社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

8 確率基礎論

2016-12-31 18:21:22 | 社会統計学の伝統とその継承
8-1 その背景と論点
 数理統計学(推計学)は,その原理を大数法則にもとめる。大数法則とは,ある集団において特定の単一標識があらわれる度数の比率がその集団が大きくなるにつれ,ある限られた範囲内の値に,極限値に接近するという数理である。数量的データの集積のあるところに認められるこうした数理的規則性,これが大数法則である。これらのデータの集積について,事象のもつ質はさしあたり問われない。自然現象のデータであっても,社会現象のそれでも,それらの質が捨象され,データとして一括され,そこに定められる数理がこの法則である。

 こうした数理統計学(推計学)の在り方には,ふるくはフランスに起源をもつ確率論に淵源があり,またイギリスの政治算術の影響も認めることができる。

 戦後の日本で一時盛んに持ち上げられた数理統計学(推計学)は,その理論的基礎に確率論があった。推計学がどのように構想されたのかを知るには,この分野でのいくつかの基本テキストをめくると明らかである。
例えば北川敏男『統計学の認識』(1947年)の目次は,以下のとおりである 。「【第1篇】統計学に於ける法則定立,[第1章]統計学の黎明,[第2章]古典確率論の構成,[第3章]統計万能時代の起伏」「【第2編】統計学に於ける記述と理論,[第4章]古典統計力学の理念,[第5章]記述統計学の文法,[第6章]経済統計学の計量」「【第3編】実験統計学の基盤,[第7章]実験の計画,[第8章]大量生産の管理,[第9章]社会統計の認識」「【第4編】近代統計学の構造,[第10章]確率論の公理,[第11章]近代統計数学の展開,[第12章]実験統計学の方法」「【第5篇】統計学の過去現在未来,[第13章]統計学の過去,[第14章]統計的認識の段階,[第15章]統計学の将来」。

また,増山元三郎校訂『推計学への道』(1950年)は,次のような構成をとっている 。「[第0章]推計学のはじめに」「[第1章]推計学の生まれるまで」「[第2章]確率論の歩み」「[第3章]統計学から推計学へ」「[第4章]想定の理論」「[第5章]推定の理論」「[第6章]検定の理論」「[第7章]計画の理論」「[第8章]標本の抽出」「参考文献と付録」。

みられるように,推計学を推奨するこれら2つのテキストでは,確率論が重要な位置を占めている。したがって,推計学の基本性格を理解するには,あるいはその科学としての存立基盤を検証するには,確率論とはどのようなものであり,数学の一分野であったこの理論における種々の手法がどの程度自然科学や社会科学に適用可能なのかを批判的に解明しなければならない。社会科学者による推計学批判の課題がその理論的基礎である確率論の意義と限界の点検に向かったことは,自然である。しかし,一口に確率論と言っても,この理論の捉え方は論者によって一様でない。大きくは確率現象を客観的基準で測る頻度説的考え方とそれを主観的基準で判断する考え方とに分かれる。確率論の歴史的展開を跡づけることは,それだけで大著を要する 。また,数理統計学プロパーの分野で研究にたずさわる人々の間に,確率基礎論確の系譜にふれた業績はほとんど無い。社会統計学分野での成果の要約的紹介を課題としている本節で,わたしは以下に,伊藤陽一「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」 ,𠮷田忠「統計学と機械的唯物論[Ⅰ]-古典派確率論と機械的確率論-」 ,是永純弘「確率論の基礎概念について-R. v. Miesesの確率論-」 ,杉森滉一「ヴェンの確率基礎論」 ,伊藤陽一「ケインズの確率論について-基礎理論の紹介を中心に-」 を順に取り上げて,紹介する。

8-2 確率論の系譜
(1)確率論の二潮流-伊藤論文から-
伊藤「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」は,確率論の系譜を簡明に整理している。現代の確率論が古典的確率論(パスカル[1623-62], フェルマ[1601-65], ベルヌーイ[1654-1705])から出発したことはよく知られたところであるが, この系譜は一方で頻度説(J.ヴェン[1834-1923], R.v.ミーゼス[1883-1953])へ, 他方で確率数理(А.Н.コルモゴロフ[1903-87])へと継承された。これらの流れと併行して, 帰納論との関連でイギリス経験哲学を受け継ぐ流れがあり, J.M.ケインズ(1883-1946)の合理的信頼度説に繋がる。この延長線上で今日の主要見解は, 頻度説(ミーゼス), 測度論(公理主義)説(コルモゴロフ), 合理的信頼度説(ケインズ, R.カルナップ[1891-1970]), 主観説(L.J.サベージ[1917-71])とに分かれる。頻度説は, 確率を現象系列の事象の相対頻度の極限値と規定する。この現象系列は, コレクティフ(確率が成立する集団現象)と呼ばれる。頻度説はこのコレクティフに確率をみながら, 頻度が与えられたときにはじめてそれを確率とみなし, その様な頻度をもたらす事象自体に確率をみない。

 測度論(公理主義)説は, 集合論的確率論, 近代確率論とも呼ばれ, ロシア=ソ連の確率論研究(ペテルブルク学派[Ц.Л.チェビシェフ[1821-94], А.А.マルコフ[1856-1922]], モスクワ学派[А.Я.ヒンチン[1894-1959], А.Н.コルモゴロフ])の形成とともにある。この系譜にたつ確率論の要諦は, 大数法則の証明と, これを含めた簡潔な公理系の樹立である。後のR.A.フィッシャー(1890-1962),J.ネイマン(1894-1981),E.S.ピアソン(1895-1980)の統計理論は,コルモゴロフの公理主義的確率論に依拠して構成された。フィッシャーとネイマンの統計学は,統計的仮説検定の理解で対立する関係にあったが,頻度論的確率論を基盤にしていた点で両者は共通していた。

 合理的信頼度説では, 確率論(蓋然性論)は論理学の一部である。その代表者であるケインズによれば, 獲得された知識(一定の前提たる知識から帰結される結論)の多くは確実なものではない, そこでその確実の程度に応じて結論命題に確率が付与される。ケインズ以降, O.クープマン(1900-81)はケインズの公理設定とその展開が不明確として, 新たな公理を設け, 数学的厳密化をはかった。また, R.カルナップは, 前提と結論の結びつきを各人の直接的知識とするケインズの考え方が論理学的に不徹底として認めず, 前提の先験的設定, そこからの結論の導出をはかった。
 サベージによって代表される主観説は, 自らの確率を個人的確率と称する。主観説は, 確率を命題についての信頼度ととらえる点で合理的信頼度説に通ずるが, 後者の合理的信頼度説では確率が前提と結論の間の論理的規則によって導かれ, この規則は誰にとっても同一の拘束力をもつと考えられるのに対し, 前者の主観説ではそこに個人的主観がもちこまれ, 確率が誰にとっても同じではない。確率が何によって与えられるかの分析が問題であるのに, 主観説ではこれを個人的主観に依ると唱えられる。

(2)確率論の思想的背景-吉田論文から-  
確率論の展開とその思想的背景を詳述したものが,𠮷田「統計学と機械的唯物論[Ⅰ]-古典派確率論と機械的確率論-」である。この論文に依拠し,確率論の成立と展開の経緯をおさえると,概略,以下のようである。

 確率論の基礎は,シュバリエ・ド・メレによる賭け事の問題とそれに関連する諸問題について交わされたB.パスカルとP.フェルマの往復書簡によって固められた 。以来,確率論の発展は,C.ホイヘンス(1629-1695),J.ベルヌーイ,A.ド・モアヴル(1667-1754)によって担われ,P.S.ラプラス(1749-1827)がこれを体系化した。古典的確率論の確立である。19世紀初頭のことである。

𠮷田によれば,確率論のこの流れには,大陸派合理主義がその思想的背景として存在した。この思想は数学化された自然を前提とし,感覚をこえた知性の「数学(幾何学)的推論」によって,その認識可能性を唱える。その精神は偶然現象のなかに数学的方法に規定された構造を想定することで,その認識可能性を確信するというものであった。ラプラスは,フランス唯物論哲学者の世界観を基礎に,確率論を体系化した。

 パスカル=フェルマからド・モアヴルに至る確率論の発展の経緯を以上のように整理し,𠮷田は次に数学的(または先験的)確率と統計的(または経験的)確率との関係を考察する。前者は大陸で誕生し,サイコロやカードなどによるギャンブルを対象とし(事前に確率を計算できる),後者はイングランドで発祥し,出生性比のような人口の規則性を対象とした(社会現象)。ベルヌーイはその確率論において大数法則の原理を社会現象に適用し,ド・モアヴルは人口現象を含めたこの世のあらゆる偶然現象の背後に潜む規則性をもとめようと試みた。確率論を武器に自然・社会現象の全ての偶然現象を合理的に把握したいという欲求は,現実とは無関係な数学的構造を擬制し,それにもとづいて確率論を適用する方向に向かう。その到達点は,ラプラスが完成させた古典的確率論の世界であった。

ラプラスは『確率の解析論』(1812年)で,それまでの確率や統計の理論を集大成し,自身の創案になる積率母関数を用い,確率に関する種々の問題に初めて解答を与え,体系化した。とりわけ,正規分布の体系化に取り組み,スターリングの公式を使ってそれを二項分布から導出した。重要なのは,彼が与えた確率の定義である。ラプラスにあっては,偶然現象(偶然現象一般と確率現象の区別がない)の結果として起きる2つのものの片方が起こることが他方のそれよりも確からしいと確信させる理由が何もなければ,二つの場合は「同様に確からしい」として,これを確率の定義にもちこんだ(ライプニッツの充分理由律に依拠)。ライプニッツはその充分理由律に,あるものを認識したというときの「理由」とあるものの存在そのものを規定する「原因」とを含めたが,この考え方を継承したラプラスは,両者を混同して「理由」の欠如から「原因」の欠如を導こうとしていたことになる。すなわち等可能でないと確信する理由が見出せなければ,それは等可能であるとしてよい,とした。ラプラスの「不充分理由の原理」がこれである。

