社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

広田純「ソヴェトにおける統計学論争」中山伊知郎編『統計学辞典[増補版]』東洋経済新報社,1957年

2017-10-05 21:22:33 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
 1940年代後半から50年代半ばにかけての,ソ連における統計学論争を紹介した論稿。辞典の一項目とは言え,一本の論文に匹敵する分量で書かれている。構成は,以下のとおり。「1.『形式主義的=数学的傾向』の批判」「2.1948年会議の経過」「3.と掲学の対象と方法」「4.1952年論争における諸見解」「5.1954年の科学会議」。

 紹介されている統計学論争は,1948年の3つの会議,1952年の中央統計局での「統計学の理論的基礎に関する会議」,1954年の科学アカデミー,中央統計局,高等教育省による「統計学の諸問題に関する科学会議」である。他に『統計通報』『計画経済』『経済学の諸問題』などの科学雑誌での関連論文が適宜とりあげられている。

 革命後暫く,ソ連の統計学界では数理統計学が主流であった。この傾向に対しては,実践からの遊離がつとに指摘され,統計学死滅論(統計学は不要になり国民経済計算がそれに代位するという考え方)が唱えられた。数理統計学に重きをおく流れは,戦後も続き,この傾向はネムチーノフの統計学に代表される。ネムチーノフは,1945年に,『農業統計とその一般理論的基礎』を著し,スターリン賞を受賞している。

 論争はコズロフが『計画経済』第2号に,中央統計局公認のクレイニンによって執筆された『統計学教科概説』を批判したことに始まる。同誌第3号には,その後の討論の内容も反映した無署名論文「統計学の分野における理論活動を高めよ」が掲載された。筆者はこの論文に論点が集約されているとみて,詳細に紹介している。この論文では,要するに,ソビエト統計学が経済建設の実践から立ち遅れていること,その原因として統計学が数理形式主義的傾向をおび,統計学の教科書が「抽象的=数学的命題と操作の総体」を内容としていること,国家的報告組織の研究がなおざりにされていること,ブルジョア統計学に対して批判的検討が弱いこと,その背後にある観念論哲学,俗流経済学を軽視,あるいは無視していること,などが指摘された。

 その後,1948年に3つの関連した会議が開催される。一つは3月から5月にかけて科学アカデミー経済学研究所で開かれた「統計学の分野における理論活動の不足とその改善策について」の会議,二つ目は7月から8月にかけて開かれた農業科学アカデミー定期総会での会議,3つ目は科学アカデミー経済学研究所で,10月に開催された「経済学の分野における科学=研究活動の欠陥と任務」の拡大学術会議である。第一の会議では多くの人が,少なくとも言葉の上では理論活動の立ち遅れをみとめ,「形式主義=数学的偏向」の誤謬を認めた。しかし,ネムチーノフが「形式主義=数学的偏向」を批判しながら,実際の統計活動家の理論における立ち遅れと数学的方法の軽視を指摘し,他の論者も統計学一般利理論,統計的方法,数学的方法の効用をあげるなど,基本的な点で見解の不一致が残った。第二の会議ではいわゆるルイセンコ論争がルイセンコとネムチーノフとの間で戦わされた。この論争はルイセンコの学説(環境因子が形質の変化を引き起こし,その獲得形質が遺伝するという説,メンデルの遺伝学を非科学的と批判)をめぐるもので,ネムチーノフは染色体遺伝説を支持し,実質科学(生物学)に対する統計学の優位を主張した。言うまでもなく,現在,ルイセンコ学説を支持するものはいない。

 第三番目の会議で,オストロビチャノフは統計学の分野での理論活動が実践から遊離し,一連の統計学者がブルジョア統計学から抜け出ていないこと,一部の統計学者の見解に統計学の役割を過小評価する傾向がみられること,を指摘した。ネムチーノフはこの会議で,農業科学アカデミー定期総会での会議での主張の誤りを認めて自己批判している。ネムチーノフが自己批判したのは,実質科学(ここでは生物学)に対する数理統計学の優位を主張した点である。それでも,形式主義的偏向を認めたからと言って,「統計学から数学的方法を全然排除せよと言うことではない」との主張を変えていない。オストロビチャノフはこの点をとらえ「結語」で,ネムチーノフの自己批判が不十分であると指摘した。
翌年,コズロフは『経済学の諸問題』(1949年第4号)に「統計学におけるブルジョア的客観主義と形式主義に反対して」を書いた。その内容は,上記の論争を総括するものである。

