社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

藤江昌嗣「統計利用をめぐる諸問題」『統計学』第69・70号,1996年

2017-10-21 10:58:08 | 2.統計学の対象・方法・課題
 当該テーマに対する筆者の見解を,コンパクトにまとめた論稿。情報化社会の現状をふまえ,統計利用論の過去,現在,未来が論じられている。構成は次のとおり。「はじめに」「1.統計利用問題についてのサーベイ」「2.統計利用における諸問題」。
 統計利用の問題は,蜷川虎三の統計学の要諦である。蜷川統計学は,利用者のための統計学として体系化された。蜷川にあっては,統計による研究目的,「大量」を意識した「統計の本質」と統計方法との関係の吟味は統計利用の基本的問題として位置づけられた。その後,上杉正一郎によって統計の対象反映性,対象歪曲性という二面がとりあげられ,また内海庫一郎によって認識論的統計方法批判が展開され,大屋祐雪によって,統計利用の社会性・歴史性が検討されるようになった。

 筆者は過去の統計利用論を整理するにあたり,『社会科学としての統計学(第1集)』(1976年),『社会科学としての統計学(第2集)』(1986年)に掲載された関連論文にあたり,問題点を摘出している。『社会科学としての統計学(第1集)』では,濱砂敬郎による統計利用研究の2つの立場の区分([A]統計の利用方法に関心をよせ,社会現象の研究におけるその意義を捉える立場,[B]統計利用そのものを考慮して,その特徴を明らかにする立場)を手掛かりに,前者の立場に属する統計利用論として内海庫一郎,大橋隆憲のそれが,また後者に属する利用論として大屋祐雪のそれがあげられている。

 『社会科学としての統計学(第2集)』では近昭夫,伊藤陽一,濱砂敬郎の見解を要約して掲げている。近は大屋による「反映・模写論」と野澤正徳を筆頭とする「新しい政策科学」の展開を批判し,前者については「統計批判」の欠落を,後者に対しては民主的改革と民主的経済政策を最優先におきことへの疑問,経済研究における数学的方法の利用に関する従来研究の反故を指摘した。

 伊藤は統計利用論の課題として,(1)個別分野での統計分析,(2)統計指標研究の深化,(3)数理的諸操作の研究と開発,(4)数量的計画・政策を掲げた。濱砂は(1)統計利用鵜論では政府的統計利用の諸形態を,その論理的構造と歴史的具体相について全面的に明らかにすること,(2)プライバシーの新しい権利規定=「個人情報に関する自己決定権」が統計調査の秘密保護の基礎に据えられることで,統計調査と統計利用が影響 を受けていること,(3)統計利用の社会科学的考察の立ち遅れの対象的要因として,統計利用が政府部門の行政行為の一環として存在すること,などを指摘した。

 筆者はまた,木下滋・土居英二・森博美編『統計ガイドブック』(1992年)を取り上げている。そこでは「統計数字の二重性」と「統計体系と統計利用」の視点が明確に打ち出され,その意味で「統計の本質」と「統計利用目的と方法との関係」,そして「統計指標体系化」という研究課題が受け継がれている,と指摘している。また,現在の社会を「情報ネットワーク社会」ととらえたうえで,筆者は統計と非統計(記録,データ)の区別と両者の情報範疇への包摂という問題が新たに提起されているとみる。野澤は「情報ネットワーク」を視野に入れてこそ初めて統計学は現代の統計活動の特徴をとらえることができ,現代の社会・経済にそくした方法を発展させることができるとし,「統計学」から「統計情報学」への発展を展望している。𠮷田忠は社会情報が事実資料という形態をとったとき,そこに社会関係の調査・記録と,社会集団現象の記録・調査の区別を行うことが重要であるとしたうえで,「社会環境からの制約のもとでの統計資料の作成・利用過程の社会科学的因果分析を行うこと」を社会統計学の課題としている。

