社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

藤井輝明「計量経済学と偶然性」(『統計学と統計利用』産業統計研究社,2010年,所収)

2017-10-08 20:07:44 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)
藤井輝明「計量経済学と偶然性」(『統計学と統計利用-統計利用の方法論と,集積経済の推定,地域人口動態分析への応用』産業統計研究社,2010年,所収)

筆者は本稿で,計量経済学に対する従来型の批判を整理しながら,しかしそれらと異なる立場からその有効性を論じている。異なる立場と言うのは,計量経済学の構造が決定論的であると評価し,誤差の仮定やデータ主導型分析において形式数理以外の情報でこれを補う論理をもちうる,という考え方のことである。   

 構成は次のとおり。「1.はじめに」「2.計量経済学の有効性をめぐる論点の『転換』」「3.計量経済学の古典的方法についての基本的論点」「4.決定論としての計量経済学」「5.偶然と誤差」「6.計量経済学の変質」「(補論)決定論と臨界」。

筆者は最初に1980年代半ばまでの社会統計学における計量経済学をめぐる議論を,𠮷田忠が10年前に行った整理に依拠して,サーベイしている。それによると,計量経済学研究は次のパターンに集約できる,とする。第一は広田純,山田耕之介,是永純弘らに代表される「方法論批判」である。その特徴は,計量経済学が設定する仮定が恣意的であり,「不可知論」的認識論にたつ方法と考え,方法としてのこの側面が計量経済学の全てであるというものである。第二は弁護論批判の見地(資本主義弁護論)である。これには,次のバリエーションがある。(1)批判をつうじてその限界と役割を明らかにすると同時に,そのなかから批判的に摂取すべきものを見出す立場。(2)それが特定の現実,政策と結びつく具体的な資本制経済計画と経済社会政策の決定過程を分析し,その科学性をみせる背景として,計量経済学の方法が利用されていることを指摘する立場(𠮷田忠)。(3)その経済理論・計量経済学の方法が想定する世界観と現実の政策実践過程を分析すればするほど,両者の不可分性が露呈するはずであるとするもの(浜砂敬郎)。

𠮷田は方法論批判の対象が「研究室レベルにおける計量経済学者の目標・意識と結びついた計量経済学の方法と,それを規定した計量経済者の世界観・科学方法論(社会的イデオロギー)とであった。これを史的唯物論に依拠した正しい社会科学の方法との対比において批判したが・・・(それは経済計画の作成等ではたしている弁護論的役割(ないし粉飾効果))の方法的基盤に対する批判へと展開されねばならなかったのではないだろうか」と批判の方向を示唆している。初期の「方法論的批判」は,数量的科学研究の方法論の否定である。𠮷田は「方法論的批判」の意義を認めているが,となるとこの全面的否定の立場にどのように対処するかが問題になる。また,方法論的な計量経済学批判において決定的に重要なのは,社会における確率過程あるいは偶然性の仮想性をどう理解するかである。

筆者によれば,計量経済学の有効性をめぐる論点は,ある時点で「転換」した。「方法論的批判」のなかで,計量経済学の経済学における利用を全面否定する立場は,経済学の論理に数理統計的方法が不適当であることを経済学に関する先験論理で説明する。これに対し,上記で(1)と整理した立場は計量経済学的分析が必要であり,批判的摂取こそが重要である,とする。𠮷田のいう「方法論的批判」の立場は,方法論的批判の意味をある特定のそれとして考えるようになっている。この段階で全面否定論は,計量経済学のもつ方法上の問題点やそれがもたらす理論的バイアスをもった結論を批判するのではなく,計量経済学がどのような理論とでも結びつくことを批判するようになった(計量経済学は「どんなに対立する理論でも命題でも同じように数値的にその正当性を証明してみせることができる」[山田耕之介])。このような計量経済学全面否定論の「次元の転換」はなぜ生じたのかといえば,筆者の考えでは,統計学=社会科学方法論説がとる一つの姿勢,すなわち方法が実質科学を反映していなければならないとするこの説の機械的適用があったからである。

 このことだけ確認すると,統計学=社会科学方法論説はその存在意義を失ったかのように思えるが,筆者は科学研究では方法が対象のもつ性質の規定を受けること,対象についての理論的経験的研究を基礎に方法を考えざるをえないこと,対象のもつ性質を認識できるような方法を主体的に選ぶことの重要性を示したこと,などいくつかの重要な問題提起をしていることに注目すべきと言う。また機械的適用というのは,社会科学方法論説では認識対象は認識主体と別に存在することを前提としており,過去に主体の側で構成された事前の理論にもとづく客観的認識を仮定して構成した方法で,設定した仮説の正しさを客観的に検証するものでなければならないはずだからである。

結局,計量経済学の有効性に関する論争は,この視点の具体的分析への適用の仕方をめぐる認識方法論の対立である。

 以上の点を確認して,筆者は計量経済学の古典的方法に関する基本的論点を,古典的モデルにおける方法上の仮定,経済理論の可測性,計量モデルの「単純さ」,構造の安定性([a]決定論としての計量経済学,[b]係数の安定性),変数選択の妥当性の順で論点整理を行っている。経済理論の可測性では,計測可能な変数間の構造に数量化しつくせない要因の影響をよみとるべきこと,計量モデルの「単純さ」では,計量経済学では線形構造での推定であるがゆえに,近似的に確率的といいうる定差誤差が存在するというべきこと,構造の安定性では,計量経済モデルが優れているみなされるのは,線形方程式の体系で表される決定論的関係によって可能な限り多くの効果を説明しうること,等々を確認している。補論として,筆者は計量経済学の基本構造の決定論的性格(外政変数の設定があるので完全に閉じた決定論的世界ではないが)と数理統計学における誤差分布の仮定の意義について論じている。関連して,是永純弘など方法論的批判論者が,計量経済学非決定論的性格を主張したことに疑義をなげかけている。是永のこの誤認は極端な決定論にたっていること,認識の単純化を認めない立場に由来する。筆者はまた,是永の誤差項についての扱い,とりわけ未知のものを全て偶然誤差と断定し,定義誤差を偶然誤差とする仮定が正しくないとした誤解が,計量経済学の理論そのものが非決定論で不確定とする立場からきている,としている。誤差項の仮定の恣意性という方法論的批判論者の見解に対しては,誤差の存在や誤差の形状が実体に即して仮定されという主張で切り返している。