1950年代の論争は,それ以前の論争の影響があるものの,論点は統計学の対象と方法に集約されていく傾向をもった。2月に中央統計局で「統計学の理論的基礎に関する会議」が開催されている。局長のスタロフスキーが司会をし,ソーボリが基調報告を行った。スタロフスキーは,統計学を歪曲するものを2のグループをあげている。一つは,統計学を大数法則に基礎をおく普遍的科学とする形式的数理派の人である,もう一つは統計の一般的原理および方法の妥当性を否定して統計学を個々の指標の体系に解消する若干の統計学者である。ソーボリは統計学の定義を次のように与えた。「統計学は社会科学である。統計学は社会経済現象および過程,過程の型および形式を研究して,それを適切に編成され,かつ社会経済諸関係の周到な分析を基礎に加工された数字資料の助けをかりて表現する」と。
この討論会では統計学の対象と方法とは何かが主要な論点であったが,関連して統計学と数学,数理統計学,経済学,他の社会諸科学との関係,大数法則の理解と位置付け,確率論の評価,統計学の教科書の構成,など多岐にわたった。注目されたのは,大数法則を統計学の理論的基礎とみなしていたピサレフの自己批判であった。席上,数理派弁護の論陣をはったのはポドバルコフであったが,支持者は少なかった。全体として数理派の退潮が目立った。

以上を受け,『経済学の諸問題』は誌上で,「統計学の対象と方法をめぐる論争」が組織された。この論争をとおして,「普遍的科学説」「社会的方法科学説」「独立の社会科学説」のおそれぞれの立場が明確になった。「普遍的科学説」は,統計学が自然現象,社会現象を問わず対象の量的側面を研究する方法を開発し,豊富化する科学であるとする学説である。この説を唱えたのは,ネムチーノフ,ピサレフ,ボヤルスキーなどである。「社会的方法科学説」は,統計学が社会現象の量的側面を究明する方法をその研究対象とする科学であるとする説である。社会科学方法論説を代表したのはН.ドルジーニンである。「独立の社会科学説」は,統計学が社会現象の数量的規則,法則を解明することを任務とする科学であるとする立場である。「実質科学説」に属したのは,コズロフ,チェルメンスキー,プロシコ,オブシェンコ,ソーボリなどである。
50年代初頭に展開された論争を集約する目的で開催されたのが,「統計学の諸問題に関する科学会議」(ソ連科学アカデミー,中央統計局,高等教育省共同主催)である。この会議は1954年3月16日から26日まで11日間にわたって開かれた。760人におよぶ研究者(統計学,経済学,数学者,哲学,医学などの諸分野),統計実務家が参加した。報告は文書によるもの20件を含め80件に及んだ。

 1954年会議は,科学としての統計学の定義に諸説があることをふまえつつ,あるべき統計学の発展の方向性を実質科学説の立場(コズロフ的見地)から次のように示した。それは.オストロビチャノフによる会議の次の総括として知られる。「統計学は, 独立の社会科学である。統計学は, 社会的大量現象の量的側面を, その質的側面と不可分の関係において研究し, 時間と場所の具体的条件のもとで, 社会発展の法則性が量的にどのようにあらわれるかを研究する。統計学は, 社会的生産の量的側面を, 生産力と生産関係の統一において研究し, 社会の文化生活や政治生活の現象を研究する。さらに統計学は, 自然的要因や技術的要因の影響と社会生活の自然的条件におよぼす社会的生産の発展とが, 社会生活の量的な変化におよぼす影響を研究する。統計学の理論的基礎は, 史的唯物論とマルクス・レーニン主義経済学である。これらの科学の原理と法則をよりどころにして, 統計学は, 社会の具体的な大量現象の量的な変化を明るみにだし, その法則性を明らかにする」と。

