社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

藤江昌嗣「統計利用をめぐる諸問題」『統計学』第69・70号,1996年

2017-10-21 10:58:08 | 2.統計学の対象・方法・課題
 当該テーマに対する筆者の見解を,コンパクトにまとめた論稿。情報化社会の現状をふまえ,統計利用論の過去,現在,未来が論じられている。構成は次のとおり。「はじめに」「1.統計利用問題についてのサーベイ」「2.統計利用における諸問題」。
 統計利用の問題は,蜷川虎三の統計学の要諦である。蜷川統計学は,利用者のための統計学として体系化された。蜷川にあっては,統計による研究目的,「大量」を意識した「統計の本質」と統計方法との関係の吟味は統計利用の基本的問題として位置づけられた。その後,上杉正一郎によって統計の対象反映性,対象歪曲性という二面がとりあげられ,また内海庫一郎によって認識論的統計方法批判が展開され,大屋祐雪によって,統計利用の社会性・歴史性が検討されるようになった。

 筆者は過去の統計利用論を整理するにあたり,『社会科学としての統計学(第1集)』(1976年),『社会科学としての統計学(第2集)』(1986年)に掲載された関連論文にあたり,問題点を摘出している。『社会科学としての統計学(第1集)』では,濱砂敬郎による統計利用研究の2つの立場の区分([A]統計の利用方法に関心をよせ,社会現象の研究におけるその意義を捉える立場,[B]統計利用そのものを考慮して,その特徴を明らかにする立場)を手掛かりに,前者の立場に属する統計利用論として内海庫一郎,大橋隆憲のそれが,また後者に属する利用論として大屋祐雪のそれがあげられている。

 『社会科学としての統計学(第2集)』では近昭夫,伊藤陽一,濱砂敬郎の見解を要約して掲げている。近は大屋による「反映・模写論」と野澤正徳を筆頭とする「新しい政策科学」の展開を批判し,前者については「統計批判」の欠落を,後者に対しては民主的改革と民主的経済政策を最優先におきことへの疑問,経済研究における数学的方法の利用に関する従来研究の反故を指摘した。

 伊藤は統計利用論の課題として,(1)個別分野での統計分析,(2)統計指標研究の深化,(3)数理的諸操作の研究と開発,(4)数量的計画・政策を掲げた。濱砂は(1)統計利用鵜論では政府的統計利用の諸形態を,その論理的構造と歴史的具体相について全面的に明らかにすること,(2)プライバシーの新しい権利規定=「個人情報に関する自己決定権」が統計調査の秘密保護の基礎に据えられることで,統計調査と統計利用が影響 を受けていること,(3)統計利用の社会科学的考察の立ち遅れの対象的要因として,統計利用が政府部門の行政行為の一環として存在すること,などを指摘した。

 筆者はまた,木下滋・土居英二・森博美編『統計ガイドブック』(1992年)を取り上げている。そこでは「統計数字の二重性」と「統計体系と統計利用」の視点が明確に打ち出され,その意味で「統計の本質」と「統計利用目的と方法との関係」,そして「統計指標体系化」という研究課題が受け継がれている,と指摘している。また,現在の社会を「情報ネットワーク社会」ととらえたうえで,筆者は統計と非統計(記録,データ)の区別と両者の情報範疇への包摂という問題が新たに提起されているとみる。野澤は「情報ネットワーク」を視野に入れてこそ初めて統計学は現代の統計活動の特徴をとらえることができ,現代の社会・経済にそくした方法を発展させることができるとし,「統計学」から「統計情報学」への発展を展望している。𠮷田忠は社会情報が事実資料という形態をとったとき,そこに社会関係の調査・記録と,社会集団現象の記録・調査の区別を行うことが重要であるとしたうえで,「社会環境からの制約のもとでの統計資料の作成・利用過程の社会科学的因果分析を行うこと」を社会統計学の課題としている。