 ところでイギリス経験論のもとにあった帰納法は,演繹論理のもつ論理的必然性をもたないといわれる。しかし,ラプラスはベイズ(1702-61)の定理を用いて,帰納推理の不確からしさに「確率」の値を与えようと試みた。𠮷田がこの試みに言及したもうひとつの理由は,確率を純粋に主観的なものとみなす主観確率の立場から,その復活を意図する傾向が今日の数理統計学にみられるからである。𠮷田はベイズの定理の丁寧で簡明な数学的解説を行っているが,結論部分で次のように述べている。「その基本概念である確率を経験世界に引き戻して考えると,ベイズの定理は,確率現象という一定の抽象化が加えられた事実においてそれと同次元の抽象的事実に関する特殊な推理を与えているにすぎない。そこでは『特殊な結果』から『特殊な原因』が確率的推論という特殊な形で判断される。ところがこの定義が数学的には,経験的内容を捨象した確率や確率変数にもとづいて証明されるため,あらゆる偶然現象において『特殊な結果』から『一般的原因』を推論するのに使えるような外観をもつ。しかし,それは外観のみで,一般化された形で経験世界とのかかわりあいを与えると必ずそこに論理的破綻があらわれる」と 。ベイズの定理は単なる数学上のそれであり,帰納法に代替するものではない 。

8-3 頻度説的確率論-R.v.ミーゼスの場合-
 わたしは,頻度説による客観的確率論に関心がある。是永純弘「確率論の基礎概念について-R. v. Miesesの確率論-」は,その頻度説にたつR. v.ミーゼスの確率基礎論の批判的検討である。以下に,この論文の内容を紹介する。是永はミーゼスの確率論をコレクティフ概念の検討に重きをおいて検証し,この概念の発見が数学の一分野としての確率論の基礎,その適用範囲,客観的実在との関連解明の糸口を与えたと評価した(そのマッハ主義的限界を指摘しながら) 。
是永が参照したミーゼスのテキストは,Wahrscheinlichkeit, Statistik und Wahrheit, Dritte, Neubearb, Aufl., Wien,1951である。

 ミーゼスは確率概念を,集団現象または反復事象の一標識が無限回の試行中に現れる相対頻度の極限値,と規定する。この頻度説的確率論を支持する者は少ない。理由はそれが前提とする数学的意味づけの難しさ,あるいはその基礎にあるマッハ主義的認識論の観念性に由来する。是永はしかし,ミーゼスの確率論,とくにその基礎論を意味のないものと一蹴することはできない,と言う。確率とは客観的現実のどのような側面を反映する概念なのかという問題は,確率論の基礎づけにはもちろん,自然あるいは社会の諸現象にそれを適用する際には,当然考えておかなければならない課題で,ミーゼスはそのことを念頭に議論を展開しているからである。

是永論文は「確率概念の基礎」と「ミーゼス確率論の意義と限界」の2つの節で構成されている。前者ではミーゼスの確率概念の定義,それと古典的定義との相違,ミーゼスの議論への批判に対する彼自身の反論を紹介している。後者ではミーゼスによる確率計算の適用可能領域の検討である。    

ミーゼスの確率の定義は上記のようであるが,その対象として考えられたのは次の三種に限定される。第一は賭事や運任せの遊戯,第二は保険業務,人口現象などの社会統計,第三は統計物理現象である。それらにみられる共通性は,多数個体の一団である集団現象であること,何回も反復される同種または一個の個体の反復現象であることである。この集団現象あるいは反復現象は,ミーゼスによれば,確率が成立する不可欠の現実的前提である。

 確率が成立する「第一の前提」であるこれらの集団現象または反復現象を総称して,ミーゼスはコレクティフと名付けた。また,ミーゼス自身の言葉によれば,コレクティフとは各個体の観察メルクマールの相対頻度が一定の極限値に近づくだろうとの推定が正しいと思われるような集団現象または反復現象,要するに個別的観察の長い系列としての客観的性質(物理的性質)である。ここで重要なのは,この系列が規則性をもたないことである。すなわち,系列のなかのどの一部分を任意に取り出しても,この取り出し方が相対頻度の極限値を変えない性質つまり「無規則性」をもつことが確率の成立する「第二の前提」である。

 上記の2要件を満たすミーゼスの確率は,「確率とは事例の総数で好都合な事例の数を割った比である」(ラプラスによって定式化された古典確率)とか,「確率とは集合の数学的頻度である」(通説)とは一線を画する。

是永はここからラプラス流の確率の古典的解釈とコルモゴロフ流の現代的解釈の検証に移る。前者に関しては,古典的定義が前提とする「均等可能」の仮定が現実には存在しないこと,「主観的確率概念」を認識論的背景にもつことの2点で問題があるという。主観説の奇妙な考え方は,「諸事例が等確率だと考えられる(・・・・・)のは,諸事例が等確率であるということに等しい。理由は確率が主観的なものに他ならぬからだ」という言明に象徴される。古典的解釈はまた大数法則の存在にすがるが,これも失敗の原因である。なぜなら,ポアソンの定理と通称される2つの命題の混同の上に成り立ついわゆる大数の第一法則と,ベイズの定理と呼ばれる大数の第二法則は,コレクティフを前提とする頻度説で定義された確率概念を基礎におかないかぎり内容のない命題になるからである。

他方,後者,すなわち確率は集合の測度であるとするコルモゴロフによって代表される見解に関しても,ミーゼスは自らの頻度説を堅持する。ミーゼスによれば,コルモゴロフの研究は,確率計算という純数学的側面だけに注意をはらった基礎理論で,彼自身,公理系が不完全なことを理由に確率計算の諸問題については種々の確率域を考えることができるとし,公理論的確率論の限界を示している。集合論は数学的補助手段として確率計算を援けるものにすぎない。是永は以上の確認をしたうえで,さらにミーゼスが行った彼のいわゆるコレクティフの二要件に対する諸批判への反論を補足的に紹介し,ミーゼスの確率概念の規定の妥当性を追認している。

 「ミーゼス確率論の意義と限界」で,是永は確率が客観的実在のいかなる側面を反映しているかという点に関して,ミーゼス的解答が確率計算の応用領域でどのように貫かれているかを点検している。対象となる応用領域は,統計学(出生・死亡などの人口現象,婚姻・自殺・所得などの社会現象,遺伝・生物体器官の測定,薬剤・療法の効果判定,大量生産),誤差論(ガウスの誤差法則),統計物理学(存在する気体分子,ブラウン粒子など)の領域である。要するにミーゼスにあっては,確率が適用できるかどうかは,相対的頻度の極限値をもち,無規則的であるという二要件を満足するコレクティフがそこに存在することを観察できること,またはそう仮定して確率計算を行った結果が観察結果と一致するかどうかを問わず,そうした集団のコレクティフ性が客観的存在であると確認できることが重要なのである。

 問題はミーゼスのいわゆる「原系列のコレクティフへの還元」である。原系列を加工してこれをコレクティフ系列とすることは,もともとコレクティフ系列たりえないものを一定の目的でそれを構成することである。そこで改めてこの構成された系列の当否が問題となる。実際にはミーゼスのコレクティフ概念では存在たるコレクティフと意識的に構成されたコレクティフとの間に明確な境界線が引かれていない。ミーゼスの最大の難点であり,彼が別の箇所で確率基礎論の帰結を因果律の否定,確率法則による代位に見出していることとも関係がある。「この点はすでにミーゼスの理論の認識論的背景がマッハ主義にあり,そのため彼の確率論の全命題は経験・試行から出発し,それ以前の対象の性質そのものへ認識が全く及んでいないこと,したがってミーゼスのいう確率の客観性ははなはだ疑わしくなるということ,等の指摘をつうじて,ミーゼスに対する認識論的批判の核心点になっている」 。そうは言ってもミーゼスの確率基礎論の意義は,少しも損なわれるものではない。マッハ主義的認識論との決別はあと一歩であり,存在としてのコレクティフの確認にも迫っていた。ミーゼスが到達した限度までの経験的事実の整理は,確率の客観性の認識への大きな前進であると言える。

 課題はある。行論との関係に限定すれば,要素間の相互作用が決定論的意味をもつ多標識集団としての社会集団は,そのままミーゼスのいわゆるコレクティフになりえないので,確率論の社会集団への適用は,コレクティフ仮定と現実の集団との照応関係の考察から始めて,適用条件の子細な検討に至るまで,慎重になされなければならないということである。

8-4 頻度説的確率論-J.ヴェンの場合-
 頻度説的視点から確率基礎論を展開しミーゼスに影響を与えた論者にJ.ヴェンがいる。杉森滉一「ヴェンの確率基礎論」によってヴェンの確率論を紹介する 。 

 杉森はヴェンの確率基礎論をThe Logic of chance (1866)の第3版 (1888) とThe Principles of Empirical or Inductive Logic (1889)にもとづいて要約し,その意義を論じている 。ヴェンは確率論史のなかでは頻度説の代表論者の一人で,一般的な理解では確率を相対頻度の極限値と規定しただけのように扱われることが多いが,果たしてそうなのかというのが筆者の問題意識である。この問題意識のもとでヴェンにおける頻度説の形態はどのようなものであったか,それが頻度説,確率基礎論の歴史にいかなる意義をもったのか,これらが本稿の課題である。