 この会議では,以上の結論とともに数理的,形式主義的偏向が厳しく批判され,普遍科学方法論説は後景に退いた。論点は,普遍科学説にたつ論客が統計学の対象として社会現象の数量的把握と解析を自然現象のそれらとを同一視する方法論(統計的方法が社会現象にも自然現象にも等しく適用可能とする考え方)に依拠することに対する批判であり,統計学が社会現象を数量的側面から観察し,分析する独自の課題を担うことへの無理解に対する批判である。普遍科学説はまた,大数法則が社会現象にも自然現象にも同じように作用すると理解したが,その過大な期待に批判の矛先が向けられた。

 筆者は最後に,この会議が統計学の内容,その対象と方法という基本的問題について,集団的な努力で一つの結論に達したことは,その後の理論活動の出発点として大きな意義をもった,と評価している。

岩崎俊夫「統計学体系と社会統計学(『統計通報』誌(1975-78年)での討論)」『ロシア統計論史序説-社会統計学・数理統計学・人口調査[女性就業分析]』晃陽書房、2015年

2016-11-21 11:08:22 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
岩崎俊夫「統計学体系と社会統計学(『統計通報』誌(1975-78年)での討論)」『ロシア統計論史序説-社会統計学・数理統計学・人口調査[女性就業分析]』晃陽書房、2015年

 本稿の目的は1975年から77年にかけて『統計通報(Вестник Статистики)』で行われた統計学の対象と方法に関する討論(以下,「討論」と略)を紹介し,検討することである。この「討論」で展開された論点は,統計学の基本性格,その研究対象はもとより,一般統計理論と個別統計学との関係,社会統計学と数理統計学との関係,統計学教程の構成など,多岐にわたる。

 筆者はまず「討論」全体の特徴と問題点を整理している。次いで,「討論」に参加した論文の内容を,それらがよってたつ思考基盤別にグループ化された諸論者の見解,すなわち普遍科学方法論説と社会科学(方法)理論説を紹介し,検討している。前者は統計学が社会科学と自然科学のいずれの分野の分析にも適用可能な数量的手法を保証する普遍的な方法を研究するという見解であり,後者は統計学が社会科学に限定した統計的認識方法を研究するとする見解である。どちらも50年代統計学論争に認められた見解の系譜である。

 第2節では前者についてУ.メレステ(У.Мересте)[ターリン政治経済大学],Н.ドルジーニン(Н.Дружинин)[ロシア共和国名誉科学者]の諸見解が,第3節では後者の考え方についてТ.カズロフ(Т.Козлов)[モスクワ・経済学博士],И.マールィー(И. Малый)[モスクワ国民経済大学],Л.カジニェツ(Л.Казинец)[サラトフ経済大学]の諸見解がとりあげられている。両者以外ではО.ミフニェンコ(О.Михненко)[モスクワ鉄道運輸技師大学],И.スースロフ(И.Суслов)[ノボシビルスク・経済学博士])の諸見解が第4節で扱われている。 

 最初に「討論」の特徴の概略と「討論」を評価するにあたっての留意点について触れられている。ここでは旧ソ連で1950年代に展開された大規模な統計学論争の紹介がなされている。統計学論争とは,1954年3月にソ連邦科学アカデミー,ソ連邦中央統計局,ソ連邦高等・中等教育省主催で開催された「統計学の理論的諸問題のための科学会議」と,それに先立って『統計通報』『経済学の諸問題』誌上で展開された統計学の対象と方法に関する「討論」である。論争の結果,到達した結論は,次のとおりであった。「統計学は独立の社会科学である。それは大量的社会現象の量的側面を,その質的側面との不可分の関係において研究し,場所と時間の具体的諸条件における社会発展の方法則性の量的表現を研究する。統計学は社会的生産の量的側面を,その生産力と生産諸関係の統一において研究し,文化的および政治的社会生活の諸現象を研究する。さらに統計学は,社会生活の量的変化に対する自然的および技術的諸要因の影響と,社会生活の自然的諸条件に対する社会的生産の発展の影響を研究する」。「討論」ではこの規定が繰り返しとりあげられ,その是非をめぐって意見の交換がなされた。