 筆者は以上のサーベイを終えて,次に統計利用の諸問題を3点,論じている。第一は「主体間の関係(コミュニケーション関係)の変化と真理性の問題,第二は「統計情報化」・利用目的の多様化と利用過程の分析(重層性と体系性),第三はプライバシーと情報公開・地方分権,である。
第一の問題は,統計環境の変化のなかで,従来型の「調査客体-調査主体-利用主体」という枠組みが「調査主体」を抜いて「報告・発信主体(調査客体)-利用主体」という主体間の関係に変化していることを踏まえ,新たな観点からの調査論,利用論が登場してくるという論点である。第二の問題は,統計利用の問題が「統計」と「情報」の融合と利用ニーズの拡大,利用目的の多様化とともに,「統計・非統計(データ)利用における問題」となって現れてくるということである。今後は様々な社会的課題に応えるために「統計・非統計(データ)利用」という地平での統計的方法と情報処理手法の実践を行いながら,この利用の過程を歴史的社会的過程との関連性や被規定性においても階層的重層的に捉える作業がもとめられている。第三の問題は,ネットワーク技術の発展と情報利用ニーズの高まりのなかで,一方で情報は個人,企業,政府などのもつ情報が公開・開示の対象となるものに,他方でプライバシーや営業秘密をたてに保護の対象ともなることから派生する一連の事態である。企業,政府,自治体における統計・情報の管理はそれらの組織における意思決定の在り方と関係しており,その管理実態の把握とともに情報公開における分権化の推進も統計利用の大きな課題となっている。

長澤克重「産業・職業分類の変容」『統計学』第90号,2006年

2017-10-18 21:59:09 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
現在の国際標準産業分類(ISIC)は第4回改訂(2009年)にもとづいて,日本標準産業分類(JSIC)は第13回改訂(2013年)にもとづいて施行されている。国際標準職業分類(ISCO)は第4回改訂(2008年)に,日本標準職業分類(JSCO)は第5回改訂(2009年)によっている。本論稿は2006年に公にされているので,ISICについては第3回改訂(1990年),JSICは第11回改訂(2002年),ISCOは第3回改訂(1988年),JSCOは第4回改訂(1997年)を前提に書かれている。  
産業分類と職業分類に関するアカデミックな立場からの研究は,近年,減少している。理論的・歴史的なアプローチによる研究はもとより,分類の改訂内容・改訂動向についてもフォローされていない。その理由として,筆者はマルクス経済学の退潮をあげている。なぜなら,産業分類・職業分類についての研究はかつて,サービス労働論,生産的労働論争などマルクス経済学の中で論じられてきた経緯があるが,マルクス経済学への関心の低下は即この分野の研究への関心の低下と結びついているからである(「おわりに」での指摘)。

筆者は本稿で,このフォローを行い,改訂をめぐる論点をまとめている。主な対象は,国内的および国際的標準産業分類,標準職業分類である。またこの間に社会経済構造の変化を分析するために作られた産業分類・職業分類を,社会経済のICT化の実態分析にかかわるものに限定して取り上げている。

<産業分類について>
ISIC(国際標準産業分類)は,1990年に第3回改訂が行われた。サービス業を中心に大分類が増加する大幅な改訂であった(11から17)。この論稿が執筆された時点では,第4次改訂の作業が国連統計委員会によって設置された国際経済社会分類専門グループによって進められていた。第3次改訂以後15年を経過し,この間に情報通信産業の興隆を始めとして各種サービス業,バイオテクノロジーなど新産業が拡大・勃興し,新たな社会的・経済的変化を反映する分類が必要とされている。また,この間,世界各国・地域で利用されている産業分類の改訂が進んだので,それらとの間で,比較可能な調整がもとめられていた(特に北米産業分類[NAICS]との調整)。筆者は基本構造の改訂内容と方法論に関わる問題のポイントを要約して掲げている。

筆者は関連して上記の北米産業分類[NAICS]について紹介している。NAICSは1997年にアメリカ,カナダ,メキシコ3カ国の共通分類として創設された。NAICSの創設は,従来,使用されていたSIC(1987年改訂版)が製造業中心の分類であったため,サービス経済化の実態を反映しきれていなかったこと,1993年の北米自由貿易協定(NAFTA)の成立によって域内の共通分類が必要になったことが要因としてある。20ある大分類のうちサービス業関連が16を占めている。NAICSは2002年の改訂で,建設業と卸売業で大きな分類変更があり,小売業および情報産業でも変更が加えられた。ISICとの比較可能性については,2桁レベル(中分類)でそれが考慮されている。