 既に述べたように頻度説の立場にたったミーゼスは,一つの属性に関して①相対頻度の極限値と②分布の無規則性とを備えた集団現象をコレクティフと規定し,その説明原理を確率論にもとめた。この説は二面性をもつ。一つは確率数理に一種の形式性を認め,それとは別に確率数理がよってたつ経験的対象の規定を強調したことである。コレクティフが抽象されることで,特定の物質の運動形態は実質的に規定され,確率論の適用対象はそこに限定された。しかし,このことは他面で現象,経験を絶対化する認識論上の立場にたち,コレクティフが存在するための客観的構造,原因機構の究明がそれによって遮断された。頻度説の経験主義的側面を払拭し,確率基礎論のさらなる展開が必要な所以であるが,そのためには頻度説のもつ意味が明らかにされなければならない。これはミーゼスの学説がどのような系譜を経て出現したかを究明することでもある。ヴェンをとりあげる理由はこの点にあり,ヴェンの学説はそれにふさわしい多面的内容を含んでいるという。

 ヴェンは確率の基礎概念が系列すなわち事象または事物の連続ないし集合体であるとする。確率論の対象は系列一般ではなく,特定の性質(個別的不規則性と総体的規則性)をもった系列である。この系列における個別的不規則性と総体的規則性は,「事象系列」とヴェンが名付けたもので,系列の構成要素に部分的に共通するある属性が究極的に事例全体のある割合におちつくことを差して言う。このような事象系列には,①運任せゲームの結果,②同種多数の観察結果,③同一物の多数測定結果の三種類がある。これらのうち,①のみが確率論の理想的な対象で,②③は近似的な対象である。

 ヴェンはこの説を,確率の内容を主観における知識ないし心理的信頼であるとする主観的諸説に対立させている。ヴェンが強調するのは,推理の正当性の最終的根拠が経験にあり,経験と切断して信頼を云々することの無意味さである。ヴェンにあっては,主観に知識状態に確率を依存させるのは誤りであり,主観の側に確率を考えるとしても,主観をしてその様に思い込ませる経験の側における根拠が何かを究明しなければならない。確率の意味を問うには経験的世界との対応ということが根本問題であり,そのために頻度が媒介になる。ヴェン確率基礎論の意義は,経験世界と確率数理との対応をつけようとし,現象世界から事象系列を確率論の対象として抽出し,特定の客観的事物に確率を認め,そのような事物に特徴的な構造を明らかにする道筋をつけたことである。この方向は,経験主義に立脚するが事象系列をより詳細に規定しコレクティフを導出したミーゼスに継承される。

 ヴェンの確率基礎論が提起したものは,これだけではない。確率が事象系列全体に言われるもので,それの主観による受け取り方が信頼であるという上記の議論をさらに一般化し,様相(modality) をも頻度=確率の観点から解釈する。様相は,判断について,その確実性による分類である。ヴェンは様相の本質が信頼ないし確信の程度を区別することにあるとし,それを総て頻度に還元した。

 またヴェンは確率論の推理機能を一般的に問題にし,帰納法との関係を論じている。ヴェンによれば,経験的世界から事象系列を抽出し,そのなかで相対頻度を規定するのは貢納法の課題である。事象系列にみられる統計的規則性は,帰納法によって得られる。確率論はそれを受け,爾後の推理を担う。両方法は協働的である。推理の過程は,事物についての確実な知識の獲得が目的である。この過程は,①単なる推定,②仮説ないし理論,③事実三段階がある。確率が担うのは,②である。確率論による認識は,材料として統計的規則性しか得られない場合の不完全な中間的認識である。

 杉森は最後にヴェンの学説上の継承関係を読み解く。まずミーゼスとの関係,続いてライヘンバッハ,ケインズとの関係である。ヴェンは経験論者で,特定の物質構造としての事象系列ならびにその属性としての確率という意識は希薄であるため,専ら現象的に頻度の極限値イコール確率という規定の強調にとどまった。このため現象が確率現象であるか否かがどうしてわかるのか,それを決定する徴証が何かという問題に回答を用意できなった。こうした経験主義に固有の宿弊は,ミーゼスにも特徴的であった。

 事項で紹介するケインズとの関係について,ヴェンは確率を伝統的な帰納法の枠のなかに位置づけたのに対し,ケインズはヴェンの確率基礎論が狭すぎるとして(統計的頻度に還元できない probable なケースがあることを強調),帰納法そのものを基礎づける新たな確率論の構築に向かった。ヴェンは方法として確率論を論じることで,判断の確率をも頻度で測ろうとしたが,ケインズはそれが頻度とは別のより一般的論理的関係図式に包摂されること,そしてこの図式が帰納法の不確実性の処理を含むことを説いた。また,ヴェンは事象の確率,その事象について思考する主観における確率,一般的認識の信頼性としての確率という順序で問題をとらえ,それらをすべて頻度に還元したが,このことを考えると,ヴェンはケインズが記号論理学に触発され,命題間の論理的関係について確率を考えた直前の地点まで基礎論を展開していたと言える。

 以上,確率概念の客観性に重きをおき頻度説に立脚したミーゼスとヴェンの所説を是永と杉森の論文を紹介して示したが,この系譜と対極にある主観的確率論をとったケインズの見解について述べておきたい。留意しなければならないのは,その確率論の内容が,以下で記すように必ずしも数量的に測ることができるものと考えられていないことである。この点を重視して,ケインズの確率論は「蓋然性論」として語られることが多く,またそうしたほうが誤解が生じないと思われるが,伊藤論文の要約にあたっては,執筆者の用語の使い方にそくしてケインズの確率論として叙述する。

8-5 J.M.ケインズの確率論
 確率論の信頼度説的解釈を集大成したケインズの理論の基礎的部分を紹介, 検討した論文が伊藤陽一「ケインズの確率論について-基礎理論の紹介を中心に-」である 。伊藤の案内にしたがって, ケインズ確率論の紹介を行う。

 ケインズの『確率論(蓋然性論)』(Treatise on Probability)は, 1921年に公刊されている。その編別構成は, 次のとおりである。Ⅰ編:基礎的諸概念, Ⅱ編:基礎的諸定理, Ⅲ編:機能と類比, Ⅳ編:確率の若干の哲学的応用, Ⅴ編:統計的推論の基礎。伊藤は上記論文で主として, Ⅰ編, Ⅱ編, Ⅲ編までを, 解説している。
ケインズは確率論を論理学の一部とみる。われわれの知識は, 一部分は直接的に, 一部分は論証によって間接的に獲得される。形而上学, 科学において依拠するほとんどの論証は, その結論が決定的でなく, 確からしさに何らかのウェイトを付与したものである。従来の論理学は結論に疑問をのこす論証を扱わなかったが, ケインズはこれを論理学の一部としての確率論の課題とした。

 ケインズによれば, 確率は間接的知識が獲得される過程の論理であり, 前提となる知識が与えられたときに, この知識によって結論が付与される合理的信頼度である。ここでは確率が事象ではなく, 命題の論理的な関係に与えられている。この合理的信念の程度としての確率は, 主観的側面と客観的側面をもつ。

 合理的信念の程度としての確率はまた, 必ずしも数的に測定可能なわけではない。ケインズは確率について, 量的に測定可能な場合, 大小の比較の順序づけだけが可能な場合, それらが不可能な場合, があるとする。ケインズはごく限られた場合に, すなわち無差別性原理(不充分理由原理の修正されたもの)が適用可能な場合に, 数値が付与され, 多くの場合には確率間の大小比較が行いうるだけで, 比較が不可能とした。

 数学的確率論は, 等しさの承認を不充分理由原理にもとづいて行った。ケインズはこの不充分理由原理を無差別性原理と呼び換えたが, この原理は多くの矛盾をもたらすことをよく知っていた。したがって, ケインズはこの無差別性原理が適切性の判断に依拠していることを明らかにし, 資料が選択肢に対して対称的であるべきこと, また適切性を判断するときに選択肢の意味と形とが無視されてはならないことを指摘し, 原理のより正しい適用をはかろうとした。

 伊藤は概略以上のように, ケインズの合理的信頼度説を, これに関わる基本命題(知識論との関係, 確率の量的性格, 比較のための原理, 無差別性原理の再構成, 数値測定の方法など)を論ずるなかで確認している。ケインズはこれらをふまえ, さらに確率計算の公理系, 帰納と類比, 偶然論, 統計的推論について論じている。伊藤は, これらのうち, 確率計算の公理系, 帰納と類比について詳しい解説を行っている。偶然論, 統計的推論に関しては, 次の要約を与えている, 「ケインズは, 偶然を我々の有する情報との関連においてとらえ, 偶然を主観的偶然と客観的偶然とに分ける。事象についての情報が二つの事象間に関連を与えないとき, それら二つの事象は主観的意味で偶然とされ, 客観的偶然とは, この主観的偶然の特殊な場合として位置づけられて, 完全な知識, 情報すらも偶然性を変化させないときにその偶然性は客観的偶然性と考えられるべきとされる。次に統計的推論に関しては, ・・・普遍的帰納は一般化においては, 一般化された結論は例外を許さなかったのに対し, 統計的帰納は一般化にあたって事例のいくつかに反することを許すもの, 従って論じられる単位は単一の事例ではなくて, 一組あるいは一系列であるという特徴づけを行う。そしてここでも, 確率はあくまで資料との関連においてとらえられる(従って試行の経験によって次々と予測確率が変化する)という立場から, 従来の大数法則論, 統計的推論を検討するのである」と 。