この定義が取り上げられたのは,それが統計学のその後の発展,現実経済の運営にとっての課題解決に良好な役割を果たしていないとの認識が,統計学に携わる者の間にあったからである。議論の先頭にたったのは科学論の観点から,ユニークな問題提起を行ったメレステである。メレステの統計学理解は,論文「統計科学の構造と他の諸科学の中での統計学の位置」によれば次のとおりである。

統計学は,「社会-自然科学」であり,それは独立した統計科学の統一システムとして存在する。「社会-自然科学」という用語はメレステに固有であるが,その内容は純粋に社会的でも,純粋に自然的でもない対象を,すなわちこれら二つの領域にまたがり,それらと固く結びつき,社会―自然的,あるいは自然―社会的事象を研究する科学である。メレステはさらに,統計学が独立した統計科学の統一システムであると特徴づける。この点もメレステの統計学理論のユニークなところである。メレステの図式によれば,科学の体系は同心円的内部構造をもつ。内側の同心円は科学の体系の核をなす部分であり,換言すれば「純粋」形態の,あるいは狭義の科学である。これに対し,外側の同心円には相当程度,枝分かれした,他の諸科学とのきわめて多様な統合形態をとる個別諸科学が位置する。二つの同心円はあわせて,広義の科学となる。

この解釈を統計学の体系にあてはめると,一般統計理論は内側の同心円である。内側の同心円に位置するのは,厳密に理論的観点から対象を研究する科学だけであり,統計学体系では一般統計理論がそれにあたる。これに対し,経済統計学および人口統計学は,一般的統計論と経済学,人口論との総合的統合であり,数理統計学は一般統計理論と数学との総合的統合であって,それらは外側の同心円に位置する。

 メレステに続く「討論」の内容は統計学の体系構成とその対象,社会認識の方法としてのその役割であった。論者ごとの理解は、本稿で詳細に紹介されているが,これらを批判的に整理すると,まず統計学の対象に関して,多くの論者がそれをおおむね社会的現象と過程の量的側面(若干の異論があった)としている。統計学の対象は,このことを踏まえ,積極的に社会集団とらえられている。ドルジーニンは,「社会的大量」あるいは「社会的要素と現象の集団」という概念に懐疑的であるが,独立の社会科学(方法)理論の延長上にある論者は,この概念を承認している。カズロフは,「統計的集団」という概念を用いている。そこには,客観的社会集団と統計集団との次元の相違をとらえようという意図があるように思われる。プロシコは一般的社会統計論と数理統計学とはその対象が異なり,前者では「標識,集団の単位,類型の相互連関の発展的複合体としての集団」,後者では「物質的内容について一様で,ある一定の安定的規則性(分布の法則)にしたがい,しかもある一定の安定的な相互の関係にある量の集団」としている。

「討論」の詳細は、ここでは紙幅の関係で、省略せざるをえない。「討論」参加者の多くは,統計学の対象が社会的認識の集団であることを承認している。しかし,ここで承認される統計学は,厳密には統計学体系である。政策当事者,研究者は,この統計学体系(あるいは統計の指標体系)を活用して,社会現象と過程を,ひいてはそれ自体,歴史的存在である社会集団を認識する。統計学体系に一般統計理論を,あるいは数理統計学をどのように位置づけるのか,両者を社会統計学といかに関連付けるのか,見解はここで分かれる。

一般統計理論を社会統計学と同じ次元でとらえる論者もいれば,それを体系の核と考え,社会統計学と数理統計学をその核から分岐する分野ととらえる論者もいる。数理統計学は数学の一分野であるとして,そもそも統計学体系に存在場所を認めない論者もいる。こうした見解を主張する論者には,当然ながら,一般統計理論の内容と構成が問われることになる。