 日本の産業分類は,2002年の第11回改訂で大幅改訂があった。背景には情報通信の高度化,経済活動のソフト化,サービス化,少子高齢化社会への移行にともなう産業構造の変化がある。また,国際的分類との比較可能性の向上が視野に入っている。改訂内容は,5つの大分類項目の新設(「情報通信産業」「飲食店,宿泊業」「医療・福祉」「教育,学習支援業」「複合サービス業」)が最大の特徴である。この改訂で見送られた検討課題もいくつかあり,筆者は舟岡史雄,坂巻敏夫,片岡寛,清水雅彦の指摘を紹介している。舟岡は,(1)主として管理業務を行う本社と持株会社の位置付け,(2)大分類「製造業」の見直し,(3)大分類「林業」「鉱業」の在り方,(4)Q-サービス業の再編成,(5)国際基準との整合性確保,を挙げている(「日本標準産業分類の改訂について」[2003])。坂巻は,製造業の分類体系の問題と分類における「旧密新粗」(かつての基幹産業の分類が密であるのに対し,高度成長期以降の基幹産業の分類が粗いこと)の問題を指摘している(「日本標準産業分類第11回改訂後の製造業分類に残された課題」[2002])。片岡は今後解決すべき課題として,産業区分の曖昧さの拡大,情報産業の範囲の確定,事業所における経済活動の多面性,イノベーションの成果と既存産業区分との不整合性,販売業分野の革新と分類の在り方,物財にサービス・システム・情報を加味した「融合型」商品ブランドの分類,NPO型経済活動の評価,企業分類の設定を挙げている(「産業分類の意義と分類基準をめぐって」[2002])。清水は製造業の分類基準(品目の同質性の基準)の明確化を提言している(「製造業における産業分類について」[2003])。

<職業分類について>
次に職業分類について。国際標準職業分類(ISCO)は,ILOによって作成,改訂が行われている。本稿執筆時点のISCOは1988年にILOで採択されたものが使われ,2007年改訂に向けた作業の最中にあった。職業分類は職業を仕事の類似性にしたがって分類したものであるが,ISCO-88では仕事の類似性を技能のそれで見ている。さらに技能の類似性を「技能のレベル」と「技能の専門性」の2つの次元でとらえ,技能のレベルの判断基準にユネスコの国際標準教育分類(ISCED)を利用して,4レベルに分けている。

日本標準職業分類(JSCO)は,1997年に第4回改訂が行われた。改訂の主な内容は,前回改定(1986年)以後の職業別就業者数の増加と減少,職業の専門分化の進展,国際比較性を考慮した分類項目の新設・統合・廃止である。男女共同参画社会実現の観点から,職業の名称変更が行われた。JSCOの国際比較上の問題点に関しては,西澤などの指摘がある。
本稿執筆に先だつ10年の産業構造の変化は,世界的にICT化が基軸であった。産業・職業改訂においてNAICS,JSIC,ISIC Rev.4 draftのいずれにおいても情報通信業,情報産業が大分類として設定されたことは,この反映である。筆者はこの動向を受けて,OECDによるICT部門の定義,米国商務省によるIT産業,IT職業の定義を紹介している。前者の定義の内容は,「データと情報を電子的に捕捉,伝達あるいは表示するような生産物を生産する製造業とサービスの組み合わせ」として示されている。後者で定義されるIT産業はハードウェア(コンピュータ関係,半導体,計測器など),通信機器,ソフトウェアとサービス,通信サービス(通信と放送)から構成されている。  
 筆者は最後に,21世紀が知識・情報・技術が社会のあらゆる領域の基盤として重要性をますので,知識生産や情報処理,技術開発などと関わる産業・職業が重要になってくること,このことから産業分類・職業分類の再編,見直しが必要にならざるをえないことを述べて,論稿を結んでいる。