以上の議論の延長線上で,計量経済学(モデル)の評価が個別モデルについてなされる次元に入ったとして,筆者はそうした個別モデルのひとつである「民主的改革」モデルを批判的に検討した岩崎俊夫の見解(岩崎俊夫「民主的計画化のマクロ計量モデルに関する一考察-検討:モデル・政策・理論の『整合性』-」『立教経済学研究』45巻4号)を議論の俎上にとりあげている。とはいうものの,筆者によれば,岩崎の論理は実質科学的論評でその意味では結果として個別的有効性を論じたものであるが,実際には個々に内容に即して有効かどうか判断することに懐疑的である。また,岩崎は計量経済学の方法が実質的内容についての認識を制約しているというが,民主的計画モデルについてモデルが分析目的に応じて個々に考えられる,と述べるなど,事実認識に混乱があると指摘している。

筆者は最後に,データ主導型分析を提唱する。重要なのはどのような理論を説明するかではなく,データ生成プロセスをよりよく説明することである。実証的研究の積み重ねの結果わかったことは,理論の実証ということの難しさである。係数の安定性や誤差についての仮定をゆるめれば,安定的な結果を得るのはさらに難しくなる。本稿の後半部分,とくに岩崎見解に疑義を呈しているあたり以降は,文章に明晰さが欠けていて,主旨がわかりにくい。


菊地進「計量経済学批判の方法と課題」『統計学』49・50合併号,1986年8月

2017-10-06 15:08:37 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)

筆者は1970年代半ば以降,計量経済学をめぐる状況に変化があると見る。一つは60年代から70年代にかけて開花した計量経済学がケインズ型マクロ計量モデルの破産を契機に,方法論的反省を余儀なくされたことである。もう一つは批判経済学の側で計量経済学の有効性を認め,その批判的摂取図るべきとする見解が台頭したことである。この論文は,1976年からの10年間のこの分野の回顧と分析であるが,筆者はこの間の意見対立がどこにあったのか,対立克服の条件と方向がなんであるのかを明らかすることが必要なこと,述べている。
筆者は最初に10年前の𠮷田忠によるこの分野での業績の総括を整理する。𠮷田は計量経済学批判を,方法論的批判,弁護論批判,経済計画における利用形態批判の3つの系譜に分け,それぞれの特徴と問題点を指摘した。𠮷田によると,「方法論的批判」は研究室レベルにおける計量経済学者の目標・意識と結びついた計量経済学の方法を対象とし,「弁護論批判」は計量経済学の資本主義弁護論的性格を主張した。これは計量経済学の一定程度の有効性の承認と結びつく可能性を秘めているが,計量経済学の適用範囲にまで対象を広げ,より体系的に批判したもの,と評価できる。これを実践したのが「経済計画における利用形態批判」である。しかし,この批判は方法論的に無効である計量経済学が実際にどのような役割を果たすのかを十分に明確にしえなかった。今後の批判の方向は,批判の対象を国家と総資本の本質的意図の具体化の全過程=経済計画策定過程にまで広げることが必要である。このように計画批判のプランを示した吉田は,計画の内容としての政策体系が計画作成方法と無関係に与えらえるという「二元論的構造」を指摘する。

この吉田の「二元論的構造」説には二つの立場から異論がだされた。浜砂敬郎は,中期経済計画を検討し,そこで算出されたマクロ計画値が「計画」の政策体系と対応関係があり,𠮷田にそれがみえないのは科学方法論的視点にたつからで,マクロ計画値の社会的依存性が問われていないからである,とする。筆者はこの吉田と浜砂の対立の要点は,計量経済学批判の課題からすれば,計量経済学=方法説の是非にあると述べる。
もう一つの異論は,計量経済学の有効性を認めるべきであると主張する山田(彌)によるものである。山田(彌)は,「長期や中期の計量モデルによって,独占資本によって必要な限りでの整合的な経済見通しと政策の大枠を決定することができる」との見解を表明し,𠮷田の「二元論的構造」説を否定した。

計量経済学の利用を推進するためには従来のそれに対する否定的評価を一掃しなければならないと考えた山田(彌)は,方法論的批判説に対する批判を開始する。山田(彌)の主張は要するに,方法論的批判は計量経済学(モデル)の全面的批判,全面的否定である,計量モデルは因果関係を表現することができるし,因果性を付与して解釈できる,モデルの評価は,具体的かつ個別的に行わなければならない,現実の本質的側面を正確に反映した計量モデルの作成は可能であり,そうしたモデルを使って政策シミュレーションが意味をもつ,というものであった。
批判的経済学の側でこのような研究が進められていた時期,近代経済学の側では計量経済学の従来型の方法に対する懐疑と批判が顕在化していた。批判の矛先は,経済政策の実施の有無にかかわらず構造パラメータを一定と仮定していること,モデルの大型化=作業量の厖大化に比し,予測成績が悪いことに向けられた。批判の急先鋒は,合理的期待形成を旗幟に掲げる論者であった。計量経済学の従来型の方法にみられる上記の難点にたいして,彼らがとったやり方は予測変数の導入,これを説明する方程式(合理的期待仮説)の導入である。このような方法をとると,モデルと統計データとの対決,すなわちモデルの妥当性の検証は,構造方程式のレベルで行うのではなく,それから導かれた誘導方程式のレベルで行わなけれならなくなる。この方法を首尾一貫させるためには,同次連立方程式モデルを退けねばならない。モデルの検証方式をめぐる意見対立は,同次連立方程式モデルの登場以来,常に発生してきたことであり,今回の対立はその延長線上にある。