 筆者は以上のサーベイを終えて,次に統計利用の諸問題を3点,論じている。第一は「主体間の関係(コミュニケーション関係)の変化と真理性の問題,第二は「統計情報化」・利用目的の多様化と利用過程の分析(重層性と体系性),第三はプライバシーと情報公開・地方分権,である。
第一の問題は,統計環境の変化のなかで,従来型の「調査客体-調査主体-利用主体」という枠組みが「調査主体」を抜いて「報告・発信主体(調査客体)-利用主体」という主体間の関係に変化していることを踏まえ,新たな観点からの調査論,利用論が登場してくるという論点である。第二の問題は,統計利用の問題が「統計」と「情報」の融合と利用ニーズの拡大,利用目的の多様化とともに,「統計・非統計(データ)利用における問題」となって現れてくるということである。今後は様々な社会的課題に応えるために「統計・非統計(データ)利用」という地平での統計的方法と情報処理手法の実践を行いながら,この利用の過程を歴史的社会的過程との関連性や被規定性においても階層的重層的に捉える作業がもとめられている。第三の問題は,ネットワーク技術の発展と情報利用ニーズの高まりのなかで,一方で情報は個人,企業,政府などのもつ情報が公開・開示の対象となるものに,他方でプライバシーや営業秘密をたてに保護の対象ともなることから派生する一連の事態である。企業,政府,自治体における統計・情報の管理はそれらの組織における意思決定の在り方と関係しており,その管理実態の把握とともに情報公開における分権化の推進も統計利用の大きな課題となっている。

森博美「データ論についての覚え書き-内海庫一郎会員が提起したもの-」『統計学』第96号,2009年3月

2016-10-06 10:41:23 | 2.統計学の対象・方法・課題
森博美「データ論についての覚え書き-内海庫一郎会員が提起したもの-」『統計学』(経済統計学会)第96号,2009年3月

蜷川統計学の大量概念に対して,そこに弁証法がないこと,統計対象は単位としての個人,家計,企業があればよく,集団である必要がないことを指摘した内海庫一郎の議論を踏まえ,その問題提起が今日の統計個票情報の情報特性とデータの潜在的拡張可能性につながることを論じたのが本稿である。機関誌『統計学』の「フォーラム」への寄稿である。

筆者によれば,蜷川統計利用論は日本における二次利用の統計学の嚆矢であった。しかし,蜷川の後継者は二次利用者に利用の具体的な指針を提供せず,取り組んだのは集団論,統計対象論,統計学の学問的性格論の展開という方向での継承であった。それは,結果的には,蜷川に内在した現実許容的要素を排他する方向での継承であった。

内海庫一郎が比較的早い時期から蜷川統計学の問題点を批判的に論じていたことは,よく知られている。蜷川以降の社会統計学では,集計にともなうアグリゲーションのレベルの問題が部分集団の編成問題に解消されてしまったが,内海の統計=個体説に即して当該の課題に接近すると,統計学の課題は集計量を前提とした統計学が射程の外においた個体の検出とその除去,アグリゲーションにともなうバイアスの問題となる。

そこで問題となるのは,それ自体,非統計情報である調査単位の識別情報がdata carrier として個体に関する一連の変数情報(data body)を担っていることである。この点に着目すると内海による蜷川批判の先見性が見えてくる。言うところのdata body には,個体の属性や標識にあたる統計調査項目,調査時点や場所情報,実査の場で調査員が独自に把握した調査区や個体関連情報が含まれる。統計個体情報が統計単位というcarrier が担う多次元ベクトルからなるという情報特性は,個体識別情報をインターフェースとした異種の調査からのdata bodyを接合して利用する可能性を示唆する。これによって,data body の変数ベクトルの次元を拡張でき,統計操作面では静態データと動態データを接合した新たなタイプの統計の作成を,また利用面では新たな変数の組み合わせによる多次元クロス集計あるいは重回帰分析を可能にする。調査面での不備から生じたバイアスを除去することも可能になり,対象認識の質の改善にもつながる。筆者はさらにdata body 変数情報の縦断的接合の可能性を longitudinal data やパネルデータにみて,そこに時点間の推移という時間的要素を内包した静態量と異なる動態的性格をもつ集団構成を,また時間に関して不変な個体間の差違の固定効果としての抽出による変数の関与を統御した推計結果の獲得を展望している。