藤井輝明「計量経済学と偶然性」(『統計学と統計利用』産業統計研究社,2010年,所収)

2017-10-08 20:07:44 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)
藤井輝明「計量経済学と偶然性」(『統計学と統計利用-統計利用の方法論と,集積経済の推定,地域人口動態分析への応用』産業統計研究社,2010年,所収)

筆者は本稿で,計量経済学に対する従来型の批判を整理しながら,しかしそれらと異なる立場からその有効性を論じている。異なる立場と言うのは,計量経済学の構造が決定論的であると評価し,誤差の仮定やデータ主導型分析において形式数理以外の情報でこれを補う論理をもちうる,という考え方のことである。   

 構成は次のとおり。「1.はじめに」「2.計量経済学の有効性をめぐる論点の『転換』」「3.計量経済学の古典的方法についての基本的論点」「4.決定論としての計量経済学」「5.偶然と誤差」「6.計量経済学の変質」「(補論)決定論と臨界」。

筆者は最初に1980年代半ばまでの社会統計学における計量経済学をめぐる議論を,𠮷田忠が10年前に行った整理に依拠して,サーベイしている。それによると,計量経済学研究は次のパターンに集約できる,とする。第一は広田純,山田耕之介,是永純弘らに代表される「方法論批判」である。その特徴は,計量経済学が設定する仮定が恣意的であり,「不可知論」的認識論にたつ方法と考え,方法としてのこの側面が計量経済学の全てであるというものである。第二は弁護論批判の見地(資本主義弁護論)である。これには,次のバリエーションがある。(1)批判をつうじてその限界と役割を明らかにすると同時に,そのなかから批判的に摂取すべきものを見出す立場。(2)それが特定の現実,政策と結びつく具体的な資本制経済計画と経済社会政策の決定過程を分析し,その科学性をみせる背景として,計量経済学の方法が利用されていることを指摘する立場(𠮷田忠)。(3)その経済理論・計量経済学の方法が想定する世界観と現実の政策実践過程を分析すればするほど,両者の不可分性が露呈するはずであるとするもの(浜砂敬郎)。

𠮷田は方法論批判の対象が「研究室レベルにおける計量経済学者の目標・意識と結びついた計量経済学の方法と,それを規定した計量経済者の世界観・科学方法論(社会的イデオロギー)とであった。これを史的唯物論に依拠した正しい社会科学の方法との対比において批判したが・・・(それは経済計画の作成等ではたしている弁護論的役割(ないし粉飾効果))の方法的基盤に対する批判へと展開されねばならなかったのではないだろうか」と批判の方向を示唆している。初期の「方法論的批判」は,数量的科学研究の方法論の否定である。𠮷田は「方法論的批判」の意義を認めているが,となるとこの全面的否定の立場にどのように対処するかが問題になる。また,方法論的な計量経済学批判において決定的に重要なのは,社会における確率過程あるいは偶然性の仮想性をどう理解するかである。

筆者によれば,計量経済学の有効性をめぐる論点は,ある時点で「転換」した。「方法論的批判」のなかで,計量経済学の経済学における利用を全面否定する立場は,経済学の論理に数理統計的方法が不適当であることを経済学に関する先験論理で説明する。これに対し,上記で(1)と整理した立場は計量経済学的分析が必要であり,批判的摂取こそが重要である,とする。𠮷田のいう「方法論的批判」の立場は,方法論的批判の意味をある特定のそれとして考えるようになっている。この段階で全面否定論は,計量経済学のもつ方法上の問題点やそれがもたらす理論的バイアスをもった結論を批判するのではなく,計量経済学がどのような理論とでも結びつくことを批判するようになった(計量経済学は「どんなに対立する理論でも命題でも同じように数値的にその正当性を証明してみせることができる」[山田耕之介])。このような計量経済学全面否定論の「次元の転換」はなぜ生じたのかといえば,筆者の考えでは,統計学=社会科学方法論説がとる一つの姿勢,すなわち方法が実質科学を反映していなければならないとするこの説の機械的適用があったからである。