山田(彌)は合理的期待説による批判点は方法論的批判説が指摘した論点と同一であるとして,同次連立方程式モデルを擁護する観点からこれを拒否した。筆者はこのことを確認しつつ,しかし問われるべきは計量経済学の有効性を主張するのであれば,計量経済学の内部で上記のような対立と混乱がなぜ生まれたのかについて回答を用意しなければならないと,迫る。他方,近昭夫,山田貢は合理的期待説の批判の論点は方法論的批判説が指摘してきたたことと同じと考えその見解を評価する。ただし,筆者によれば,合理的期待説の批判は近,山田がとらえたように,計量経済学の外部からなされたのではなく,内部での混乱である。この視点は,計量経済学の今後を考えるうえで非常に重要である。なぜなら,こうした混乱の結果生み出されるのは,そこで認めざるをえなかった問題点を糊塗する手法の新たなモデル開発であるからである。
計量経済学が何かを考えようとすると,過去におけるその展開目を向けざるをえない。今日の計量経済学がこれまで直面してきた方法上の困難,

また混乱の原因を解く鍵が計量経済学のこれまでの展開そのものの中に与えられているからである。
計量経済学の方法は,純粋に手法の面から言えば,自然科学における統計的方法ないしその展開にすぎない。条件の違いを無視して社会科学の分野で適用すれば,何らかの形でその欠陥を認識せざるをえなくなる。計量経済学の変遷は,新しい方法の開発で古い手法の欠陥を一時的に覆い隠し,モデルのスクラップ・アンド・ビルドが繰り返される過程であった。こうした点を踏まえると,計量経済学の評価をめぐる意見対立は,その有効性をめぐる対立ではなく,計量経済学=方法説を認めるか否かにつきる。

菊地進「計量経済モデル分析における時系列解析の復位」『立教経済学研究』第48巻第3号, 1995年

2016-10-18 14:37:18 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)
菊地進「計量経済モデル分析における時系列解析の復位」『立教経済学研究』第48巻第3号, 1995年

 筆者の問題意識は,計量経済学が当初,時系列解析法に対して批判的であり(理論なき計測), その後同時方程式モデルが考案され確率的アプローチが導入され, 同じ批判的スタンスが維持されたにもかかわらず, 戦後,積極的に時系列解析の成果が許容されるにいたったのは何故なのか, その場合, 計量経済学の自己規定はどうなるのかを解明することである。本稿は, その予備的考察と位置づけられている。

 筆者は上記の問題意識のもとに, 計量経済モデル分析に時系列解析が復位するプロセスを,この分析手法が考案された時点にまで遡って整理している。具体的には, H.ムーア,H.シュルツによる需要曲線の計測に対するE.J.ワーキングの問題提起(不用意な統計的分析が理論的に無意味な計測をもたらすとする識別の問題), 同時方程式モデル確立の契機, このモデルにおけるパラメータ推定の経緯,ケインズ型マクロ計量モデルの定着, モデルの大型化に至る理由, マクロ計量モデルに対するその後の批判(M.フリードマン), 合理的期待仮説の登場とそれにもとづくモデルの作成,系列相関を重視したモデルがもとめられた根拠,計量経済モデル登場の当初に予想もされなかった時系列モデルとの良好な関係を,順次,計量経済モデル構築の種々の統計的手法の変遷に内在して追及している。中間的結論として, 計量経済学が自己回帰モデルを今日にいたって無視しえなくなったのは, モデル分析法を予測や政策シミュレーションといった実用目的に利用しようとしたことの必然的帰結である, としている。

 計量経済学はその出発の時点で, 理論的に導かれた経済関係式を統計的に確定することが最大の課題であった。単純回帰モデルの適合度の低さから多元回帰モデルの計測へと移行する際の説明変数の追加,それによって生ずる説明変数間の相関関係の強まりを反映した計測結果の不安定性(多重共線性), バンチマップ法(R.フリッシュ)による高相関を引き起こす説明変数の除去した多元回帰法の適用, T.ホーヴェルモの考案による最尤法(実際の統計値が実現値として最大確率をもつように未知のパラメータを推計する方法)を導入した同時方程式モデルの開発にいたるまで, モデルの理論的正しさは大前提とされ,前提された複数の関係式の同時推定によって統計技術的な難問(識別の問題,多重共線性など)をクリアしようとした。以上が1930‐40年代頃までの状況である。

 50年代後半になると事情が大きく変わってくる。モデルの正しさを前提とした上で計測可能となるモデルを拡張するのではなく, 予測結果からモデルの良否を問うことが一般的になる。同時方程式モデル考案以後, モデルが大規模になり計算が困難になるにともなって, それを解決するさまざまな実際的方法が作成されたが, 計測されたモデルをどのように活用するかという実際的問題が日程にのぼってきた。ホーヴェルモは, これを予測が問題であれば構造方程式を計測する必要はなく誘導方程式を利用すればよいとし, 構造パラメータの推定問題とモデルの実用主義的な利用の問題とを切り離して考えていた。しかし, モデルの構造に実用主義的な予測力がさらに一層もとめられると, そのような割り切りは通用しなくなり, また情報制限最尤法などの各種推定法が考案されにこともあって, 誘導方程式は構造パラメータの単なる推定手段でなく,モデルを実用的目的に活用する手段とみなされるようになる。以後, 当時支配的であったケインズ理論をベースにモデル・ビルディング競争が激化し, さらに予測成績向上のために,また一国経済モデルから世界経済モデルの要請のもとに, モデルは肥大化の一途をたどる。60年代の計量経済学は,その様な展開をみせた。

 しかし, 70年代に世界経済が激動期に入ると, マクロ計量モデルの予測力は従前以上に狂いがでてくる。モデルを用いたケインズ政策は,急速に信任を失うに至る。急先鋒にたったのが, フリードマンであった。ケインズ的マクロ計量モデルによる予測にとって決定的だったのは, それが前提としていたフィリップス曲線が現実的でなくなったことであった。フリードマンによれば, フィリップス曲線はケインジアンが考えたように固定的に存在するのではなく, 経済主体がインフレ率をどのように予想するかによってシフトする。現実のインフレ率と予想インフレ率とが一致したときに実現する失業率は自然失業率であり, 政策的に失業率を下げても一定期間後には自然失業率に戻るので,裁量政策が無効である。こうした議論はマクロ計量モデルの方法論に影響を及ぼし,モデルへの予測変数の導入が日程にのぼる。ミュースの合理的期待仮説, R.E.ルーカス・T.J.サージェントのモデルは, この流れのなかで理解できる。決定的な役割を果たしたのは, 経済主体が合理的な期待をもって予想形成をしているとの想定である。合理的期待仮説にもとづくモデルは,価格変化,政策変数の変化に対応した経済主体の反応プロセスを織り込んでいた。