 筆者は,以上のような統計個票情報の利用可能性についての議論を深めることはとりもなおさず,内海の問題提起の延長線上に想定される諸論点,すなわち集計量に内在するバイアス,弁証法的調査のあるべき調査方式,データ構造と情報損失に関わる諸論点を掘りこすことに他ならないと考えるのである。

水野谷武志「統計制度改革の国際的動向と統計品質論」『統計学』第90号,2006年8月

2016-10-06 10:39:54 | 2.統計学の対象・方法・課題
水野谷武志「統計制度改革の国際的動向と統計品質論」『統計学』第90号[創刊50周年記念号]2006年8月

1990年代に入って国際的に活発になった統計品質論の内容,背景,それに関する先行研究を紹介し,日本の社会統計学との関わりについて論じた論稿。統計品質論とは,筆者によると,統計データの質,統計の生産から配布までの経過,さらにその過程を支える統計制度の質を問う一連の論議である。そこで重視されるのは,①統計利用者のニーズを重視し,②統計の質を評価し,結果を公表する過程までを射程に収め,③統計的生産物(一次統計資料や分析結果を含む最終生産物および統計基準等を含む中間生産物)を生産物一般の品質管理論としてとらえることである。

 最初に国際的な統計品質論議の動向が紹介されている。その背景にあったのは,1994年に国連統計委員会で採択された「政府統計の基本原則」の採択である。この「政府統計の基本原則」は,移行国を含めた全ての国に適用可能な政府統計の基本原則づくりの動きの成果としてまとめられたものであり,国際的な統計品質論議はこの原則が国際的に周知されていくプロセスと併行して展開された。アジアにおける通貨・経済危機と踵を接して生まれた90年代後半の統計への不信,先進国での統計予算の抑制,情報公開とプライバシー意識の浸透なども背景にあった。21世紀に入っての国連ミレニアム開発目標に象徴される,世界的規模での諸問題を統計によって把握し,改善の方策を模索し,その進捗度を測ることの重要性の国際諸機関や統計学界による認識がこれに連動した。 

 具体的にあげられているのは,(1)IMFによる金融関係の統計の作成と公表における基準の設定とそれにもとづく加盟国の統計情報の評価と公開,(2)EUROSTAT主催の「政府統計の品質と方法論に関する欧州会議」開催,(3)国連統計委員会・Q2004サテライト会議の開催,(4)国連統計部による『統計組織ハンドブック[改訂]』の発刊,である。筆者はさらに,その他のいくつかの注目すべき動向を紹介し,結論として,この時期の統計の品質論議が従来の統計誤差をめぐる議論を超えた一国の統計制度全体の在り方にまで及んでいること,国際機関の生産・編集する国際統計の品質に関する議論にまで深化していると小括している。

次に日本でのこの分野の先行業績の要約がある。経済統計学会会員によるものと,会員以外によるものとに分けて整理されている。何と言っても大きな貢献を成したのは,伊藤陽一である(伊藤陽一「アメリカ合衆国連邦統計における1990年代後半の統計改革」[1999],同「『統計の品質』をめぐって-翻訳と論文」[1999],同「統計の品質に関する総合的な枠組みの提示-政府統計における品質に関する国際会議」[2001],など)。筆者は伊藤の貢献を3点にまとめている。第一に,当該分野での論議の背景説明を綿密に行っていることである。第二に,議論がカバーする分野を5つに整理したことである(①品質評価の対象,②評価対象ごとの品質構成要素とその相互関係,③品質評価者と品質評価の方法,④品質評価結果の公表,⑤品質管理とその体制)。第三に,この国際論議の内容を次のようにまとめたことである。すなわち論議が日本での統計の信頼性,正確性の議論の内容を超えていること,議論が世界的規模に及んでいること,経済統計に限らない社会統計までも視野に入っていること,現実的改善策の提起があること,論議が地方統計,中央政府統計,国際統計のレベルで検討されるべきことの示唆があること,統計利用者ニーズを重視することのメリットとデメリットを指摘したこと,論議の意義を認めながらもその適用が国際統計機関構成員の意向を無視し,長時間労働を強いる可能性があることを指摘したこと,以上である。