 このことだけ確認すると,統計学=社会科学方法論説はその存在意義を失ったかのように思えるが,筆者は科学研究では方法が対象のもつ性質の規定を受けること,対象についての理論的経験的研究を基礎に方法を考えざるをえないこと,対象のもつ性質を認識できるような方法を主体的に選ぶことの重要性を示したこと,などいくつかの重要な問題提起をしていることに注目すべきと言う。また機械的適用というのは,社会科学方法論説では認識対象は認識主体と別に存在することを前提としており,過去に主体の側で構成された事前の理論にもとづく客観的認識を仮定して構成した方法で,設定した仮説の正しさを客観的に検証するものでなければならないはずだからである。

結局,計量経済学の有効性に関する論争は,この視点の具体的分析への適用の仕方をめぐる認識方法論の対立である。

 以上の点を確認して,筆者は計量経済学の古典的方法に関する基本的論点を,古典的モデルにおける方法上の仮定,経済理論の可測性,計量モデルの「単純さ」,構造の安定性([a]決定論としての計量経済学,[b]係数の安定性),変数選択の妥当性の順で論点整理を行っている。経済理論の可測性では,計測可能な変数間の構造に数量化しつくせない要因の影響をよみとるべきこと,計量モデルの「単純さ」では,計量経済学では線形構造での推定であるがゆえに,近似的に確率的といいうる定差誤差が存在するというべきこと,構造の安定性では,計量経済モデルが優れているみなされるのは,線形方程式の体系で表される決定論的関係によって可能な限り多くの効果を説明しうること,等々を確認している。補論として,筆者は計量経済学の基本構造の決定論的性格(外政変数の設定があるので完全に閉じた決定論的世界ではないが)と数理統計学における誤差分布の仮定の意義について論じている。関連して,是永純弘など方法論的批判論者が,計量経済学非決定論的性格を主張したことに疑義をなげかけている。是永のこの誤認は極端な決定論にたっていること,認識の単純化を認めない立場に由来する。筆者はまた,是永の誤差項についての扱い,とりわけ未知のものを全て偶然誤差と断定し,定義誤差を偶然誤差とする仮定が正しくないとした誤解が,計量経済学の理論そのものが非決定論で不確定とする立場からきている,としている。誤差項の仮定の恣意性という方法論的批判論者の見解に対しては,誤差の存在や誤差の形状が実体に即して仮定されという主張で切り返している。

以上の議論の延長線上で,計量経済学(モデル)の評価が個別モデルについてなされる次元に入ったとして,筆者はそうした個別モデルのひとつである「民主的改革」モデルを批判的に検討した岩崎俊夫の見解(岩崎俊夫「民主的計画化のマクロ計量モデルに関する一考察-検討:モデル・政策・理論の『整合性』-」『立教経済学研究』45巻4号)を議論の俎上にとりあげている。とはいうものの,筆者によれば,岩崎の論理は実質科学的論評でその意味では結果として個別的有効性を論じたものであるが,実際には個々に内容に即して有効かどうか判断することに懐疑的である。また,岩崎は計量経済学の方法が実質的内容についての認識を制約しているというが,民主的計画モデルについてモデルが分析目的に応じて個々に考えられる,と述べるなど,事実認識に混乱があると指摘している。

筆者は最後に,データ主導型分析を提唱する。重要なのはどのような理論を説明するかではなく,データ生成プロセスをよりよく説明することである。実証的研究の積み重ねの結果わかったことは,理論の実証ということの難しさである。係数の安定性や誤差についての仮定をゆるめれば,安定的な結果を得るのはさらに難しくなる。本稿の後半部分,とくに岩崎見解に疑義を呈しているあたり以降は,文章に明晰さが欠けていて,主旨がわかりにくい。