 モデルの構造に即して言うと, 合理的期待仮説に立脚するモデルでは, 変動のプロセスは誤差項の動きで説明される。従来の同時方程式モデルでは, モデルの操作性を配慮して,誤差項の系列相関はゼロと仮定され,系列相関の存在が疑われると, モデルは再構成されるか, 廃棄された。しかし, 誤差項の系列相関をゼロとする仮定は,現実の変動のプロセスを捕捉できないので, きわめて都合が悪い。誤差項が系列相関をもつと仮定せざるをえない所以である。このように, 合理的期待仮説にもとづくモデルの定式化では, 過去の系列を説明変数とすることが重視され, それを含んだモデルの構築につながった。

 筆者は系列相関を含んだモデルがそれに固有の問題(同定の問題[ARIMAモデルにおける階差の次数確定], 単位根検定の問題)があることを指摘し, 時系列解析が計量経済モデル分析に復権した事情について, 次のように結論づけている。多変数自己回帰モデルは,系列相関を考慮しているので, 同時方程式モデルを包括する一般的なモデルであるが,本格的な展開にはいたっていない。そうなったのは計量経済モデルが変数を増やしたときに, 同定の問題を解決できないからである。そのため, 多変数自己回帰モデルを理想としながら, 限られた変数間で誤差項の系列相関を導入したモデル(時系列モデル)を作成するか, 系列相関が無いとして従来の大型モデルを作成するかに分かれてしまった, と(p.131)。

山本正『数量的経済分析の基本問題』産業統計研究社,1984年

2016-10-18 14:33:31 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)
山本正『数量的経済分析の基本問題』産業統計研究社,1984年

本書の第2章はこの冊子の193頁に,第4章は306頁に,独立に収録されている。
(1)本書は「現代における数量的経済分析の樹立という課題」(p.3)に寄与することを目的に,そうした手法に直接関わる主要な経済学説を紹介し,検討した労作である。ここで言う数量的経済分析とは,次のような経済分析の諸領域におよぶ統計と数理的方法の利用諸形態である。すなわち,①法則の検証,発見のために現実を反映する材料としての統計利用,②「統計的法則」発見のための数理的統計解析法の適用,③経済理論の枠組みのもとでの諸統計の体系的利用(国民所得統計,国富統計,産業連関表,マネー・フロー表,国際収支表および国民経済計算体系,など),④計量経済学的手法による統計利用,⑤線形計画法やシステム論を用いた経済分析と国民経済管理体系による統計利用(ソ連の「最適機能社会主義経済理論」)である(pp.1-2)。そうした数理的経済分析の諸形態の意義と限界を具体的学説にそくして体系的に解明しようというのが筆者の意図である。

 問題領域が広範に及ぶので,筆者は取り扱われる主題の慎重な限定を行っている。経済時系列解析に関しては1930年代から40年代にかけてのシュンペーターとケンドールの議論が中心的に検討され,計量経済学に関しては1939-40年のケインズ,ティンバーゲン論争が吟味され,ソ連の数理派とくに最適機能社会主義に関してはフェドレンコ編『経済=数理モデル』(1969年)が素材に取り上げられている。

 全体を通読して感じられるのは,主題の限定にもかかわらず,本書が数理的経済分析の学説史にもなっているからである。それは本書で直接的に取り扱われた諸説がいずれもそれぞれの領域での中心的なものであり,またそれらのひとつ一つに丁寧な学説的位置づけが与えられているからである。筆者の道案内によって,諸学説がいかにそれぞれの時代的,社会的背景とそれ以前の理論的遺産の継承のうえに成り立っているかを知ることができる。「数理的経済分析が,その発展史上において,如何なる課題を設定し,それを如何に解こうとしたか,そして如何なる難問に逢着したか,それが如何に次代に持ちこされたか,を・・・分析技術を孤立的に取り上げずに,これを広く時代的環境,時代の要請,全理論との関連の下において考察する」(p.7)という本書の試みは,見事に成功している。

 (2)以上の点を編別構成とその内容の簡単な紹介で確認してみたい。
第1章「序論」では数量的分析を経済研究で行うことの意義,また経済学と統計学に数学を利用する際の問題点がペティに始まる数量的経済分析史の要約的回顧とあわせて整理されている。同時に経済分析における数学的方法は質的分析の裏付けがある場合にのみ有用であること,また質的経済分析は量的分析をともなって初めて完成されることが確認されている。

 第2章「経済時系列解析」では,この統計的手法が時系列データを趨勢運動,循環運動,不規則運動へ分解し,それら諸系列間の量的関係の把握と,それにもとづく経済変動の予測を課題とすることに意味を認め従来の経済時系列解析法に批判的姿勢をとったシュンペーターと,その限界を認めつつ伝統的時系列解析法を継承したケンドールの学説を検討している。シュンペーターの説は資本主義経済の発展要因を企業者の革新とみる景気循環論に立脚し,旧来の時系列解析を非科学的な常識的徴候学と批判し,これに「経済的意味の原理」を対置する。この「経済的意味の原理」とは確率の問題の枠外で,統計的方法が必ず経済理論から導出されなければならないという原理である。そして,シュンペーターは時系列分析の領域で,趨勢を正常点の方法で見出そうとするフリッシュの構想を評価した。ケンドールの時系列解析論は,時系列がトレンド,振動ないし循環的運動,不規則運動に分解されるとする伝統的時系列論に依拠し,時系列解析の有用性を擁護する。このうちトレンドの析出には移動平均法が用いられ,トレンドを除去した残余系列のうち系統的な震動運動とランダムなものとを判別する方法として系列相関法が,さらにランダムな不規則運動における偶然性の析出に定差法が適用される。筆者はケンドールの時系列論を検討する過程で,その統計的立場が自然現象と社会現象との同一視におちいっていること,種々の統計的方法を時系列解析に適用するにはその前提条件の吟味が不可欠であるとし,それがない彼の時系列論の危うさを指摘している。

