社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「『政策科学』は可能か」『現代と思想』第36号,1979年,(『経済学と統計的方法』八朔社,2000年)

2016-10-18 11:25:58 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「『政策科学』は可能か」『現代と思想』第36号,1979年,(『経済学と統計的方法』八朔社,2000年)

 この論文の内容を理解するには,1970年代の政治状況,思想状況を知っておかなければならない。70年代の日本では,資本主義経済が深刻な矛盾に直面し(60年代末の国際通貨危機の影響,二度にわたるオイルショック,深刻な不況と環境破壊),その対極で民主的政治勢力の台頭が際立った。その延長線上で,経済理論の分野では体制批判ばかりでなく,政策作成能力が不可避で,実際に政策立案,政策提言を積極的に行わなければならないという気運が高まった。時代のこうした雰囲気のなかで,残念なことに,安易に近代経済学,計量経済学などの手法を取り入れ,それによって民主的な政策作成を行おうとする論者の見解が跋扈し,実際にそうした試みが評価された。経済学への数理的手法や計量経済学モデル分析に長く批判的姿勢をとってきた筆者にとって,こうした状況は容認できないことであった。

 この論文は,筆者のそうした考え方を示した力作である。論文の目的は,近代経済学にも部分的には科学的要素が含まれているので,それらを摂取していく必要があるという当時の雰囲気の危うさを解明することであった。数理的手法容認の空気には,資本主義経済が立ちいたった構造的危機のもとで,国民大多数のための経済政策作成には,諸政策の整合性を保持し,それらの有効性を測定する数学的方法の援用が不可避であるが,この方法は近代経済学者による研究の蓄積が多かったことから出てきたものであるが,その論理はきわめて安直なものであった。

 筆者は民主的経済政策への数学的手法の摂取の如何を言う前に,あるいはその当否を判断する前に,まず数理的分析の方法的性格,経済研究へのこの方法の適用の可否,その意義,適用条件が明らかにされなければならないとする。そこで,経済学研究における方法論的原則に照らし,問題となる主要論点が提示される。とりあげられたのは,数学的分析方法が科学研究の「厳密性」を高めるという見解,この方法が対象の量的側面,経済諸量の相互関係の分析,質的分析に有効であるという見解である。

これらの見解に対し,与えられた回答は,経済学としての厳密性がそのまま数学の厳密性によって保証されるとは限らない,数量的ないし数学的思考様式は人間の思考にとって一つの形態にすぎず,科学のあるいは人間の思考の歴史と現実は,数学以外の科学で,数学を利用しない限り思考の厳密性が保証されえないという神話を否定しているというものである。また分析対象の「量」に関しては,数学が扱う「量」と経済学でいう「量」は同じ「量」という表現をとるが,そのことからただちに両者の同等性を云々するのは拙速で,数学における数学的抽象としての質的に無関与な「量」と個別科学の対象に固有の質をもつ「量」,すなわち「定量」とは意味が異なる,経済カテゴリーから固有の経済的=質的規定性を捨象できないと述べている。

経済諸量の相互関係の分析に数学的方法が必要とする考え方は古くはローザンヌ学派の経済学者が唱え,現在でも計量経済学者や産業連関論者の言い分の一つである。筆者の批判は,経済的相互関係を方程式体系で数理的形式にまとめる方法が,経済学の外部からこの科学の主要な方法として導入されたことに懸念を示す。

一部の論者は,近代経済学の「弁護論的」性格を徹底的に批判するが,この科学における数学的にコンシステントな方法体系や計量経済学の方法体系がもつ原則的な誤りには関心がない。新古典派理論,産業連関論の均衡論的性格に対する批判はあっても,計量経済学が専ら数値的検証や数値的分析の「方法」に,連関分析が国民経済の生産技術的連関の数値的分析手法=「実証可能な線形体系」に,拘泥していることを方法論的に検討しようとする姿勢はない。数学的分析方法が対象の質的分析に有効という見解に対しては,「数学的認識,それ自身は量と量的諸関係を研究するものでありながら,・・・質的研究をも深めると考えるのは,数学が量における質的区別,質的規定性を扱う,いいかえるとその固有の対象としての量の内部での質にかかわるかぎりでは正当であるが,それは数学が具体的事物において統一されている量と質のレベルでの質を直接に取り扱うことを意味しない」という言説で,この見解の浅薄な方法理解を断じている。

 上記でも部分的に触れたが,この当時,近代経済学および計量経済学の批判という研究分野でかなり強い見解として存在したのは,それらの経済学の弁護論的性格の批判であった。この立場からすると,近代経済学および計量経済学の方法論を内在的に批判する方法論批判は,イデオロギー批判の意義を無視し,学問の批判活動と現実の民主主義運動の発展との有機的連関を切断している。重要なのは,方法論主義のもつ没イデオロギー的な,客観主義的な論議にはピリオドを打ち,積極的政策提言を示すことであるとした。筆者はこの見解に対し,近代経済学による数学的方法は経済学の論理の内的必然性から定着したのではなく,経済学の外部から持ち込まれたものであること,計量経済学のごとく理論なき数値的研究方法の体系は,その没イデオロギー的外皮の故に,利用目的次第でどのような経済理論にとっても有効なように見えるが,これでは理論の真理性の基準をその実用性にもとめる,科学とは無縁の特異な価値観として,これを排斥している。
この頃,経済学だけでなく社会科学全般は,単なる批判科学ないし実証科学から政策科学へと「飛躍」すべきとする声が強くあったが,筆者は数理的手法の分析・予測能力を厳しく方法論的に検討する姿勢がなければ,特定の立場にたつ性急な政策科学への「飛躍」は理論的誤謬に結果するだけであるとしている。

本稿の「注」に眼をやると,この論文と同時期に出版された『大月 経済学辞典』の「政策科学」「経済民主主義と近代経済学」「経済学における数学利用」「計量経済学」の項が取り上げられている。この辞典は経済民主主義の立場から編まれたもので,近代経済学や計量経済学へのともすれば安易な妥協が基調にあった。また,「弁護論批判」の旗頭であった関恒義(『経済学と数学利用』大月書店,1979年),横倉弘行(『経済学と数量的方法』青木書店,1978年),山田弥(「計量経済学批判における若干の問題点」『立命館経済学』215号,1972年)もとりあげている。筆者は,これらの「弁護論批判」が真摯な方法論的検討をせず,経済学や政策科学と称するものに数理的手法をたやすく取り込んでいく傾向を無視できず,社会科学方法論の研究蓄積と成果を擁護する立場からこの論文を執筆したのである。

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