 重要なのは,こうした討論が国民経済運営のための統計業務の飛躍的機械化のなかで行われ,国民経済の運営と政策提言に貢献する実践的役割の強化という問題意識のもとで展開されたことである。「討論」を閉じるにあたって「統計通報」誌編集部は「大多数の論文では,統計理論と統計業務の実践との相互連関の問題は,統計科学の課題,その対象と構造を審議するさいの関心の中心におかれなかった。明らかに,このことは理論が生活の要請から,経済活動の実践からかなりの程度,立ち遅れていることを表わしている。国民経済の計画化と管理の改善という課題,また経済統計的分析という課題から離れて,統計理論の具体的諸問題を解決することは,正しくない」と総括した。実際にそうした側面があったことは否定できないものの,しかし「討論」そのものが生活の要請と経済活動の実践から生じた問題意識のから始まったのは否定できず,この点の確認は重要である。

岩崎俊夫「1923/24年ソ連邦国民経済バランス」の作成経緯と方法論-旧ソ連邦統計の歴史の一齣-」『立教経済研究』第63巻第4号,2009年3月

2016-10-17 21:56:49 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
岩崎俊夫「1923/24年ソ連邦国民経済バランス」の作成経緯と方法論-旧ソ連邦統計の歴史の一齣-」『立教経済研究』第63巻第4号,2009年3月(『経済計算のための統計-バランス論と最適計画論-』日本経済評論社,2012年所収)

 筆者は本稿でソ連における最初の国民経済全体を俯瞰する統計であった「1923/24年ソ連邦国民経済バランス」(以下,「1923/24年バランス」と略す)の紹介と検討を行っている。「1923/24年バランス」は,ソ連経済の建設を目標としてその舵取りを始めた当時のユニークな統計(経済計算)と評価されている。何よりもそれは経済計画化の実践と直結した統計であり,また社会的再生産の把握を意図した前例のない壮大な統計体系であった。この総合的統計表としてのバランスから革命後の経済理論,国民経済の再生産認識がどのような状況にあったかを,具体的に知ることができる。またこのバランスの基礎を詳細に理解すると,国民経済バランスひいては国民経済計算のその後の展開をあとづける契機となりうる。筆者がこのテーマをとりあげた所以はこの点にある。

 全体の構成は,以下のとおり。「第1節 国民経済バランス作成の画期」「第2節 国民経済バランス作成以前の計画法」
「第3節『1923/24年ソ連邦国民経済バランス』の作成経緯」「第4節『1923/24年ソ連邦国民経済バランス』の批判的検討」。

 主題との関係では,第3節と第4節が中心論点となるが,これら2つの節の理解を深めるために第1節と第2節でソ連における国民経済バランス作成の沿革および国民経済バランス作成以前の計画法の紹介を行っている。

 国民経済バランスの歴史は,3区分されている。第1期は,革命直後から国家電化計画(ゴエルロ計画)を経て1929年12月の農業問題専門家会議までで,この時期の理論的成果は計画法としてのバランス法の確立である。第2期は,1930年代前半から1957年の全ソ統計者会議の直前までである。この時期の特徴は,国民経済バランスの体系化が追及され,再生産論と関連づけた議論が展開されたことである。理論分野では,ストルミリンが独自の表式案を提起し,これをめぐって論争がなされた。第3期は,上記の全ソ統計者会議(1957年)以降である。この会議で国民経済バランスが体系として示され,同時に部門連関バランスと呼ばれる産業連関表と同型の統計表が登場した。

 バランス法が確立するまでには,紆余曲折がある。革命後のソ連ではただちに計画経済への舵取りがなされたものの,その取り組みに歴史的経験なく,計画化の実際は種々の発展路線,計画法が混在する状況であった。国民経済の全般的計画の契機となったのはゴエルロ計画(1918年)である。上記の事情を反映して,そこにはバランス法,専門家の見積もり,変案法などの諸手法が入り混じっていた。また計画理論においても,グローマン,バザロフなどの第一次5カ年計画以降の工業化路線に否定的計画論者が存在し,路線の対立は熾烈であった。単一の全国計画であったゴエルロ計画(それと有機的に結合した国民経済発展統制数字の作成)作成当時のこの状況のなかで,バランス法が計画法の指導的環となり,全国的な工業化路線と結びついて定着するに至る。