 「確率論」を執筆した頃のケインズには, 帰納論理を発見の論理として位置づける余地があり, それを放棄し検証の論理に焼き直す新実証主義的見地へ転落する直前でふみとどまっていた。確かに, 概念の形成から一般的知識へ至る認識過程の分析は行われず, 一般的知識がいかに形成されるかという問題意識は乏しかった。しかし, ケインズは帰納的一般化のさいに, その確率を高める要因の分析を行い, 発見の論理を否定するヒュームの問題提起に対し, 制限付きの独立変異の仮説を提出して, 帰納原理を維持しようとした。

 また, 科学的知識の成立における帰納法の位置づけでは, 帰納は諸々の論理的方法から切り離され, 量的評価の可能性が科学的知識の現実的な形成過程から乖離し, 帰納法を独立させ, これを形式化してとらえたフシがある。
帰納的知識の確からしさの量的評価を問題にするのであれば, 前提から結論にいたる, 現象的知識から科学的知識にいたる認識過程の構造, 思惟のプロセス, そこでの知識の蓋然性を規定する諸契機を明らかにすることが先ず前提作業とされるべきであって, 安易な量的評価と, それにもとづく計算体系の樹立を急ぐことは, 数理形式主義的偏向であると, 伊藤は結論付けている 。

8-6 確率論主義の克服
 確率論主義とは,数学の一分野である確率論を,社会―自然現象の分析用具として普遍的に適用可能とし,偶然が世界を支配するとみる価値観からこの分析を支持する考え方である。この考え方によれば,統計値を含めて一団の数値(集合)が与えられれば, ただちにそこに大数法則があてはまるものと決めこみ, 確率論を適用し, 確率計算を行い, その結果によって一定の規則性の安定度を確率で表現する。確率論主義といわれるものが, これである。

 確率論主義の本質は, 是永純弘によれば, 自然および社会の諸現象に関する数値(観測値や統計値)の一団が与えられたとき, それらの研究対象を固有の研究方法で分析するのではなく, これらを抽象数の一団とみなし, そこに確率論を適用し, 分析することである。換言すれば, 自然科学, 社会科学を問わず, それらの固有の対象を明らかにするために不可欠な独自の研究方法にたよらず, 確率論だけで問題に接近しようとする姿勢が, これである 。   

 そもそも確率とは何なのか。それは物質の客観的な運動形態のいかなる側面を反映したものなのか。具体的な事実を特徴づけるために確率概念を適用したとき, それはいったいどのような実質的意味をもつのだろうか。

 確率論がその理論的帰結として予定する大数法則とは, 本稿の冒頭で述べたように,ある統計値集団において特定の単一標識の特定の値があらわれる度数のその集団の大きさ(総度数)に対する比率, すなわち特定事象発現の相対度数が, 集団の大きさが大きくなる(数学的には無限となる)につれて, 一定の値(先験的確率に近づくことがほぼ確実[確率1]になることである」 。

 是永は確率概念を以上のように規定し, 次いで確率が事物の運動形態の一側面の反映であることを, たとえ部分的でも意識して確率を定義しようとした(1)古典的確率論と(2)頻度説的確率論をとりあげ, それらの意義を確認している。

 古典的確率論は, われわれの経験に先立って事物の存在そのもののうちに, 一定の条件のもとにではあるが経験の結果としての一定の規則性という属性を認める。経験の背後に, 事物の存在が予定されている。問題は物自体の一属性が確率にあらわれるメカニズムに関して, 不完全な説明しかできていないことである。これに対して, 頻度説(R.v.ミーゼス)では, 確率は無規則な現象系列の中での特定事象の発現の相対頻度の極限値と定義され, 相対頻度の極限値が出現するメカニズムが客観的である。この頻度説の欠陥は, 経験がすべての大前提におかれ, そのような経験の結果が生ずることを経験以前の「物自体」の属性とされていないことである。

 ミーゼスは物質の一属性が確率として発現するメカニズムを, 同一現象の繰り返し試行, あるいは同種の自然物の集団という二つの類型をもった客観的事実としてのコレクティフの性質に見出した。以上の理解にたって, それでは先に述べた確率論主義はいかに克服されるべきなのだろうか。確率論主義が有している欠陥は, 確率論とその適用の結果が統計値集団にみとめられる安定的規則性の発現の強度を示すにすぎないにもかかわらず(なにゆえにこの集団がこの集団性をこの強度において示すかという原因機構の解明が次の研究段階である), その延長で既存の知識で対象の認識に到達しえないとなると, ただちに対象的真理, 絶対的真理が認識しえないとし(不可知論), 認識の相対性が一面的に強調されることにある(「相対主義」)。この弊を避けるには, 相対的真理の認識を徐々に高め, 全体として一歩一歩, 対象の絶対的真理に接近していく以外に方法はない。

 確率論的認識論における不可知論的相対主義は, 物理学の世界における古典物理学から量子力学への発展についての誤解に根拠があり, それが社会科学にもちこまれたとして, 是永はそうした物理学的世界観を批判的に考察している。物理学でも, 確率概念が物理量のもつ客観的な意味をあきらかにする単なる指標とみなされず, 観測の誤差, 情報の不完全さといった認識の技術的限界が物理的認識の絶対的限界と解釈され, 確率論主義にたよることがあった。ハイゼンベルクの思考実験によって「証明」された「不確定性原理」がその一例であるという。この世界でも重要なのは, 確率概念の公理論的基礎づけや実証主義的道具化ではなく, この概念の客観性の解明である。是永は, 社会科学はこの姿勢と見解に学ぶべきだと説いている。

 関連して,吉田の次の指摘に耳を傾けるべきである。すなわち,ベルヌーイのいわゆる大数法則は,その事象の生起が確率現象であることを前提としてのみ証明される。したがって統計的確率に大数法則を適用するには,そのプロセスが経験的に確かめられなければならない。しかし,これは社会現象に関しては無理な注文である。数学的確率と統計的確率とを直接に大数法則で結びつけるのは誤った試みである。確率は客観的現実のなかに見出されなければならず,ここでは先験的確率という用語自体が無意味であることを確認しなければならない。また,統計的確率は対象となる偶然現象が確率現象でないならば,生起の比率は単に歴史的事実を示すだけで確率とは無縁であるということである。社会的偶然現象の生起の比率を,ただちに確率とみなすことはできない,と 。

木村和範「キエールの代表法」『標本調査法の生成と展開』北海道大学図書刊行会,2001年

2016-12-28 11:26:27 | 1.蜷川統計学
「代表法とその社会的背景-任意抽出標本理論前史」(『経済論集』[北海学園大学]第45巻第1号,1997年7月),「キエールの『代表法』をめぐる論争-G.v.マイヤーとL.v.ボルトキヴィッツの見解」(『経済論集』[北海学園大学]第46巻第1号,1998年7月)をもとに著作の一章として編まれた論稿。(1)キエールの代表法を必要としたノルウェーの社会状況とそれを可能にした統計機構の整備状況,(2)その代表法の概要,(3)代表法にたいする2つの批判,がその内容である。

 構成は次のとおり。「はじめに」「1.代表法の社会的背景:(1)資産・所得調査の背景,(2)統計機構の整備」「2.代表法:(1)調査法の選別,(2)1891年資産・所得調査[ノルウェー],(3)代表標本の代表性」「3.キエールにたいする2つの批判:(1)マイヤー[1841-1925],(2) ボルトキヴィッツ[1868-1931]」「むすび」。

 筆者は「むすび」で本稿の内容を要約しているので,それを骨に本文の叙述で肉づけし、以下に本稿の中身を説明する。

キエールの代表法は,以下の事情を背景に成立した。ノルウェーでは19世紀に入って,保険基金の創設のために,資産・所得調査を全国的規模で行う必要があった。この必要性は、「近代化」によって農業破壊,都市問題が招来し,一連の社会・福祉政策がもとめられたことと関係している。キエールは,こうした状況のなかで、関連する調査を全国的規模で行わなければならないという要請に直面し,短期間で意味のある結果を得るにはル・プレ流のモノグラフ法が不適切であると判断した。キエールは「対照標識(コントロール)」を用い,全数調査結果と代表標本を比較・対照することで,モノグラフ法に代替する代表法にもとづく調査を考案した。それは全数調査ではなく,一部調査の方法の積極的利用であった。

他方,ノルウェーでは中央統計局の設置をはじめ,統計機構が整備され,この過程で地方統計業務が中央に組み込まれることになった。キエールはノルウェー中央統計局局長をはじめ同国の統計行政に深く関与していた。この時期に実施された機構整備によって,ノルウェーでは統一的な全国規模の人口調査が可能になり,資産・所得調査の基礎資料を得る基盤が形成された。

 筆者は以上の背景説明を行ったのち,キエールが全国的な資産・所得調査で代表法を選択した理由,1891年調査(実施は1893年1月)の内容(調査方法,調査票とその記載例,集計段階でのホラリス集計器の利用,代表性の点検)の紹介を詳しく行っている。

 ノルウェーでの経験をもとに,キエールはISIベルン大会(1895年)で「代表調査にかんする観察と経験」と題する報告を行い,そこで短時間で全国的規模での資産・所得調査の結果を得るには悉皆大量観察ではない,代表法による調査を行わざるをえなかったことを示した。同報告の内容は結果的に,既存の全数調査への権威に対する疑問の提示,そして批判につながるものであった。

