学の方法は,次のように分類可能である(『科学・技術と社会科学』)。(1)経験的実証的方法,(2)数量的方法,(3)抽象化の方法,(4)実験,(5)動的発展的見方。

これらのうち,(2)数量的方法と(4)実験は,(1)経験的実証的方法と(3)抽象化の方法よりも下位に位置する研究手段であり,(5)動的発展的見方は,研究の基本的態度あるいは研究方法である。さらに,(3)抽象化の方法は,複雑な関連のなかにあり種々な現れ方をする現象から夾雑物を捨象し,基礎的本質的なものを明らかにする方法で,これは社会科学でも自然科学でも採用される。筆者はこの方法をマルクスのいわゆる上向・下向の方法に相当すると,付け加えている。関連して,科学の階級性の問題が方法論の問題に解消できないとして,特別に議論の対象として取り上げられている。とくに自然科学にも階級性が存在することが強調されている。いずれにしても,研究方法の段階では,自然科学と社会科学の方法論は本質的に共通であるが,その適用の度合いで相違がある。

 「実験」は狭義には,隔離状態あるいは模型をつくって現象をもたらす要因の影響を再現する手段であるので,社会科学には適用できない。もっともそれは自然科学でも万能ではない。「数量的方法」には統計方法および統計的方法のことであるが,この他に数字と記号の両者からなる数式の展開や数学の理論によって実体科学の理論を構成する手段的方法(解析的操作-戸坂潤)が含まれる。この方法は社会現象にも自然現象にも共通に利用される。しかし,統計方法,統計的方法および解析的方法は,数的指標のもつ重要度,数字や数式の意義,見方,利用の仕方,その際の問題点,有効性など,具体的な適用となると両者では大きく異なり,とくに社会現象への適用の場合には独特の問題が生じ,概して利用可能性は狭くなる。同様のことは自然科学にも言えることである。

本稿で展開されている議論の密度は粗いが(隙間が多い),問題提起として理解できる。結論は自然科学も社会科学も客観的対象を研究する科学として,その方法および手段はもっとも基礎的部分では共通しているが,具体的適用段階になるにしたがい,相異なる。統計学は方法科学であるがゆえに,その資格と範囲によって,すなわち自然と社会という適用の領域によって峻別されるが,それは方法論の具体的手段の段階における相違として理解すべきである。これらの2つの科学の関連性とその方法手段の共通性は,自然社会現象の客観的統一性にもとづく。マルクスの上向・下向の論理は社会科学,自然科学を通じた共通の方法論であるが,自然科学で使われる数量的方法を社会科学に無反省に導入することは誤りである。それと同時にその誤りを排撃するだけで終わってはならず,両科学の規定部分における共通性を否定してはならない。