 第3章「計量経済学の理論的基礎構造の検討」は,1939-40年の計量経済学をめぐるケインズとティンバーゲンの論争および日本の社会統計学派の計量経済学批判を中心的素材としてとりあげ,計量経済学の基本性格とその問題点を論じている。前者の論争の意義は,ケインズが計量経済学批判を次の諸論点,すなわちはたして経済理論を多元的相関分析法で検証し得るのか,その適用条件は何か,経済現象は適用の諸条件を備えているのかといった諸論点をとりあげて根源的に行ない,今日の計量経済学評価の原点を示したことにある。筆者は現実の経済過程には多元相関分析の条件が乏しいと説くケインズと確率論的手法の導入と数理形式的整合性とによって計量経済学の有用性を主張するティンバーゲンとの対立を,論争の現代的意義を際立たせる形で説明している。筆者は続いて,ケインズのティンバーゲン批判を受け入れ,経済データの独自性を承認しながら,これと調和可能な計量経済学的景気循環研究の理論を体系化したクープマンスの計量経済学を吟味し,計量経済学の展開が数理形式的方向をたどっていく過程を追及している。

 ケインズ以降も計量経済学批判の試みはなかったわけではない。しかし,筆者はそれら(レオンチェフ,ビーチ,ヴァラヴァニス)が計量経済学的手法の基本的枠組みを承認したうえでの個別的,技術的批判にとどまっているとして,むしろ広田純,山田耕之介による計量経済学批判を起点とした日本の社会統計学派の方法論的批判を重視する。筆者は経済学の発展と深化によって肝要なのは,対象の質的分析に関わる経済理論と結びついた,現実を正確に反映する統計数字の獲得と考え,そうした考え方が数量的分析方法の基礎に据えられなければならないと主張する。この主張は,統計学を社会統計学と規定し,統計的方法の基礎を認識論と社会科学の理論におく戦後社会統計学派の理論と軌を一にする。

 第4章「統計学の対象と方法」は,この社会統計学派の数量的経済分析を行う際の要となる統計および統計学の基本性格の解明にあてられている。この論点に必要な限りで,戦前,戦後の統計理論研究,ソヴェト統計学論争,レーニンの統計理論が紹介されている。行論のなかで,蓄積された社会統計学派の研究成果をふまえ,統計対象論,統計調査論,統計学の基本性格が当時係争中だった論点(とくに内海統計理論における統計対象の規定)を中心に詳述されている。

 第5章「社会主義経済における数理的方法の利用」では,ソ連数理派の理論が部門連関バランス論,最適価格論,最適機能社会主義経済論に焦点をしぼって紹介され,それら諸理論の意義と限界とが検討されている。部門連関バランス論については,議論の過程でその信頼性に対していくつかの難点の存在することが明らかになり,今後とも部門連関バランス分析が国民経済の計画化と管理の中心にすえられることはないだろうと予想している。価格論で考察されているのは,ペトラコフの所説である。ここでは双対価格,部門連関バランスの利用,需要の価格弾力性,生産関数などの広汎な諸問題がとりあげられ,社会主義経済論に対する新鮮な問題提起となっている。最適機能社会主義経済論ではスミルノフの国民経済最適機能システム論がとりあげられ,その「最適性基準」「不足性」「社会的有用性」といった諸概念に論究があり,モデル化と関わってその経済理論的。数学的内容の意義と限界の確認が与えられている。

(3)経済学説史としての本書の魅力もさることながら,重要なのは経済分析にとっての数理的手法の有用性の如何である。この問題がこれまでにもいろいろな形で考察されてきたのは,周知の事柄である。しかし,最近の数理的手法の有用性を唱える論調で注意しなければならないのは,数理的方法を純粋に技術的なものとみて,それを支える理論の存在に眼をむけない姿勢,また手法そのものには種々限界があるが他に方法がないので使ってみるという消極的な利用姿勢である。本書にはそうした姿勢の安易さを検討するうえで示唆的指摘が随所にみいだされる。まず筆者は一見,純粋に技術的に見えるいかなる諸手法もある一定の固有の考え方のもとに組み立てられていると指摘している。それはケンドールの時系列解析論にふれ,「(彼の)統計学の立場は,英米の伝統的な数理統計学の線に沿うものであり,それは社会現象と自然現象とを問わず,この両者を区別せず,とにかく集団現象より得られた数的資料を処理する数理的方法を研究することを内容としている」(p.47)と述べた箇所,あるいはティンバーゲンの計量経済学にコメントして「(彼が)基本的には経済的環境を時間的に同質なものとしてとらえ・・・社会経済現象が時間と場所に限定された存在であることを軽視し,あたかも自然現象と同じであるかの如く見ている・・・ため,構造的変化が生じたとしても・・・大部分の構造関係は回帰係数を含めて,そのまま妥当するとされる」(p.121)と述べた箇所で言わんとしていることである。数理的方法は純粋に技術的なものと把握されてはならず,その基礎にある世界観と結びつけて理解されなければならない。

 また筆者は数量的方法が経済理論主導のもとに構成されなければならず。諸手法の適用条件の吟味なしに形式的な展開が行われてはならない,としている。この点に関する筆者の立場は明確であり,「経済研究における歴史的接近の基本的重要性」(p.28)を強調しつつ,独自の景気循環論との関連で時系列分析論を展開し,「経済的意味の原理」にもとづいて「統計的方法は,確率図式の領域外で経済理論から導き出されなければならない」(p.45)としたシュンペーターに関心を寄せ,また自然科学のデータと異なる経済データの独自の歴史的,社会的性格を認め,経済現象の分析に回帰分析法を安易に適用することの問題点を根源的に批判したケインズの所説に現代的意義を見出している。

 この点に関して筆者は,シュンペーターにしたがって伝統的時系列分析法などの諸手法を理論的考察抜きで経済分析に適用することを批判し,そもそも経済「時系列は確率論的要求をみたさ」ず,「時間的順序に従って歴史的・理論的に相互関連しているもの」で(p.34),たとえば最小二乗法などの方法についても「これ等の方法は,確率図式の適用を正当化する性質-攪乱項の相関度ゼロ(時間的独立性)」,毎期の分布同一,正規分布・・-を必要条件とするが,経済時系列はこの性質を有していないから,厳密な論理からすれば,これ等の方法にはなんの基礎もない」(p.35)と指摘するのである。