 キエールの見解に対して,マイヤー,ボルトキヴィッツから反批判がなされた。マイヤーは,同じISIベルン大会で,一部調査が悉皆観察の代用たりえないとして,全数調査の正当性を主張した。マイヤーによる反批判は,ヨーロッパ諸国に設置された国家統計機構による全数調査を背景にもつ19世紀統計調査論にもとづく批判である。その意味で,マイヤーの批判は当時の支配的見解であった。くわえてマイヤーの意図には,一部調査から全体を推測する計算の手続きに対する批判があったのではないか,と筆者は述べている。マイヤーの批判に対して,キエールは論文1897年のノルウェー科学アカデミー紀要に掲載された「代表法」で,部分的にマイヤーの指摘に同意しながら,現実には悉皆調査が不可能な場合には一部調査を利用せざるをえないとし,その有効性を以下のように強調した。キエールの考え方をまとめて知ることができるので引用する(p.21)。

(1)在来の統計やモノグラフの他に社会科学の分野には一部調査の広範な応用領域がある。この一部調査を採用しない妥当な理由はない。
(2)代表法によって一部調査の価値を高めることができる。
(3)標本は,代表性の度合いにもとづいて評価されるべきである。
(4)代表法は,全数調査統計と比較対照できるように企画されなければならない。
(5)代表性を確保した一部調査が可能となるように,理論面と実際面の両面からの研究が必要である。
(6)調査結果が代表性をもつために,どれだけの大きさの標本が必要かについて研究することが重要である。
(7)代表法による調査の結果と在来の手法による全数調査の結果が一致するようになるにつれ,代表標本への信頼は高まる。
(8)代表標本を選出するときに,センサス結果を活用することには利点がある。

他方,ボルトキヴィッツによる批判は,代表法を確率論で基礎づけることが狙いで,この考え方は20世紀に普及した任意抽出標本理論の萌芽である。彼は1901年に開催されたISIブダペスト大会で,キエールの批判者として登場した。すなわち,ボルトキヴィッツはキエールの代表法を「対照法」と名づけ,その統計学の方法論上の意義を認めながら,「対照」の仕方が主観的であると言明した。代表性を評価する方法は,主観の領域から抜け出した方法に,すなわち確率論によらなければならない,というのが彼の考え方である。関連して部分から全体を推測するときに,数理統計学の公式を応用して,誤差の源泉を方法論的に考察することが提言された。

木村和範「ドイツ標本調査論争」『標本調査法の生成と展開』北海道大学図書刊行会,2001年

2016-12-27 11:23:28 | 1.蜷川統計学
もとの論稿は「ドイツにおける標本調査論争-1903年国際統計協会ベルリン大会以後」(『経済論集』[北海学園大学]第48巻第1号,2000年6月)。

構成は次のとおり。「はじめに」「1.プファウンダーとヴァイヤー(1906年):(1)先行研究、(2)ザルツブルク大公領家畜調査,(3)標本調査実験、(4)推定結果の考察」「2.アルトシュール(1913年):(1)一部調査の必要性と望ましい一部調査法、(2)大数法則」「3.ショット(1917年):(1)理論的考察、(2)組織的な検討」「4.ウィンクラー(1921年):(1)アウエルハンの見解-1919年チェコスロバキア共和国土地収用法の正当性-,(2)アウエルハンへの批判」「5.グレーフエル(1921/22年):(1)論文の要旨、(2)ツァーンのコメント」「6.ルフト(1922年):(1)代表法の有効性にかんする理論的検討-先行研究にたいするルフトの見解-、(2)標本調査実験」「むすび」。

筆者は1903年に開催されたISIベルリン大会での報告を順次、紹介して標本調査論争の内容を検討している。紹介されているのは、マイエット、キエールの見解である。さらにその後に公にされたプファウンダーとヴァイヤー(1906年)、アルトシュール(1913年)、ショット(1917年)、アウエルハン(1920年)、ウィンクラー(1921年)、グレーフェル(1921/22年)、ルフト(1922年)の論稿が俎上にあげられている。

 マイエットの報告は、バーデン大公国家畜センサスの調査結果を借り受け、標本調査の有効性を経験的に確かめる目的で実施した実験内容に関するものである。この調査は任意抽出のはしりであった。この大会でキエールは、今でいう有意選出による標本調査を推奨し、マイエットと対立した。

オーストリア・ハンガリー帝国中央統計委員会の局長であったユルシェックは、ベルリン大会後、マイエットの方法の有効性を検討することをプファウンダーとヴァイヤーに勧めた。約20年間に及ぶドイツ標本調査論争は、これに応えて執筆された彼らの論文(Pfaunder, Richard und Weyr, Franz,”Die stichprobenweisen Viehschätzungen : Eine kritisch-metodologische Untersuchung,” Statistische Monayschrift, Neue Folge,XI. Jahrgang, 1906)を発端とした。プファウンダーとヴァイヤーは、オーストリア・ハンガリー帝国農務省が行った1890年のセンサス・データ(家畜頭数)をもとに、1900年のそれを推算し、その結果が同じ1900年のセンサス・データに符合しているかどうかを検討した。この検討に際して、プファウンダーとヴァイヤーはザルツブルク大公領のデータとボヘミアのそれを用いたが、筆者はこれらのうち前者の中身を詳細に紹介している。その結果、マイエットの標本調査実験に準拠したプファウンダーとヴァイヤーによるザルツブルク大公領の家畜調査では、その有効性に疑問が出された。

 その後、アルトシュールは、1913年に、「標本調査の方法にかんする研究-理論統計学における現代的傾向の性格規定によせて-」と題する論文を公にし、そのなかで「大数法則」によって誤差を秤量する代表法の利用を主張した。ポイントは、次の諸点である。第一に、アルトシュールは全体への推測を目的とする一部調査が全数調査を前提とする必要がないと考えていた。第二に、彼は全数調査を前提としない代表法で全体の数字を推測するときに、誤差の限界が「大数法則」によって与えられると考えていた。そして、「大数法則」を用いれば、所与の観測個数で特定の誤差の計算が可能であるとした。「大数法則」のこの解釈は、その適用が大きな標本を前提とするというケトレー以降の「大数法則」感の転換でる。

ショットは1917年に、論文「都市統計における標本調査にかんする試論」を執筆した。この論文でショットが意図したのは、当時、自然科学に分野以外でみるべき成果をあげていなかった代表法の有効性を理論的・経験的に解明することであった。この論文で彼は、悉皆調査に代わる代表法が有効であるとの立場を理論的な考察と経験的な考察(1916年のマンハイム市人口調査)から補強することを試みている。

筆者はさらにアウエルハン論文「主要商品作物の作付にたいする農場規模の影響」(1920年)、ウィンクラー論文「経営規模と作付分布-一部調査の批判的方法論研究-」(1921年)、グレーフェル論文「統計の必要性と代表法」(1921/22年)、ルフト論文「統計学における代表法」(1922年)を紹介している。これらのうちグレーフェル、ルフトの論文では、代表法に有意選出法と任意抽出法とがあり、いずれも全体の推測を目的とする一部調査の方法として優劣をつけがたく、並列されるべきものであること、しかしかつてマイエットが主張したような代表法、とくに標本法の有効性を認めることができず、ましてや代表法が全面的に大量観察代用法として悉皆大量観察に代わる機能を果たす調査と結論づけられることはなかった。ただし、ルフトにあっては、代表法は少なくとも広範囲に及ぶ地域にかんする概要を与えることでは一定の役割を果たすとの示唆が示されている。

筆者は「むすび」で本稿を要約しているので、それを以下に引用する(pp.101-2)。
(1)キエールがISIで代表法の有効性を主張したとき、彼はマイヤー(代表法が全数調査に代わることはないと非難した)とボルトキヴィッツ(誤差の数学的評価が欠如していると論難した)との両方から、批判を受けた。代表法の有効性を論議するとき、キエール批判のこの2つの論点は、繰り返し、さまざまな論者によって主張されている。20世紀初頭以降のドイツにおける標本調査論争でも、そのことは例外でない。
(2)官庁統計の実務家を中心にして、次第に、代表法を積極的に活用してゆこうとする機運が生まれた。それは、とりわけ第1次世界大戦をはさむ時期における統計予算の削減と経費の高騰が、全数調査の実施を不可能ないし困難に陥れるという、いわば統計調査の「危機」を前にして、全数調査の代用となる統計調査を必要としていたことを反映している。
(3)代表法として括られる一部調査には、2つの種類がある。その一方は、後に有意選出法と呼ばれる「選出法」であり、他方は「標本法」(後の任意抽出法)である。標本調査論争のなかで、両者の特質や差異性が次第に明らかになった。
(4)このうちの「標本法」に推奨する論者はボルトキヴィッツやボーレーの系譜にいる人たちであったが、ドイツでは「標本法」をもって、あるべき代表法とみなす見解が支配的になることはなかった。
(5)2つの代表法のいずれが望ましい大量観察法であるかについては、その有効性の判断基準を「経験的なコントロール」におく限り、決定的な判定が下されることはなかった。代表法は正しい推定をあたえることもあれば、そうでないこともあったからである。しかし、いずれにしても、推定結果が妥当なものかどうかを、利用者みずからが検討できるよう、調査の概要を公表しておくことが重要であると見なされていた。

20世紀初頭に展開されたドイツ標本調査論争では、代表法の意義と限界についての確定的な結論は出なかった。その結論は1925年のISIローマ大会でのイェンセン・レポートまでまたなければならなかった。