 筆者は続いて,IMFが設置している統計の品質論議に関連するサイトの紹介を行っている。それらはSDDS(Special Data Dissemination Standard),GDDS(General Data Dissemination System), DQRS(Data Quality Reference Site)である。また,Q2004での統計の品質に関するEurostat の活動が紹介されている。さらに国連統計委員会主催のQ2004サテライト会議,国連統計部『統計組織ハンドブック』の説明がある。

 結論部分で,筆者は伊藤陽一の議論を踏まえながら,論点整理と問題提起を行っている。そのうちの主なものをあげると,統計調査の企画段階での民主制の保障,情報公開,プライバシー保護,統計調査員の意見の聴取などが必要であること,統計の品質保証の対象を統計的生産物,統計基準・方法,統計制度まで含めるべきであること,この一連の論議へのアジアや途上国の参加を加速化すべきこと,品質論議での品質保証の枠組みが並列的なので,これを是正すべきこと,などである。日本の社会統計学ではすでに統計の真実性(信頼性,正確性)の評価に関する議論が相当細かく議論されている。国際的な統計の品質論議ではこれらの議論と重なる部分も多いが,視野が広がっているので,それとの対応が必要である。しかし,この分野の研究への関心は,研究者レベルでも政府統計関係者の間でも十分でない。

木村和範「統計的推論の普及とその社会的背景」『数量的経済分析の基礎理論』日本経済評論社, 2003年

2016-10-06 10:38:16 | 2.統計学の対象・方法・課題
木村和範「統計的推論の普及とその社会的背景」『数量的経済分析の基礎理論(現代経済政策シリーズ11)』日本経済評論社, 2003年

 統計的推論は, 1920年代から30年代にかけ, 医療・農業・工業・統計調査の分野で急速な普及をみた。本稿では, 統計的推論がこの当時の社会的・経済的問題を解決するために利用されるようになった経緯が, 要領よくまとめられている。筆者は, 4つの分野での課題と統計的推論との関係を, すなわち, 医療における免疫製剤や新薬の開発, 農業における食糧難を背景にした農事試験, 工業の分野における大量生産の普及(品質管理), 経済の分野における政策立案のための迅速な準備(標本調査)を, この順序で解説している。以下は, その要約である。

 統計的推論の医学的研究分野での普及の背景にあったのは, 「イギリス人口統計の父」と呼ばれるW.ファー(1807-83)の統計に対する強い関心と牛痘接種法の有効性をめぐる論争である。前者に関連して, 当時, イギリスでは悲惨な労働者階級の状態があり, その根幹にあった劣悪な住環境のもとでの衛生条件の改善が喫緊の政策的課題となっていた。統計とくに人口動態統計は, この政策実現のために必要不可欠な基礎的資料とされた。医師であったファーはこの時期, 人口登録局に迎えられ, 統計整備に多大な貢献をした。

その後, ファーが意図した仕方とは異なったが, M.グリーンウッドはユールと共同で免疫製剤の有効性を仮説検定法によって判定しようと試みた論文を執筆した。痘瘡の予防接種(牛痘接種法)の是非をめぐる論争は, 統計的推論が医学的研究へ普及していく契機となった。この論争につづいて, 細菌学の分野での進歩, さまざまな病原菌の発見があり, 踵を接して免疫学分野での研究が進捗した。免疫剤の薬効判定で, 統計的仮説検定の利用が試され, 次第に恒常化した。ホグベンによれば, 仮説検定法は1930年代以降, とくに新薬の合成, 抗生物質の開発が進むにつれ, その有効性の手早い判定法として多用された。

 統計的推論が積極的に応用された他の分野は, 農業生産(農事試験)と工業生産の分野(統計的品質管理)である。このうちまず, 農事試験の分野における統計的推論の応用について。舞台となったのは, R.A.フィッシャーが研究員として登用された1919年以降のローザムステッド農事試験場である。フィッシャーがこの試験場で行ったのは, 多因子少水準系・少因子多水準系における比較実験の計画(実験計画法)と, 膨大な実験データの解析であった。筆者はここでフィッシャーの実験計画法のやや詳しい説明に入り, フィッシャーの業績であるランダムな配置法(乱塊法とラテン方格法)とF分布よる分散分析法が, 一方では国策としての農事試験場の新興を背景に, 他方では1934年に発足した王立統計協会の活動に支えられ, 1930年代以降のイギリスに普及していく事情を概説している。