 またケインズのティンバーゲン批判を要約して,「ケインズは経済過程には多元相関分析を適用する条件が備わっていないこと-要因相互間,説明される現象と要因間における相互依存性の存在,時間的同質性の欠如等-のために,経済現象に対する多元相関分析法の適用を批判する」とまとめ,この手法の経済データへの適用可能性を疑問視する。もっとも筆者は,シュンペーター,ケインズの経済理論に全面的に賛意を示しているわけではない。数量的経済分析方法の有用性の検討という課題を,現代的視点で考える際に,経済学と数量的方法との関連,後者による前者の検証可能性,手法の適用の如何といった問題をどう考えたらよいかについて,その一般的命題をひきだそうとするのである。

 さらにケインズとは異なった視点による社会統計学派の計量経済学批判の理論活動を「計量経済学の成立までさかのぼり,これを社会科学方法論の立場から根源的に批判し,・・・具体的な経済計画との関連においても批判」を行った「社会統計学の批判内容は,我々が計量経済学を考察する際の原点をなす」(p.154)と評価している。

 (4)それでは数理的方法が分析過程全体で技術的,形式的方向に流れることなく経済理論主導の下で展開される場合,具体的な経済現象の分析のなかにどのように位置づけられるべきなのであろうか。この問題を筆者は国民経済の計画化と管理という実践的課題に直面していた社会主義諸国で,数量的経済分析がいかなる形で展開され,実践的有用性をもつのかという問題として考察している。この問題についての筆者の見解を知るうえで必要なのは,筆者が数量的分析方法そのものの有用性をどのように把握しているかを整理することである。筆者は国民経済の数量的分析の方法が非数理的分析法と数理的分析法とに分かれるとしている。「非数理な数量分析法とは,・・・現実を正しく反映する統計数字そのものを・・・確率論に基づく数理的解析を経ずに,質的な経済理論と結合させて分析する方法」(p.193)である。「分析の対象である経済現象の特質よりして,この分析方法が経済の数量的分析方法として最も基本的なものであり,基礎的なものである」(p.194)。数理的な経済分析方法とは経済諸量の相互依存関係を数理統計学で言う相関関係,回帰関係としてとらえる方法であり,「この第2の方法である数理的分析方法は,第1の非数理的分析の基礎の上に展開されなければならない」(p.194)と説明される。そしてさらに数理的分析は「確率を重視するものと,そうでない数理的数量分析(例えばレオンチェフ等)に分けることができる」(p.198)とも述べている。

 このような分類を念頭に筆者は数理的数量分析のうちでも確率論に多くを依存しないソヴェト数理経済学派の所説(部門連関バランス論,最適価格論,最適機能社会主義経済論)の検討に向かうのである。このような議論の進行を予定し,筆者は第4章で数量的経済分析における連立方程式体系の利用の問題に触れ,留意すべき指摘を行っている。「我々は・・・方程式体系における表現の諸欠陥を十分自覚した上で,理論の近似として方程式体系を数量的経済分析に用いることが必要ではなかろうかと考える。というのは,諸要因の量的な関係をそのハネ返りをも含めて総体的にとらえようとすれば,連立方程式式体系を用いないと困難だと思われるからである」「経済関係に質的変化が生じた場合は,このことが理論的分析によって明らかにされ,その分析結果に基づいて数学模型が作り直されなければならない」「(このような)経済諸部門間,諸要因間の総体的な量的関係の把握の必要性は,社会主義経済において顕著である」「(そこでは)中央集権型であると地方分権型であるとを問わず,その経済の合理的な運営のためには,資源の有効な配分の決定のためには,その総体的な量的関係を,たんに近似的なものとしても・・・算定することが不可欠の条件と考えられる」。問題はパラメータ推定であるが,その方法としては非確率論的に行うものでその例としてはたとえばバランス分析の投入係数があり,問題点は種々ありつつも「一応理論的に首肯しうる」としている(pp.154-5)。別の方法は確率論を用いる方法であるが,これについては重大な疑問点があると述べている。

 筆者による数量的経済分析の意義づけのシェーマは,以上のように明確である。それではこの基準に照らして,先のソ連の数理派の部門連関バランス論などはどのように評価されるのであろうか。最もグローバルな国民経済機能システム論については「このモデルのもつ基本的な考え方(社会的需要の重視,最適価格の概念,現物的側面と価格的側面の統一的把握,中央の計画と地方の創意の結合・分権化の重視,など)は,現行様式の改善の方向を示すものとして,極めて重要な意義を有する」(p.303)という評価を前面に押し出しつつ,しかしモデル構築の起点をなす社会的有用性関数が主観的判断を免れえないのではないかという疑問とともに,現時点でのモデルの適用可能性に留保が付されている。

 最適価格論については「社会主義の特性を利用して,すなわち最適価格から流出する潜在価格を基礎として価格計画を行うことによって,資本主義における市場メカニズムの限界・・・から生ずる価格機構の失敗を排除しつつ,価格のもつ機能をフルに活用して,社会主義経済の効率を高め,住民の需要の最大限の充足を企図するもの」(p.273)と意義付けながらも,最適性基準に主観的ものが残らざるをえないゆえに理論的再検討の必要があることを,また社会主義のもとでの労働価値説について理論的に反省する余地があること示唆し,その検討を今後の課題としている。

 最後に部門連関バランス法は,当初「社会主義経済で決定的に重要な地位を占める国民経済計画編成において,従来ソヴェトで主要な地位を占めていた物財バランス方法の改善であり,計画編成の出発点において不可欠の用具となり,更にその最終段階に至るまで計画の整合的点検の用具となるという中枢的・総括的地位」(p.217)を期待されたのであるが,直接支出係数の信頼性,部門分類原則,マルクス再生産表式との関連などで改良の余地があり,「部門連関バランス法の発展の現段階においては,この方法を従来のバランス法に代わる国民経済編成上の主要な方法とすることには無理があると思われる」(p.238)と評価している。とくに部門連関バランスの価格分析への利用に関しては,それが「経済発展の可能的なヴァリアントや,生産の相互に関連する種々の技術的過程や,種々の生産要因の制約等々に関するデータを抱合」(p.255)しておらず,「最終生産物の生産が社会的需要に適合しているか否か,生産方法が効率的であるか否か,等の情報は部門連関バランスからは得られない」(p.260)ので,このバランスに全面的に依拠して価格計画は立てられないと結論づけている。