木村和範「イェンセンの代表法-1923年ISIブリュッセル大会報告」『学園論集』(北海学園大学)第107号,2001年3月

2016-12-26 11:22:15 | 3.統計調査論
 本稿はイェンセンが1923年のISIブリュッセル大会に提出した論文「統計において労力の節約を実現させる方法」の内容を紹介したものである。筆者の整理によれば、この報告でイェンセンは任意抽出法と有意選出法とをいずれも代表法としての有効性を承認しつつ、どちらかというと後者を「一般化」にふさわしい代表法として推奨したい意向を述べている、という。構成は次のとおり。「1.代表法の必要性」「2.代表法の適用例」。

 「1.代表法の必要性」では、19世紀に入って統計へのニーズが高まり、官庁統計はそれに応えたが、国家財政の制限に直面し、それをいかに対応するかが問われるようになった。イェンセンは「利用可能な人的・経済的な補助手段」の利用を増大させることなく、この難問に直面し、その解決策として(1)統計サービスの機構改革、(2)作業方法の選別、(3)純技術的補助手段の導入を挙げた。ブリュッセル大会で、イェンセンは(2)作業方法の選別問題を考察した。イェンセン報告の趣旨は、代表法を統計調査法として導入すれば、削減された統計予算のものとでも社会的ニーズに応える統計を提供できる、という内容のものであった。具体的には「かなり急進的な方法」として、一部調査が、それもISIベルン大会でその有効性がキエールによって主張された代表法の採用が主張された。代表法の有効性を確認するための第一の方法は、誤差の計算である。この計算をイェンセンは、ボーレーを祖述したニュベレ(「一部調査による平均誤差について」)に依拠して行ている。イェンセンはニュベレの見解にもとづいて、推定値の分布の平均誤差を計算し、標本の大きさの増大が精度の向上をもたらすこと、平均誤差をある限界に抑えるために必要な標本の大きさを計算している。他方で、イェンセンは部分による推定値と全体数字との比較対照に「加重付加実験」を行っている。彼は代表法の有効性を事実(応用の結果から確認される推定値の正確さ)によって明らかにしようと試みた。この結果、イェンセンが到達した結論は上記に指摘したとおりである。

 「2.代表法の適用例」ではイェンセンが検討した3例、すなわち「(1)所得調査」「(2)土地利用調査」「(3)年齢別人口調査」をとりあげて、彼が代表法の有効性をどのように主張したかを紹介している。
「(1)所得調査」では、デンマークで実施された15税務管区を標本とする一部調査(標本調査)にもとづいて、全国の所得階級別の人口分布を調べ、これをすでに明らかになっている全国76税務管区にもとづく所得分布と比較している。この際、イェンセンは「任意抽出」と有意選出の2つの方法で標本を獲得し、それぞれの標本と全国数字を比較対照し、それらの方法の有効性を検討し、対応関係の良好さを結論として得ている。「(2)土地利用調査」で、イェンセンはそこに利用された代表法(標本調査)を取り上げ、その有効性を論じている。この際も、任意抽出と有意選出のそれぞれが検討対象として取り上げられ、どちらかというと有意選出が優れているという結論を得ている。「(3)年齢別人口調査」では、上記2例と子異なって代表標本を得るために、全数調査の結果を利用できない場合を想定した独自の推定方法を示している。結論としてはここでも有意選出法と任意抽出法の両方に等しく、その有効性が承認されているものの、後者を採る局面は限定されている。イェンセンにとっては、任意抽出法の採用に必ずしも積極的でなかった姿勢が垣間見られる。

 「むすび」で筆者は、イェンセンによる、代表法へ懐疑的な異論への反論を紹介している。第一の異論は、代表法の適用で得られた統計にもとづいて一般化が可能なのはなぜかというものであるが、イェンセンはこれに対して代表法を部分と全体との懸け橋に例え、その強度が専門技術者によって担保されていれば、それだけで十分であり、官庁統計を「シーザーの妻」(世人から疑われる一切の行為をしてはならない人)に見立てている。官庁統計業務を所管する機関や国家に対して情報を提供する国民と官庁統計家との間の「相互信頼関係」の維持が大前提とされている。第二の異論は代表法の活用によって統計部局の作業が堕落するという懸念(近似的な値でよいということになれば、統計作成の全過程で作業の質が低下するのではないかという懸念)であるが、これに対しては厳密な正確さを要求される統計とそうでない統計との峻別、投入できる労力にみあった調査の必要性を強調している。イェンセンが意図したことは、全数調査と標本調査とがともに可能なときに、あえて全数調査を実施せずに標本調査を行うということではなく、時間的制約によって標本調査しかとりえない局面での標本調査の実施という提言である。

以上に見たイェンセンの主要論点は、筆者のまとめるところ、次のとおりである。
(1)代表法は、経費、時間、労力などの制約があるとき、積極的に活用すべき「労働節約的方法」である。
(2)この方法には、有意選出法と任意抽出法の2つがある。
(3)代表標本の獲得という観点から見れば、有意選出法が優れている。
(4)しかし、全数調査によるコントロールがつねに可能であるとは限らないので、その場合には、任意抽出法が適用される。
(5)標本調査によって得られた統計は近似的なものであって、全数調査で得られるものと同様の正確さはない。しかし、近似的な統計では十分であることもあるし、また時間的制約によって標本調査しか実施できない場合もある。
(6)官庁統計は、国民がその真実性に疑義を抱くことのないように、代表性を十分に確保しなければならない。     

7 産業連関分析とその応用

2016-12-15 20:09:17 | 社会統計学の伝統とその継承
7 産業連関分析とその応用

  戦後,計量経済学を基礎としたモデル分析とともに注目された経済学的手法は,産業連関分析である。この分析手法は,産業連関表という特殊な加工統計をベースに求められた投入係数あるいは逆行列係数を利用し,外生的に与えられた最終需要に対応する産業部門別均衡産出量の導出方法である。その産業連関表は行と列に同じ順序で並ぶ部門で構成された格子の形状をとる表で,行にそって各部門の販路構成を,列にそって投入構成を読み取ることができる。
 産業連関表とその分析手法は,W.レオンチェフ(1906~1999)によって開発された。主要国では定期的に作成され,制度化された統計のひとつである。日本では昭和30年7月に公表された昭和26表(通商産業省・経済企画庁)が最初で,以来,全国表が5年周期で作成されている。現在,同表の作成は全ての都道府県で,またいくつかの都市で実施され定着している。
 産業連関分析の適用はさまざまで,個別的な波及効果分析に多用されるが,経済計画での原型は中期経済モデル(昭和40年1月策定,計画期間[昭和39年~43年])で示されている。すなわち,このモデルでは計量経済モデルと産業連関(モデル)分析とが連動するシステムを構成し,前者のモデルで与えられた最終需要の予測値から産業部門別にブレイクダウンした均衡産出量がもとめられる仕組みをとる。上述の巷間にみられる種々の経済効果分析も大方,このような産業連関分析の利用に準じている。

1 産業連関分析の基本性格
 産業連関分析の推奨は,均衡論的近代経済学者とそれに追随した官庁エコノミストによって行われた。この分析手法の信奉者の対極で,社会統計学の担い手の側から逸早く,その問題点を体系的に明らかにしたのは山田喜志夫である。山田は「産業連関分析の基本性格」(1958年)[1]で,産業連関分析の理論的基礎を解明し,その分析手法の限界を示した。論点は硬直的生産関数の一種である投入係数の問題点(この生産関数の一次性,同次性,固定性)とこの手法の物量的均衡論的性格のそれである。山田の議論の延長線上で,野澤正徳は「静学的産業連関論と再生産表式(1)(2)」(1966-67年)[2]で,また伊藤陽一は「産業連関論と地域産業連関論」(1967年)[3]でこの分析手法の意義と限界について論じた。
 野澤は当該論文で産業連関論に体系的な価値・価格論がないこと,その部門区分の基礎に使用価値的視点,物的・技術的視点が一貫していること,産業連関論とワルラス一般均衡論が親近性をもっていること,ケインズ的経済循環論を拡張した側面をもっていること,社会主義諸国での評価(ランゲ,ネムチーノフ,マイスナーなど)に難点があることを指摘した。伊藤論文では,地域分析の有力な数理的手法として評価された地域産業連関分析の有効性を批判的に検討した。
 社会統計学の内部ではその後も,より論点を絞ってこの分析手法の問題点の解明が持続的に進められた。なかでも長屋政勝「産業連関表における投入係数について」(1973年)[4]は,投入係数の背景にある理論問題を紹介,検討した注すべき論稿である。長屋はこの成果を踏まえ,後に「産業連関論」(1974年)[5]を執筆している。この論稿は産業連関論の理論的脆弱性を明らかにする課題意識のもとに,連関論の骨子を批判的に吟味し,この理論がどのような経過をたどって再生産されたのか,連関論を応用した経済計画がいかに脆弱であるかを検討している。
 わたし自身は上記の山田(喜),長屋の議論を理論的土台として,この分野で一連の研究を行った。「産業連関分析の有効性について」(1979年)[6],「産業連関分析の現在とその展開」(2000年)[7]では,この分析の基本性格を理論的,方法論的観点から論じ,さらに連関表の拡充,その今日的展開を跡づけ,これらを批判的に考察した。また「産業連関表の対象反映性」(1983年)[8]では,産業連関分析のもとになる連関表の統計としての脆弱性を究明し,同時にマルクス再生産表式に準拠してこの表を再構成する試みを行った。さらに,「産業連関分析の有効性に関する一考察-その具体的適用における問題点-」(1982年)[9],「産業連関論的価格論の批判」(1982年)[10],「日本の経済計画と産業連関モデル-モデルの整合性をめぐって-」(1987年)[11]を公にし,前者2者では連関分析の公害問題や価格論への適用における難点について,後者では日本の経済計画への連関モデルの問題点について論じた。これらの研究の目的は,連関分析ないし連関モデルを,ある適用領域に応用すると,そこに経済理論上の欠陥が顕在化することを具体的に指摘することにあった。他に「投入係数の予測」(1980年)[12]があり,この論稿は産業連関分析の要である投入係数の予測の形式性を,RAS方式を事例として検討したものである。