 もう一つの工業生産に応用される統計的推論の中心は, 抜き取り検査による管理図技法と統計的仮説検定法である。これらの手法は1930年代に, 一部の企業だけでなく, 一国の産業全体で重要視された。それも統計的品質管理発祥の地であるアメリカではなく, イギリスにおいてである(アメリカでは1940年代以降)。統計的品質管理技法は, 1923年にアメリカ電信電話会社の系列会社である電話交換機メーカーのウェスタン・エレクトリック社で, 電話交換機の検査に確率論が応用されたのが最初である。統計的品質管理に管理図(棄却される製品個数の最小化と検査費用の最小化)がシューハートによって考案された1924年を, 統計的品質管理の最初の年とする説もある。いずれにしても, 資本主義的大量生産の普及なしに, この手法の登場はなかった。これらのアメリカで誕生した統計的品質管理の理論は, その母国で一般化することなく, 1930年代のイギリスで顕著に展開された。これには, ピアソンの寄与が大きかった。シューハートと個人的な交流のあったピアソンは, 1932年12月, 王立統計協会主催の研究会で品質管理と標準化について, 記念碑的報告を行い, これを受ける形で王立統計協会のなかに「工業と農業の分野における統計的方法の理論と応用に関する研究会」が設置された。さらに, ピアソンはネイマンと共同で, 統計的品質管理に適合的な統計的仮説検定論を提示し, また区間推定論が特殊な仮説検定論としてその体裁を整えた。なお, アメリカで統計的品質管理が一般化していくのは, 第二次世界大戦を契機とし, 1940年代以降である。

 筆者は最後に標本調査の事例研究について論じている。標本調査は17世紀以来, 個別的分野で試みられ, 18世紀には人口統計の分野で多用された。アメリカで標本調査が展開されるようになったのは, 19世紀の半ば過ぎである(農業統計, 経済統計, 社会調査の分野で)。これらは「先駆的な段階」の初期の事例であった。本格的な「近代的な標本調査=任意抽出法」が用いられるにいたるには, 1930年代まで待たなければならなかった。1930年に前後しアメリカで, 選挙前の世論調査に任意抽出調査が活用された。また, 雇用・失業調査, 都市居住者家計調査, 消費者購買力調査, 国民健康調査など, 多くの社会調査にこの方法が適用された(1930年代のアメリカで任意抽出調査が一般化していった要因として, 筆者は2つあげている。第一の要因は深刻な失業問題で, その基礎資料として雇用・失業統計の作成が急がれた。第二の要因は調査を実施する人員が十分に確保されたことである)。
任意調査法といえば, イギリスでボーレーが行ったレディング市労働者調査がある(1912年)。この国では引き続き, 1930年代に, 小標本理論の展開を背景として, 任意抽出調査が実施されるようになり, 方法が次第に社会調査に受容されていった。

 最後に, 筆者は任意抽出法の数理的展開がA.N.キエール(ノルウェー中央統計局)の主導した国際統計協会の活動に依拠したことについて, とくに言及している。

 「むすび」では, 1940年代以降の国際的緊張関係のなかでのアメリカ統計学会の動向に関して, とくにアメリカ数理統計学会が「戦争準備委員会」を発足させ, 数理統計の専門家をして国防計画に寄与せしめる分野を列挙し, その方向で研究を進めたことに注意を喚起し, 稿を閉じている。

 本稿は, 筆者によるテキスト『数量的経済分析の基礎理論(現代経済政策シリーズ11)』に収められた付論である。

山田満「『統計利用者のための統計学』から『公民権のための統計学』へ-ヒンデスの官庁統計論との関連で-」『統計学の思想と方法』北海道大学図書刊行会,2000年

2016-10-06 10:36:50 | 2.統計学の対象・方法・課題
山田満「『統計利用者のための統計学』から『公民権のための統計学』へ-ヒンデスの官庁統計論との関連で-」杉森滉一・木村和範編著『統計学の思想と方法(統計と社会経済分析Ⅱ)』北海道大学図書刊行会,2000年