 以上の考察をふまえ,筆者は本論である「1923/24年バランス」の作成経緯とその批判的検討に進む。このバランスの作成は,1919年1月の統計家第1回ソビエト大会の席上で,中央統計局長П.И.ポポフが「その全ての部局の作業にもとづき,統計局は国民経済全体および個々のバランスを作成しなければならない」と発言し,国民経済バランスの開発が中央統計局の任務であると提言したことを直接の契機とする。これを受ける形で,1920年,中央統計局に国民経済バランス部が設置され,さらに1921年,ゴスプランが1921/22年国民経済バランス表式を作成してこれを統計数値で埋めるよう中央統計局に依頼した。しかし,中央統計局の作業は期待どおりに進捗しなかった。1924年7月21日,労働国防会議は中央統計局に対し,「1923/24年バランス」を作成し,それをゴスプランに提出するように命じた。しかし,仕事の一般的な概要が「経済生活」紙に紹介されたのは8ヶ月を経過してからであり,国民経済バランスが発表されたのはさらに1年後の1926年であった。筆者はこのバランス作成が遅れた幾つかの理由を指摘した後,その全体的構成とポポフの「序論」の解説を行っている。ポポフ主張の論旨は(1)ケネー経済表とマルクス再生産表式の具体化として国民経済バランスをとらえ,後者の理論の基礎に前者をおき,(2)ケネー経済表とマルクス再生産表式から均衡が再生産の条件であるとする抽象的命題を取り出し,(3)これを独自の「社会経済一般」のカテゴリーに取り込んで,命題のソ連経済への適用を示す,(4)さらに国民経済バランスが発展するソ連経済に成立した均衡条件を反映する課題をもち,(5)バランスは具体的歴史条件下の均衡,あるいは不均衡を研究する手段にとになる,というものである。

 筆者は最後の節で,「1923/24年バランス」の批判的検討を行っている。ここでは,主としてリトシェンコの解説をとりあげ,「1923/24年バランス」が国民経済バランスというより簿記バランスの色彩を強くもち,背後に想定される国民経済の再生産のイメージが単一の企業になぞらえたものになっていること,などを指摘している。筆者はさらに進んでこのバランスの基幹である取引一覧表の部門分類,収入項目,支出項目を紹介し,付随的なものとして固定資本とエネルギーバランスの表,個々の現物バランスが存在することの指摘を行い,利用された生産高の算定方法と土地評価などについて詳しく説明を行っている

 最後にこのバランスの難点が次のように要約されている。第1は社会的生産関係の表示がバランスでなされていないことである。この点は多くの論者が指摘したことで,バランスには社会的見地が欠け,社会的セクターや住民の階級的関係は示されなかった。第2はバランスに蓄積を示す部分がなく,拡大再生産のための蓄積と単なる在庫とが同じカテゴリーに括られたことである。全体として,バランスは国民経済の拡大再生産の数量的表示に成功していない。第3に国民所得概念の理解,社会的生産の生産的領域と不生産的領域との区別の方法が曖昧であった。全体として,生産過程の国民所得の形成,所得の分配と再分配,所得の実現および消費と蓄積の形での国民所得の最終的利用を研究する課題は,当時設定されなかったようである。第4は部門分類に関して,生産手段生産部門と消費財生産部門との2部門分割が徹底せず,農業部門で所有形態による分類がなかった点,固定フォンドが生産的なものと不生産的なものとに分類されなかった点などは,国民経済の再生産を表示するバランスとして不適切であった。第5はこのバランスに労働資源バランスが欠けていた。このため,バランスは労働力の源泉およびその利用に関する問題に応えることができなかった。

 後のソ連の統計学者であるリャブーシキンは以上の欠陥の背景に,国民経済バランスが取引一覧表の枠をでなかったことがあると総括的に指摘した。結局,社会的拡大再生産の過程を数字で特徴づけるべきとする要請は,この国民経済バランスによって果たされず,多くの課題を事後に引き継ぐことになった。