2 産業連関分析の利用をめぐって-泉方式による剰余価値率計算とその批判-
 他方で,産業連関分析の限界の指摘だけに議論を停留させることに飽き足らず,その有効性を実証しようとする試みが70年代に入って登場した。ひとつは産業連関分析を利用して剰余価値率を測定した泉弘志の試みである(「剰余価値率の推計方法と現代日本の剰余価値率」[1976年])[13]。もうひとつは産業連関分析を民主的政治陣営の生活基盤重視の公共投資政策に利用する木下滋,土居英二の試みである。前者に関して上記の論稿で泉は剰余価値率を価値レベルで行うとし,その推計のために, 一方で労働力の価値を, 平均年間賃金(T)×平均労働者家計消費構成比(K)×各商品の単位価値額当りの労働量(W)でもとめ, 他方で剰余価値の大きさを, 労働者の平均年間労働時間(Z)から上記の労働力価値の大きさを控除してもとめ, 剰余価値率の推計式である「剰余価値(不払い労働)÷労働力価値(支払労働)」にそれぞれの値を代入して計算するというものであった。ここで必要となる手続きは,物的財貨生産分野の労働力再生産のために使われた物的財貨の価値の労働時間への還元である。その際,物的生産部門の財貨への投下労働にはこれらの財貨に直接投下された生きた労働の他に,生産手段や原材料に投下された過去労働の支出も含まれる。両者を含めた投下労働量は,産業連関分析の手法の応用によって計算可能である。従来の剰余価値率の推計は,価格レベルで行われていた。これに対し, 泉の方法は価値レベルのそれであるとされた。泉によれば, 剰余価値率の計算では価値レベルで行う方法のほうが概念の内容(物的財貨生産部門の直接的生産過程からの搾取)にそくしているというわけである。

 泉の試算に対する批判は,山田喜志夫,山田貢,岩崎俊夫によって行われた。山田喜志夫は論文「産業連関論の検討」[14]で,レオンチェフ体系が労働価値説を前提としているCameronの見解をただした箇所が,泉の見解と間接的に関わる。山田(喜)はCameron批判のなか産業連関表の投入係数を使った連立方程式を解くことがスミスのドグマに通ずると批判している(野澤正徳「静学的産業連関論と再生産表式(1)『経済論叢』[98巻6号,1966年]にも同様の指摘がある-岩崎)。この指摘は,泉方式の価値計算にも当てはまる。

 山田(貢)は「剰余価値率・利潤率[コメント]」[15]で「『価値レベルでの剰余価値率』という概念は存在しない」,また「労働力の価値を労働時間で測りうるか」[16]で「不変資本に投下されている労働量は計算できない」として,泉の価値レベルの剰余価値率計算について批判的に論じている。
 山田(貢)の主張は,どのような労働も同等な人間労働として同じ時間には同じ価値を生み出すのが大前提なので,労働力の価値が同じであれば,剰余価値率は社会的平均労働に関してどの産業部門でも,どの企業規模でも同等である,すなわち生産された剰余価値の率は同じであり,その意味で産業部門別や企業規模別の生産された剰余価値率を比較することは意味がない,というものである。さらに国民的剰余価値率について,山田(貢)は労働力の価格と区別した意味で労働力の価値そのものを測定することはできないので,価値レベルの剰余価値率という概念は存在しない,と主張する。
 山田(貢)見解について泉は,①現実には産業部門別にかなりの労働時間の差があり,この労働時間に応じて価値が生産されているはずなので,労働力価値が等しいと仮定すると,産業部門別,企業規模別で剰余価値率に差が出てくる,②現実には労働力価値(労働力の再生産のために使われている生活手段の価値)には産業部門間,企業規模間で大きな差がある,③現実に産業部門間,企業規模間で労働時間と労働力価値との間に比例関係はなく,かえって労働時間が長い部門に低賃金が見られる,と反論している。また,「不変資本に投下されている労働量は計算できない」という山田(貢)の見解について,泉は第一に,自身の方式でのこの部分の労働価値計算は現在の平均的条件で再生産するためにどれだけの労働時間が必要なのかということなので問題にならない,と指摘している。第二に,労働時間と交換価値がイコールなのかという理論問題で,泉は商品の価値は社会的必要労働で決定される,山田のこの問題提起は生産価格や市場価格が価値からどのように乖離するかということで,価値そのものが変化するということではない,と応酬している。第三に,一円当り直接,間接労働時間を計算する方法が
貨幣の本質からいって可能なのかどうか,「結局,1円当り価値(労働時間)の変化というのは金の価値の変化をしめすことになる」のではないかと問うているが,泉によればそうではなく単位当たりの直接,間接労働時間を計算したのであると,言明している。
 わたしは,以下の論稿でこの剰余価値率計算の泉方式が価値レベルの計算ではなく,労働時間に還元した計算であることを中心にその問題点を指摘した。「産業連関表にもとづく剰余価値率計算と社会的必要労働による価値量規定命題」(1989年)[17],「剰余価値率の統計計算と市場価値論次元の社会的必要労働-泉方式の意義と限界-」(1990年)[18],「価値レベル剰余価値率計算の泉方式について」(1990年)[19] 。(泉は「労働価値計算にもとづく剰余価値率推計について-岩崎俊夫の批判に答える-」[20]で,わたしの見解に反論している。)
 泉は近似計算としての価値計算にこだわり,この価値計算を現存の平均的な生産諸条件のもとで決定される社会的必要労働量の測定として行うが,この測定が産業連関表を使うことで可能になるとする。これに対し,わたしは剰余価値率計算の泉方式が労働時間還元法であり,それだけでこの方式の意義が十分に確定できるが,それを価値(レベル)の計算とする経済学的根拠が無いと指摘した。

 なお,泉はわたしの泉方式批判の一部で,連関表を利用して統計の平均計算を積み重ねて剰余価値率計算に取り組むのは,現代資本主義のもとでも長期的にみれば均衡状態を想定できるとの判断にたってのことであると指摘したことに関連して,泉が『資本論』の価値とか社会的必要労働という概念が需給一致の理想的平均を前提するとは考えておらず,わたしのそのような理解こそが『資本論』の均衡論的解釈である,とのべている箇所がある[21]。この議論をし始めると,統計学から離れていくので,ここでは簡単に触れるにとどめるが,資本主義経済が全面的商品交換社会を前提としている限り、そこに価値法則が作用していることは自明であり、価値あるいは社会的必要労働といった概念が意味をもつことも当然である。『資本論』の主要課題は資本制生産の一般法則の解明にあり,「資本主義的生産様式の内的編成を,いわばその理想的平均において示す」ことに限定されているが[22]、現代資本主義経済にも資本制生産の一般法則が働いているかぎりで、その理論的解明には「理想的平均」の論理次元での分析が意味をもつからである。しかし、それだけでは、現代資本主義の実際の分析には不十分であり、経済が現実の不均衡にさらされ、動態化の局面での分析が必要になる。現代資本主義経済においては、こうした不均衡がむしろ常態化していることにその原理的特徴がある。連関表はそれが統計であるかぎり、現実経済を表象で捉えるものである。したがって、そこには資本制生産の一般法則が「理想的平均」のもとで示された法則や概念がそのままでは妥当せず(上記のようにそれらが無くなったわけではない)、むしろ偏倚をともない歪んで表出している。それゆえ、資本主義経済の基本概念の扱いには、この論理次元に相応しい、それなりの注意が肝要である。『資本論』の市場価値論、市場価格論では、そうした接近に必要な方法論的示唆が与えられている。マルクスはまた次のようにも書いている。「このような一般的剰余価値率-すべての経済法則がそうであるように傾向から見ての-をわれわれは理論的簡単化として前提している。・・理論では,資本主義的生産様式の諸法則が純粋に展開されるということが前提されるのである。現実にあるものは、いつでもただ近似だけである」[23]。わたしは理想的平均という用語をこの意味で使ったのであり,このことをもってわたしが『資本論』の均衡論的解釈におちいっていると指摘するのは無理であろう。

 また、剰余価値率が近似計算であることに関連して、わたしが泉による試算を価値レベルの近似計算としたことについて疑問を呈したことをとらえて、それでは上杉正一郎、山田喜志夫、広田純の剰余価値・剰余価値率計算に関してもわたしが同じレベルで疑問をもっているかをただしている[24]。結論だけ示すと、これら3者の試算は価値レベルのそれであるとは規定していない。わたしは泉の方式が労働時間還元法である限りで評価をしている(それでも上記の3者の試算と同じように近似計算であるが)。価値レベルの近似計算、と規定するので問題がこじれたのであり、そのレベルでの試算は不可能であると言っているだけである。