 本稿の課題はB.ヒンデス統計論を社会科学認識論の観点から,蜷川統計学と対比し,その相違を浮き彫りにしながら前者の提起した問題と限界を明らかにすること,その延長で蜷川的な「統計利用者のための統計学」を「公民権のための統計学」へ架橋することである。
哲学(認識論)的,思弁的内容の論稿であり,アルチュセール流の独特の思想(観念)を基盤に,他に置きかえにくい(筆者にあっては恐らく置きかえてはいけない)表現,用語が多用されている。そこで筆者の文章にできる限り沿いながら(引用を厭わず),内容の要約を行わざるをえない。

  ヒンデスは,ポスト・マルクス,ポスト・アルチュセール派の代表的な政治理論家である。アルチュセール理論の研究と普及を目指した「理論的実践グループ」に属し,出生作は『労働者階級政治の後退』,代表的著作に『社会学における官庁統計の利用』(1973年)がある。後者で彼は官庁統計の基本性質を統計データ生産の原理的次元にまで遡って検討し,その認識論的価値を評価している。その関心は官庁統計の成立基盤そのものを問い直し,批判的に分析することであった。言うまでもなく,日本でドイツ社会統計学を批判的に継承し,とりわけ官庁統計の批判的吟味を課題にかかげ,それを基礎に「統計利用者のための統計学」という視点から社会統計学の独自の体系を構築したのは蜷川虎三である。両者には,きわめて強い親近性がある。

 ヒンデスによる統計論の特徴は,社会学主流派の実証主義と異端派の社会現象学・エスノメソドロジー(認知社会学)の対抗関係を意識し,その制約のもとで構成されている点にある。このためその統計論は,官庁統計学をめぐる社会学論争のなかで展開され,官庁統計論という限定された領域で,しかも「認識論的・方法論的」枠組みでのみ論じられた。実証主義的社会学とエスノメソドロジーとの間で戦わされた官庁統計論のはざまで,ヒンデスが提示したのは,官庁統計が生産物として分析されなければならない,とする統計データの生産の理論である。蜷川も実は,(国家の)生産物としての統計という問題意識をもっていた。筆者はそこで①蜷川統計学の統計生産の理論と②ヒンデスの統計データ生産論の唯物論的解釈を試みる。

 筆者の理解では,蜷川統計学は自らの課題を,客観的存在である社会的集団が統計という形で自らを表出し,社会の統計的法則性という形で客観的に総括する統計方法論(調査・利用の規範的手続き論)の構築とした。そうした実在の統計活動を客観的に評価する基準が規範的方法である。全ての実在の統計活動は規範的方法によって評価され,それが出来ない場合に,統計の「信頼性」「正確性」の問題が問われる。蜷川にあっては,官庁統計はこの規範に照らして,社会の科学的認識の素材としての性質を検証される。このような構図で把握される蜷川統計学は,現実の官庁統計の作成過程を「調査する者(調査主体)」と「調査される者(調査を受ける者としての主体化された者)」との間の主体間関係においてとらえる。調査過程は,その意味で主体間関係における統計の生産の場である。蜷川の言う客観的方法は,この過程に必要な「正しい」抽出方法(調査方法)である。現実の統計の作成・利用主体である国家は,客観的方法を歪曲する主観性の砦である。

 以上のような蜷川統計学の構成は,反映模写論的認識論を前提としている。反映模写論的認識論は実在論を基礎にした認識論であり,この認識論にとって必要なのは対象を正しく抽出する装置であり,この抽出装置が正しく働く条件である。この認識論では,対象が正しい仕方で写し取られたのか,あるいは写しとられたものが対象を正しく映しているかどうかが問題である。蜷川統計学では正しい抽出方法は正しい統計調査法によって規定されるがゆえに,統計の検討・評価はそれが生産される過程(理論的過程と技術的過程で行使される統計調査過程)を具体体に分析し,その調査過程が正しい調査過程に準拠して行われたかの検証に他ならない。しかし,筆者によれば,「正しい」調査過程論・調査方法論の「正しさ」を保証するものは何かという問題は残されたままであり,その「正しい」統計調査論を導く,「正しい」社会科学の理論でいう「正しい」社会科学が何か,その「正しさ」は何によって保証されるのかは問われぬままになっている。