山口秋義「ロシア帝国第一回人口センサス(1897年)について」『経済志林』第76巻第4号,2009年

2016-10-17 21:55:32 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山口秋義「ロシア帝国第一回人口センサス(1897年)について」『経済志林』第76巻第4号,2009年

 筆者はこの論文で第一回ロシア帝国人口センサス実施の背景,センサスの方法論的特徴,調査組織と制度的特徴(実査組織,調査員の構成,調査環境)について解説している。

 当該人口センサスは1897年に実施されたが,その背景にあったのは農奴解放(1861年),国民皆兵制(1874年),人頭税撤廃(1887年)であった。すなわち農奴解放以降,人口移動の活発化,人頭税対象リストと実際の人口分布との顕著な乖離で,18世紀以降から当時まで実施されていたレヴィジャと呼ばれる人口調査が国民皆兵制に必要なデータとして意味をもたなくなったと認識されるようになり,その改善が緊急の課題とされた。またこうした国内要因の他に,バンコク統計会議を中心とした国際統計活動の影響があった。1853年ブリュッセルで開催された第一回万国統計会議では1846年ベルギー人口センサスで採用された諸原則が議論の対象となり,この内容はその後,1872年にサンクトペテルブルクで開催された同会議で決議され,各国への勧告となった。

 それでは実際のセンサスは,どのようなものだったのだろうか。筆者の紹介にしたがって,調査内容を示す。センサスによって集計,把握された人口は現在人口であった。調査時は露暦1897年1月28日(新暦2月9日)の朝,調査対象地域はロシア帝国全土とされた。標識としての調査項目は14(①名前,父称,またはあだ名,②婚姻状態,③世帯主との関係,④性別,⑤年齢,⑥身分,⑦信仰,⑧出生地,⑨定住地と住所登録地または国籍,⑩居所,⑪母国語,⑫職業,⑬識字能力,⑭身体上の障害)であった。民族属性,従業上の地位に関する項目はなく,また識字能力の基準は曖昧であった。
調査票は3種(A票[農民と農村住民用],Б票[農場主と農村の自家所有用],B票[都市住民用])用意された。調査票は実査の10日から15日前に事前配布され,回収は1月28日から31日にかけて行われ,調査員が点検して,地方における第一次集計結果とともに中央統計委員会に送付された。集計は内務省中央統計委員会センサス部が担当した。

 集計にはアメリカ製の電算機ホレリスが採用されたが,効果的な運用にいたらなかったようである。公表はセンサス実施から2年後の1899年から始まり,1905年に完了した。

 実査組織と調査員の構成は,次のとおりである。調査は「第一回ロシア帝国人口センサス法」の規程に従って行われた。センサスの全体責任者は内務大臣で,彼を議長とする中央センサス委員会(財務省,国防省,国家統制省からの代表)が基本計画を作成した。実務を担当する地方組織として県センサス委員会(県知事が議長),群センサス委員会(群貴族会長が議長)が設置された。しかし,中央センサス委員会,県センサス委員会,群センサス委員会を構成したのは政治家で,統計専門家はほとんどいなかったようである。都市部(サンクトペテルブルク,モスクワ,ワルシャワ,ニコラエフスク,クロンシュタット,オデッサ,セバストポリ,ケルチ)には特別センサス委員会が設置された。

 調査員の登用は各地方のセンサス委員会に委託され,全国で約13万5千人となった。筆者はサンクトペテルブルクを例に,調査員の構成を紹介している。調査区長から調査員にいたるまで,ここでも統計専門家は少なかった。サンクトペテルブルクでは,調査区長には中央統計委員会,土地省農業統計部,財務省,運輸省,市役所の代表がなり,他に大学教授,医師,兵士などが任命された。末端の調査には,軍将校,官僚,学生があたった。
調査は難航した。被調査者の間にさまざまな噂(徴税強化,強制移住,戦争・農奴制復活,土地分与への期待,迷信)がとびかい,調査忌避も少なくなかった。

 筆者はまた被調査者を下層農民,都市ブルジョアジー,都市労働者,貴族と聖職者に区分して,調査への態度を概括している。また全体として,教育水準の低さがセンサスにマイナスの影響を及ぼしたことを指摘している。