3 産業連関分析の利用をめぐって-生活基盤型公共投資の波及効果分析-
 以上の剰余価値率計算への産業連関表(分析)の利用とは別に,1970年代後半に,この分析手法を用いて,大阪都市圏の再生を関西空港中心の大型プロジェクトで牽引すべきか,それとも生活環境・防災型で行うべきかを分析し,両パターンの比較から後者を推奨する研究が試みられた。発端となった論稿は,宮本憲一・木下滋・土居英二・保母武彦「公共投資はこれでよいのか」(1979年)[25]である。この研究は1979年に行われた大阪府知事選挙で保守陣営が政策目標として掲げた産業基盤重視型の公共投資と比較して,革新陣営の生活基盤重視型の公共投資政策が景気浮揚効果や雇用効果で劣るとされた巷間での議論に対する反証を意図したものであった。同じ趣旨で,引き続き木下は「地域における公共投資の波及効果-地域産業連関表による-」(1980年)[26],「実証的経済分析と産業連関論」(1982年),「産業連関分析による公共投資の効果測定の意義と限界」(1984年)を,土居は「公共投資の二類型と波及効果の比較-産業連関表の利用をつうじて-」(1981年)を発表した。木下の「実証的経済分析と産業連関論」は,実証的経済分析における産業連関分析の有用性の主張に対する社会統計学内部からの批判に応えたものであり,「産業連関分析による公共投資の効果測定の意義と限界」は,上記の宮本論文に対する批判(この計算が公共投資を有効需要創出という狭い視点からのみ評価している,この計算の限定的前提を容認してもなお用地費を考慮していない点で欠陥がある,さらにこの計算を産業の生産額の配分や雇用について検討するのは良いが,全産業を括って生産誘発効果を云々するのは意味がないとの批判)に応えたものである。土居の論稿は,「公共投資の有効性というとき,用地費が欠落していることは致命的」という神戸市都市問題研究所の指摘を受け,その指摘を真摯に受け止めた反論したもので,「生活基盤型公共投資は,産業基盤型のそれに比べ,優るとも劣らない効果をもつ」という主張が,用地費を考慮した全国対象の分析の結果から現実妥当性をもつと実証できると結論づけている。
 一連のこれらの研究は,公共投資の波及効果を産業基盤型と生活基盤型で産業連関分析を利用して推計し,公共投資の方向を大型産業基盤整備型投資から生活基盤整備型投資への切り替えを主張するものであった。いずれも産業連関分析の意義と限界を承認しながらも,その意義と有効性を重視し,それらを積極的に引き出し,活用する試みであった。

 木下はその後,「実証的経済分析と産業連関論」(1982年),「産業連関論分析による公共投資の効果測定の意義と限界」(1984年)を執筆し,連関分析の実証分析への積極的応用に対する自身の試みに対する批判に反論し自説を擁護した。また泉は剰余価値率推計,労働生産性の計算を続け,公表した多くの論稿を『剰余価値率の実証研究』(1992年),『投下労働量計算と基本統計指標-新しい経済統計学の探求-』(2014年)に収め,出版した。 
泉の研究と木下,土居の研究とは,その対象領域が異なるものの,共通しているのは利用される産業連関分析がその初発(レオンチェフ段階)で有した理論的基礎を問わず,分析手法の性格を技術的形式的に解釈し,マルクス経済学や民主的計画論でそれを基礎づけることができると理解していることである。すなわち,泉による剰余価値の測定は,自身の言明によれば,価値論に立脚するそれであると強調された。また木下・土居の公共投資測定論は必ずしもマルクス経済理論に依るとの明示的表明はないが,民主的行政主体がそれ自らの政策を提示する必要性に応える形で提案され,この場合,民主的行政主体の立場にたつ経済理論である,とされた。連関論がもともと前提としていた部分的均衡論に代わる別の階級的視点にたつ経済理論でこの分析手法を基礎づけることができるがゆえに,この手法をその観点から積極的に利用すべきであるというのが主張の要である。
 以上に紹介した論点以外の業績(1990年前後以降)については,朝倉啓一郎「産業連関表と分析」に詳しいので参照されたい[27]。
 また旧ソ連では産業連関分析にその形式と内容と類似した部門連関分析が1960年前後から登場したが,これについての批判的研究がいくつかあるので以下に掲げる。野澤正徳「部門連関バランスと社会的生産物」(1967年)[28],野澤正徳「部門連関バランスの諸形態と固定フォンド(1)(2)(3)」(1968年)[29],芳賀寛「部門連関バランス研究に関する一考察」(1986年)[30],岩崎俊夫「国民経済バランス体系と部門連関バランス-歴史的位置と理論的基礎-」(2011年)[31]


[1] 山田喜志夫「産業連関分析の基本性格」『統計学』第7号,1958年(『再生産と国民所得の理論』評論社,1968年,所収)。
[2] 伊藤陽一「産業連関論と地域産業連関論」『開発論集』(北海学園大学開発研究所)第1巻第3号,1967年3月。
[3] 野澤正徳「静学的産業連関論と再生産表式(1)(2)」『経済論叢』第98巻第6号,1966年;第99巻第4号,1967年。
[4] 長屋政勝「産業連関表における投入係数について」内海庫一郎編『社会科学のための統計学』評論社,1973年。
[5] 長屋政勝「産業連関論」山田喜志夫編『現代経済学と現代(講座 現代経済学批判Ⅲ)』日本評論社,1974年。
[6] 岩崎俊夫「産業連関分析の有効性について」『経済学研究』(北海道大学経済学部)第29巻第3号,1979年。
[7] 岩崎俊夫「産業連関分析の現在とその展開」『統計的経済分析・経済計算の方法と課題』八朔社,2003年。(「産業連関的経済分析の方法と課題」として『統計学の思想と方法』北海道大学図書刊行会,2000年,所収)。
[8] 岩崎俊夫「産業連関表の対象反映性」『経済論集』(北海学園大学経済学部)第30巻第4号。
[9] 岩崎俊夫「産業連関分析の有効性に関する一考察-その具体的適用における問題点-」『研究所報』(法政大学・日本統計研究所)第7号。
[10] 岩崎俊夫「産業連関論的価格論の批判」『経済分析と統計的方法』産業統計研究社,1982年。
[11] 岩崎俊夫「日本の経済計画と産業連関モデル-モデルの整合性をめぐって-」『経済論集』(北海学園大学経済学部)第35巻第2号。
[12] 岩崎俊夫「投入係数の予測」『統計的経済分析・経済計算の方法と課題』八朔社,2003年。初出は「産業連関分析と経済予測-RAS方式による投入係数修正の妥当性について-」『経済学研究』(北海道大学経済学部)第30巻第1号,1980年。
[13] 泉弘志「剰余価値率の推計方法と現代日本の剰余価値率」『剰余価値率の実証研究』法律文化社,1992年。初出は『大阪経大論集』(大阪経大学会)109/110号,1976年。
[14] 山田喜志夫「産業連関論の検討」『統計学』第7号,1958年。
[15] 山田貢「剰余価値率・利潤率」『統計学』第30号,1976年。
[16] 同「労働力の価値を労働時間で測りうるか-泉氏への回答-」『統計学』第34号,1983年。山田には他に,「労働時間による剰余価値率の推計についての若干の問題」『統計学』第44号,1986年がある。
[17] 岩崎俊夫「産業連関表にもとづく剰余価値率計算と社会的必要労働による価値量規定命題」『経済論集』(北海学園大学経済学部)第36巻第4号,1989年1月。
[18] 岩崎俊夫「剰余価値率の統計計算と市場価値論次元の社会的必要労働-泉方式の意義と限界-」『経済論集』(北海学園大学経済部)第37巻第4号,1990年3月。
[19] 岩崎俊夫「価値レベル剰余価値率計算の泉方式について」『統計学』(経済統計学会)第59号,1990年9月。
[20] 泉弘志「労働価値計算にもとづく剰余価値率推計について-岩崎俊夫の批判に答える-」『剰余価値率の実証研究』『剰余価値率の実証研究』法律文化社,1992年。
[21] 泉,同書,163頁。
[22] マルクス『資本論』第Ⅲ巻(第2分冊),大月書店,1064頁。
[23] マルクス『資本論』第Ⅲ巻(第1分冊),大月書店,221頁。
[24] 泉,同書,153頁。
[25] 宮本憲一・木下滋・土居英二・保母武彦「公共投資はこれでよいのか」『エコノミスト』1979年1月30日号。
[26] 木下滋「地域における公共投資の波及効果-地域産業連関表による-」『岐阜経済大学論集』第14巻第3号,1980年。
[27] 朝倉啓一郎「産業連関表と分析」『統計学(社会科学としての統計学[第3集])』第69・70合併号,1996年3月。
[28] 野澤正徳「部門連関バランスと社会的生産物」『経済論叢』第100巻第4号,1967年10月
[29] 野澤正徳「部門連関バランスの諸形態と固定フォンド(1)(2)(3)」(1968年)『経済論叢』第101巻第2,3,4号,1968年2月
[30] 芳賀寛「部門連関バランス研究に関する一考察」『経済学年誌』第23号,1986年(「国民経済バランス論における部門連関バランス研究」として『経済分析と統計利用-産業連関論および所得分布論とその適用をめぐって-』梓出版社,1995年,所収)
[31] 岩崎俊夫「国民経済バランス体系と部門連関バランス-歴史的位置と理論的基礎-」『立教経済学研究』第65巻第2号。(「国民経済バランス体系の確立と部門連関バランス-歴史的位置と理論的基礎-」として『経済計算のための統計-バランス論と最適計画論』日本経済評論社,2012年,所収)