 筆者はソ連数理派の見解に対し,それがいまだ発展史上にあることからくる不十分性に配慮を示しながらも,それが社会主義経済の構造と経済政策の科学的基礎の研究を目的として,社会主義経済における最適機能のプロセスを研究対象とする構想力の大きな理論とみて期待をよせている。そして,中央における計画と地方の創意の結合・共存を可能にするモデルの構築に数学が巧みに用いられ」た好例であり,しかも「数学ではなくて経済理論が主導的地位を占めることが企図されている」(pp.302-3)と確認している。

 数量的経済分析の利用基準の定式化に基づいて行われている数理派の理論への筆者の接近方法と綿密な検討は,いずれも説得的である。数量的経済分析では近似的な数量的表現としてのモデル化が必要であるのか,経済構造を連立方程式の体系にまとめることはどの程度可能なのか,社会主義経済の生産関係分析を最適計画論はどのように具体的に転化するのかなど,議論を重ねていかなければならない問題点は多い。本書はそうした諸問題を今後も引き続き考えていく際の礎となるものである。

菊地進「同時方程式モデルとその計測方法の展開について-手法の開発からモデルの大型化まで-」『立教経済学研究』第36巻第2号,1982年12月

2016-10-18 14:31:28 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)
菊地進「同時方程式モデルとその計測方法の展開について-手法の開発からモデルの大型化まで-」『立教経済学研究』第36巻第2号,1982年12月

 本稿は計量経済学的手法の成立過程を歴史的に検討することである。構成は次の通りである。「1.計量経済学の危機」「2.同時方程式モデルの開発」「3.計測方法の展開」「4.政策分析への適用」「5.計量経済学的手法の問題点」。筆者の案内にしたがって,以下,内容を要約する。

 「1.計量経済学の危機」。1970年代に入り世界経済の危機が深刻化するにつれ,アメリカ・ケインズ主義とそれを理論的基礎としたマクロ計量モデルそのものに対して不信が表明されるようになった。振り返ってみれば,クラインモデル以来(1950年),同時方程式に基づいて作成されたマクロ計量モデルは,モデルに固有の困難を克服するために「多部門モデル」「世界経済モデル」と大型化の傾向を強めた。しかし,モデルの大型化は予測成績の向上に結果せず,むしろ評価しがたい状態を招来した。同時方程式モデルはその開発当初から矛盾を抱えていたが,それは果たしてその展開過程で克服されたのであろうか。この問いかけが,次節以降の展開となる。

 「2.同時方程式モデルの開発」。計量経済学の誕生は,1929年の世界恐慌を契機とする。その前段では既にH.ムーア,H.シュルツが個別商品の需要曲線の統計的計測の方法を開発していたが(1910年代),恐慌を契機に経済関係式の計測に回帰分析法を利用するムーアの方法が脚光を浴びるようになった。1930年には,R.フリッシュの尽力によって計量経済学会が創設された。この頃から,単一方程式モデルの計測が熱狂的に進められたが,その計測結果が「認定」問題を抱えていることが明らかになり,この問題を克服するものとしてT.ホーヴェルモは同時方程式モデルを開発した。ホーヴェルモのこの研究成果は,フリッシュの「合流分析」(1934年)における多元回帰方程式モデルの計測方法の欠陥を克服する試みであった(1942年)。すなわち,フリッシュによる多元回帰方程式モデルは,モデルにおける線型性と変数の結合方式の加法性を基本的仮定としていたが,これらの仮定は前提条件にすぎず,それらの妥当性を経験的に明らかにしえないのに,あたかもそれが実証可能なように扱われていた。フリッシュモデルの欠陥と言われるものがこれである。

 フリッシュ自身は自らの方法の欠陥を別様に,すなわち多重共線性の問題として受け止め,これを除去する手法としてバンチ・マップ法の提唱を行った。この方法で多重共線性の発生がないことを確認したうえで,モデルを対角線回帰法で計測するのがフリッシュの考え方であった。ホーヴェルモはこの試みに疑問をもち,新たに開発したのが先の同時方程式モデルによるモデルビルディングである。同時方程式モデルは,予め複数の関係式を連立方程式体系として設定し(そこに先決変数という新たな範疇の変数が導入されている),そこに最尤法を適用することで,係数パラメータを全て同時に決定し,その適否を検討できる。この方法は最尤推定量が標本数を増やすと漸近的に正規分布に従う性質を利用したパラメータの仮説検定法である。これによって,単一方程式アプローチが有していた計測結果の認定不可能性の問題に決着がつくとみなされ,以後計量モデルは同時連立方程式体系として設定されるべきと考えられるようになった。

 「3.計測方法の展開」。筆者は次に,同時方程式モデルのパラメータの推定方法の展開過程を跡づける。ホーヴェルモ自身による誘導型最尤法,T.C.クープマンスによる認定問題の定式化,T.W.アンダーソン,H.ルビンによる情報制限最尤法の紹介がそれである。これらの展開過程は,要約して言えば,モデルが同時方程式モデルであることを貫けば追加的説明変数の選択基準を設けることができなくなり,追加的説明変数の選択基準を採用すれば同時方程式モデルの枠組みを壊さなければならないというジレンマへの遭遇とその解決の試みの繰り返しである。この問題を克服するものとしてもとめられたのが,同時方程式モデルの枠組みを崩さず個々の構造方程式を実質的に最小二乗法で計測する方法である。H.タイルの二段階最小二乗法は,この方法がである。