石原健一「指数論」『統計学』第69・70合併号,1996年

2017-10-07 11:05:18 | 9.物価指数論
経済統計学会の指数論研究(1986-95年)をサーベイした論稿。筆者はこの間の指数論研究は,それ以前の10年間と比べて,研究者が少なく,総じて低調だったと総括している。それにもかかわらず個別的には重要な成果がみられたので,その紹介となる。全体は次の7節に区分されている。「1.指数の経済理論および対象反映性」「2.ディヴィジア指数」「3.地域差指数」「4.銘柄規定の変更。本質変化」「5.消費者物価と卸売物価の乖離」「6.国際比較」「7.寄与度・寄与率」。   

 「1.指数の経済理論および対象反映性」では,主として岡部純一「物価指数論から物価指標体系論へ」(1989年)が紹介され,筆者のコメントが付されている。岡部は物価指数の両義性(「物価指数としての役割」と「生活費変動の統計的測度の役割」)を指摘する。また,①いわゆる一般物価指数の測定から派生し,最終需要段階の測定へ特殊化されていく側面と,②家計調査等の生活費調査が生計費指数へと定型化されていく側面とが接近していく過程に着目する。さらに物価指数論における客観価値説と主観価値説という対立図式でみると,前者は不定標準指数であり,後者(消費者選択理論の指数論)は生計費指数に近いがゆえに,両者の議論はかみ合わず,それゆえ消費者選択理論の指数論はその主観性ではなく,客観性によって批判されるべきと言う。

消費者選択理論の指数論およびCPI論は,一方で消費主体から独立したマクロ的消費標準物価指数へ,他方で実質賃金算定指数に妥当な生計費指数の要求へと二方向の統計目的に分裂している。そして,CPIを実質賃金算定指数の指標として利用すれば,(1)その「対象と消費支出は賃金というで購入される生計支出とずれている」ために生計物価指数といえず,(2)「消費者疎外の動態を隠蔽している」ため,同一生活水準維持指数でもない,と結論付ける。

筆者は岡部が上記①と②のプロセスを並立に扱ってCPIの性格を論じることに,また岡部のいわゆる「生計費」の内容が明らかでないので,使用される「生計費指数」という用語の性格が不明確であることを指摘している。
 玉木義男は内閣統計局生計費指数と総務庁統計局消費者物価指数を比較検討し(「生計費指数について」[1987年]),前者はその誕生から物価指数そのものを測定するものであり,決して生計費そのものの変動を測定するものではなかった,と結論づけている。そして,生計費指数の諸類型が明示され,いずれの指数を選択するかは「生計費」の捉え方と指数の利用目的によって規定される,としている。この時期には他に永井博のカジネッツ指数論の検討,山田貢の「関数論的物価指数論の一解釈」(1985年)がある。    

 次に筆者は「2.ディヴィジア指数」でディヴィジア指数を紹介している。この指数はソローが技術進歩の測定に用いてから,消費理論,生産理論,および貨幣需要理論へと応用領域を広げた。しかし,この指数は経路依存性(価格が基準時点から比較時点までどのような経路をたどったかに依存するとする説),不変性(所得と効用が一定で個別価格だけが変化する場合,物価指数は変化しない,とする)など価格指数として不都合な性質をもつ。そのため,ディヴィジア指数は消費者物価指数に適用されない。
「地域差指数」では川副延生の業績をとりあげている。その内容は,中国統計資料から4都市の価格およびウェイトの資料を収集し,総務省統計局の地域差指数の算式にしたがって小売物価地域差指数を計算するというものである。筆者はこの種の消費者物価地域差指数を作成する場合,その作成目的が①各地域市場の物価水準差を表す指標,②各地域住民の消費支出を実質化するためのデフレータ,のいずれであるかが重要であると,コメントしている。また指数の精度を高めるには,大規模な価格調査が必要で,品目別価格として銘柄指定方式と実効単価方式のいずれを採用するかも重要な問題になると述べている。