 ヒンデスは,官庁統計をどのように捉えたのであろうか。ヒンデスの統計理解は次のようである。①統計は一定の生産過程の生産物であり,その評価は生産物という資格でその生産用具と生産条件に照らして行われなければならない。②統計の生産過程で用いられる生産用具は「概念的用具」と「技術的用具」である。③統計の評価を調査する者や調査される者の主観性の場に還元して行う必要はない。筆者はこれらを,②③①の順で詳しくパラフレーズしている。簡単な要約を与えると次のようになる。

  統計の生産用具を「概念的用具」と「技術的用具」とに分ける構想は(②の論点),蜷川の調査論に似ている。しかし,筆者は両者の意図の相違に着目する。ヒンデスは統計調査過程において働く生産用具として「概念的用具」と「技術的用具」とを区別したが,その過程を区別せず,それぞれの用具を駆使する労働とは相互に入れ子状に組み合って作動するととらえる。ヒンデスの意図は,「手続き的調査論」ではなく,むしろ旧来の調査論が統計生産における「理論的認識労働の位置と働き」を過小評価してきたことへの批判である。統計調査における対象規定の理論的定義,「環境」としての統計調査の社会的条件の認識こそが統計調査と統計の品質を決定する鍵というわけである。

  ③の論点は,統計の品質を調査者と被調査者の主観性に還元して評価する必要はない,ということである。換言すれば,統計生産では「過程の主体」は存在しない。彼らは過程の担い手であり,主体ではない。この理解は,「ある歴史的な社会構成の中で「統計的」と形容される数量的社会情報措置が歴史的・社会的に形成され,社会のイデオロギー装置・認識装置として社会形成に構成的に関与し,機能しているという事実の分析が,統計の信頼性と正確性の性質と範囲を説明する」という了解になる。

  そして①の論点にたちかえって,統計が生産物として評価されなければならないということは,それを生産物として産出した生産過程の評価がポイントになる,ということである。ヒンデスにあっては,統計の評価は統計調査に関与した諸主体の意識によってではなく,その統計を生産物として産出した具体的・歴史的生産の具体的・歴史的分析によって行われなければならないのである。

  ヒンデスは以上の統計理解を踏まえて,その合理的評価の問題を論じる。それによると,統計が対象を捉えているかどうかは(統計の合理的評価),その統計が認識素材として使われている認識過程において,認識過程が割り当てた論証上の役割を満足しているかによって決まる。すなわち統計の評価はその生産過程を「客観主義的」に分析することでは実現できない。統計の評価は,その統計が用いられる個々の論証過程で,その関数として決まる。換言すれば,統計の合理的評価は,当該の統計が利用される文脈とそのコンテクストが定める問題設定との関連でなされる。

  認識論の次元で議論するならば,ヒンデスのそれは蜷川が依拠した「反映模写論的認識論」ではなく,実在の世界に統計という新たな実在の次元(水準・審級)を付け加え,実在の世界を分節化し,実在の世界を変形し形づくるということである。統計が「正しい」とか「正しくない」の区別は初めから明確なものではなく,社会的な次元の区別であり,認識の水準と他の水準との間にも照応や非照応があると想定できる。社会体を構成する実践は,評価をめぐる闘争にかかわる。必要なのは,「(科学的)正しさをめぐる歴史的に進行中の論弁的闘争にくわわることである」。
 以上のヒンデスの議論の延長で,筆者は「公民権のための統計学」を提唱する。「公民権のための統計学」は,さまざまな利害をもった社会勢力が対峙しあう力の場に開かれた空間に「統計の作成と利用」を置く統計学である。それは「利用者のための統計学」ではなく,時の政治的・社会的統計生産の場に深く関与する統計学である。それはまた,筆者の言葉をかりれば,統計的実践が社会の諸実践に構成的に関与する場に定位され,統計的実践の社会的働きを「批評的に」評価できる統計学に他ならない。こうした統計学の観点に立つと,社会科学としての統計学は,社会的・政治的・経済的な権利主体として,公民権をもった公民として社会に構成的に関与できる手助けができる知識の体系である。