山口秋義「『計画経済』と統計報告制度(1928-1930年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

2016-10-17 21:53:51 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山口秋義「『計画経済』と統計報告制度(1928-1930年)」『ロシア国家統計制度の成立』梓出版社,2003年

 旧ソ連の国家統計制度の特徴は,集中型統計組織と統計報告制度であった。本稿はこの特徴が固まった時期のこの国の統計制度の変遷を,計画経済という契機を考慮に入れて考察した論文である。

 ソ連の計画経済は1920年のゴエルロによる全国電化計画に遡ることができるが,全国的で統一的な経済計画としては1925年の統制数字が最初である。この単年度ごとの統制数字を経て,1928年から第一次五カ年計画が始まる。本論文が対象とする時期は,この五カ年計画がスタートしてから2年後の30年までである。

 計画経済の遂行には,統計は不可欠である。しかし,五カ年計画スタートの頃,中央統計局は計画遂行の主体であるゴスプランに満足のいく統計を提供できなかった。ゴスプランは計画作成にあたって,各官庁から統計方法論が異なる不完全な統計を寄せ集めにたよらざるをえないという状況であった。

 この事態を克服する方策として,1930年1月,ゴスプランに中央統計局を吸収する組織化改革がなされ,ゴスプランの中に経済統計課が設置され,中央統計局の地方組織はゴスプランの地方組織である地方計画委員会の部内組織として位置づけられた。しかし,この措置は統計組織の独立性を著しく阻害し,中央と地方との情報経路が弱体化した。このため,翌年,組織の再編が行われた。ゴスプラン内部の経済統計課が国民経済計算課と名称を変更し,ゴスプランの地方組織であった地方統計組織が再度,この国民経済計算課の直轄組織として位置づけられ地方経済計算局となった。(その後,ゴスプラン国民経済計算課は1941年にゴスプラン中央統計局と改称し,1948年にゴスプランから独立した統計組織となる。)

 この論文のユニークな点は,上記の統計組織の変更にともなう統計調査の諸段階での調査票設計に示された指標の構造を分析していることである。1926年から30年までの期間に,中央統計局による工業統計の作成方法が大きく変更された。それ以前には,工業統計の作成は事業所からの定期的統計報告にもとづいた速報統計である工業現況統計と,センサスをはじめとした統計調査が併存していた。1926年実施の中央統計の組織再編(中央統計局の内部に一部局として統計計画委員会[スタートプラン]設置)以降,工業統計の主たる作成方法は,この時点で新たに導入されたБ票にもとづく統計報告制度に移行した(Б票)。このБ票は計画経済の開始にともない,いくつかの調査項目に関する計画遂行状況の把握を意図したものであったが(工場の名称などの一般情報[26項目],電力収支[27項目],動力装置[16項目],従業員[15項目],原材料と完成品の収支,燃料,固定資本と建設,生産費用),対象項目が限られ計画遂行状況の把握には限界があった。

 1930年代に入るとこの限界を克服するため,従前の統計報告制度は改善され,年次報告制度へと移行していく。年次報告制度では,当初,生産費用,労働諸指標,電力収支,固定フォンドなどの指標を得るための安定した調査票の作成が目的とされた(調査票の名称と内容の推移を示した一覧表が掲載されている[pp.147-8])。実際には1933年までの期間,工業企業の年次報告調査票の構成は不安定で,毎年のように大きな変更がなされ,細分化の傾向が続いた。

 年次報告制度のもとでの調査票とБ票との大きな違いは,前者では遂行実績が年次計画と対応して記入されたこと,当該年と前年との遂行実績の比較があること,第一次五か年計画の遂行に関わる幾つかの項目の追加がなされていること,などである。

 最後に筆者の問題意識は,「移行期」にある現在のロシアの統計制度がネップ期から第一次五ケ年計画への転換期に定着した集中型統計組織と統計報告制度を特徴として引き継いでいるが,集中型統計組織の面は今後とも継続していくものと予想され,統計報告制度の面には大きな変更を迫られているということにある。