 その利点は,パラメータの推定のための計算が容易であること,またこの方法によって構造パラメータの決定基準と構造方程式の追加的説明変数の選択基準との整合性を実質的に確保できることにある。この結果,多くの計量経済学者はこの二段階最小二乗法の採用に傾くことになった。しかし,そうはいってもこの方法が別の方法である情報制限最尤法に優ると確証があるわけではない。このため専ら講じられた措置は,これら両方の計測結果の並置であった。しかし,この措置は両方の計測結果に乖離を明るみにさらすことになるだけでなく,二段階最小二乗法による推定が単一方程式モデルの計測方法である最小二乗法で直接に計測した結果の近似値になるという問題をモデルの作成者につきつけることになる。このため,二段階最小二乗法の採用は,計量経済学が最適計測方法確定のための研究に力を向けざるをえない状況を作り出すことになった。計測方法の選択問題の解決には,推計学者が動員され,理論的側面での研究(パラメータの推定量を漸近的に展開することで,漸近効率を比較する方法など)と経験的側面での研究(モンテ・カルロ実験など)の両面で研究が進められた。しかし,最適計測方法の確定は,これらの一連の研究によっても成功的に解決されることなく,現在でも各種の方法によるパラメータの計測結果が並置して発表されているというのが実情である。

 「4.政策分析への適用」。この節では,同時方程式モデルが実際のマクロ計量モデルに適用され,当初の16本の方程式で構成されていたクラインモデルから千本を超す方程式からなるモデルの大型化への道をたどるプロセスが追跡されている。1950年代以降,計量モデルは多数作成された。この結果,それらのうちどのモデルが信頼にたるのかが問われるようになるのは当然である。各モデルのパフォーマンスを比較し,この問いに答えることが日程にのぼる。タイルによるモデルの事後的予測成績を示す指標の開発は,そのはしりである。しかし,タイルの指標は実際に利用するとなると,予測方式の選択という問題に直面する。それというのも,同時方程式モデルはそもそも計測結果の認定不可能性という問題を解決するためのモデルで,そこではモデルを予測にどう生かすかは明確に位置づけられていないからである。それをあえて予測に使うとなると,複数の方式(部分テスト,全体テスト,最終テスト)が競合することになる。実際にこの試みが展開されると,次に登場した考えかたは,これをモデル作成の際の判断材料として利用してはどうかというものであった。その際に問題となるのは,説明変数の選択の見地から,上記3つのテストのいずれを重視すべきかである。この問題を克服するために考えられた結果が,予測方式を一義的に確定する方法であった。しかし,そのためにはモデル作成の大枠の方法についての事前的な選択判断が必要になるが,その確定は容易でない。このことは結果として,モデル・ビルディングの方法をめぐる対立を引き起こすことになる。対立のなかからしだいに,認知されるにいたったのが計測された構造方程式から導かれた誘導型方程式を予測方程式として位置づけるクラインのアイデアであった。

 計量モデルの政策分析への適用は,政策手段と目標の間の関係を計量モデルで捉え,政府によって採用された経済政策の諸効果を定量的に明らかにすることを期待される。政策モデルといっても,その中身は通常の同時方程式モデルと形式的にかわらない。計測は同時方程式モデルを用いて行われる。ただ,問題になるのは計測以後の処理で,一定の操作によって政策モデルの縮約型が作成されなければならない。この試みの結果生まれたのが,短期の政策分析や長期的政策効果分析のために使われる決定モデルである。計量経済学者は,この政策モデルによって短期的経済政策の樹立にとって極めて有効であり,また長期的経済政策のそれも効率的に進めることができると自賛するのである。

 「5.計量経済学的手法の問題点」は,本稿のまとめである。筆者は計量経済学的手法の普及の背後に,同時方程式モデルを利用した事前的シミュレーション分析に対する信頼があるとみる。それでは,同時方程式モデルそのものの客観的妥当性はどうなのだろうか。この点を検討するには,同時方程式モデルの原モデルに妥当性が認められるか,またそれから導出される誘導型方程式の妥当性が吟味されなければならない。

 同時方程式モデルの妥当性の問題に関しては,ホーヴェルモが開発し,コールズ委員会のメンバーによって精緻化された同時方程式モデルの計測方法が利用されるのが常である。この場合,モデルの設定にあたっての諸仮定は,無条件で前提される。計量経済学者がいう同時方程式モデルによる単一方程式モデルの問題点の克服は,複数の方程式の妥当性を無条件的に前提することで,計測結果の「認定」問題を形式的に棚上げしたことを意味する。

 しかし,これではモデル分析の科学性に対する疑問は払拭されえない。そこで開発されたのが追加説明変数の選択基準との整合性を確保するための計測方法,すなわち二段階最小二乗法である。この方法が開発された理由は,最小二乗原理にもとづく基準を導入することによって,個々の方程式の妥当性を経験的に示し得ると考えられたからである。とはいえ,こうした基準では,単一方程式のみに終始した頃の経験を振り返れば明らかなように,モデルの妥当性は示されえない。このため,モデルの妥当性を無条件で前提としておく計測方法についても捨て去ることができないことになる。計測方法の複数性の問題は,こうした事情から生じたものである。計測方法の選択をめぐる混乱の根本的要因は,モデル自体の妥当性を明らかにしえない計量経済学の方法の困難そのものにある。

 計量経済学はその後,モデルの予測精度をあげることに傾注する。しかし,その試みの中身を仔細に検討すると,この予測成績を向上させる不断の努力はモデル分析の精緻化のための操作と言うより,計量経済学的モデル分析の諸前提に対する懐疑と批判を避けるために行われた操作という性格が色濃い。「こうしたモデルの大型化が極端におし進められるとどうなるのであろうか。・・・・計量モデルにおいては,経済理論的根拠の裏づけのないいわゆる統計式の占める比重が極めて高くなり,計量モデルは経済理論によって与えられる本来の理論的フレームワークから大きく離れることになる。したがって,今度は,逆に,『理論を無視した計測』というそしりをまぬがれえないことにもなるのである。/『理論に基づく計測』という目標を堅持するために行われたモデルの大型化の操作が,逆に,『理論なき計測』へと到達してしまうというのであれば,計量経済学内部において,『理論なき計測』という見地をストレートに打ち出す潮流が生まれてくるというのもうなずけるところである。したがって,モデルの大型化が進めば進むほど,内部混乱が深まりゆくほかはない段階に,計量経済学は到達しているといわねばならないのである」(p.250)。これが筆者の結論である。