物価指数の理論を検討するには,銘柄規定と品質変化の問題を避けて通れない。川副は上記の作業をとして,銘柄規定の問題およびその変更に関しての特徴を把握するには,小売物価指数の精度を評価する場合に役立つと指摘し,筆者も同意している。
また,調査品種が新しいもの変更される理由のひとつに「品質変化」があり,これを捕捉するための方法としてヘドニック・アプローチがある。筆者は「ヘドニック価格指数の基本問題」(1981年)でこの方法の検討を行い,その基礎にあるランカスターの「新しい消費者理論」がもつ問題点を浮き彫りにした。その結果,考慮しなければならない問題点として,「『新しい消費者理論』では,『特性』を明示的にとり入れることによって品質問題を分析するが,その新しい品種とは,旧来の財と比べて,含まれる特性の比率が変わる財のことである。既存の特性以外の新しい特性を含む財が出現した場合,それは全く別の商品とみなされ,以前とは異なる効用関数を想定しなければならず,異なる特性を含む新商品が消費者行動に及ぼす影響を分析することはできなくなる」ことを指摘している。

山田貢は同一品目内の銘柄変更より,品目改正の場合に,CPIはより根本的問題を内在させていると言う(「消費者物価指数における銘柄変更問題と指数の意味」[1988年])。その問題とは,CPIが生活構造を一定として生計費の変化をはかるとしているので,新商品の出現はすべて生計費の変化ととらえられ,指数に反映されないことである。また山田は商品の「本質的な」品質変化を取り除くことは重要であるが,効用理論からアプローチすると主観的要素が入りやすく,結果として実質的価格変化をも逃すとして,ヘドニック・アプローチを批判している。
その他,消費者物価と卸売物価の乖離の問題を長く分析しているのは,学会の会員ではないが水野裕正である。購買力平価(PPP)の領域の研究を行っているのは,宍戸邦彦である。寄与度・寄与率の研究では,関弥三郎の業績が顕著である。
筆者は最後に,西友物価指数,アメリカのR.E.ハル(R.E.Hall)による合理的期待仮説の消費者理論の成果に触れ,後者が消費者物価指数の経済理論(関数論的物価指数論)に何らかの影響を与えるのではないか,との予想を表明している。

菊地進「計量経済学批判の方法と課題」『統計学』49・50合併号,1986年8月

2017-10-06 15:08:37 | 12-2.社会科学方法論(計量経済学)

筆者は1970年代半ば以降,計量経済学をめぐる状況に変化があると見る。一つは60年代から70年代にかけて開花した計量経済学がケインズ型マクロ計量モデルの破産を契機に,方法論的反省を余儀なくされたことである。もう一つは批判経済学の側で計量経済学の有効性を認め,その批判的摂取図るべきとする見解が台頭したことである。この論文は,1976年からの10年間のこの分野の回顧と分析であるが,筆者はこの間の意見対立がどこにあったのか,対立克服の条件と方向がなんであるのかを明らかすることが必要なこと,述べている。
筆者は最初に10年前の𠮷田忠によるこの分野での業績の総括を整理する。𠮷田は計量経済学批判を,方法論的批判,弁護論批判,経済計画における利用形態批判の3つの系譜に分け,それぞれの特徴と問題点を指摘した。𠮷田によると,「方法論的批判」は研究室レベルにおける計量経済学者の目標・意識と結びついた計量経済学の方法を対象とし,「弁護論批判」は計量経済学の資本主義弁護論的性格を主張した。これは計量経済学の一定程度の有効性の承認と結びつく可能性を秘めているが,計量経済学の適用範囲にまで対象を広げ,より体系的に批判したもの,と評価できる。これを実践したのが「経済計画における利用形態批判」である。しかし,この批判は方法論的に無効である計量経済学が実際にどのような役割を果たすのかを十分に明確にしえなかった。今後の批判の方向は,批判の対象を国家と総資本の本質的意図の具体化の全過程=経済計画策定過程にまで広げることが必要である。このように計画批判のプランを示した吉田は,計画の内容としての政策体系が計画作成方法と無関係に与えらえるという「二元論的構造」を指摘する。

この吉田の「二元論的構造」説には二つの立場から異論がだされた。浜砂敬郎は,中期経済計画を検討し,そこで算出されたマクロ計画値が「計画」の政策体系と対応関係があり,𠮷田にそれがみえないのは科学方法論的視点にたつからで,マクロ計画値の社会的依存性が問われていないからである,とする。筆者はこの吉田と浜砂の対立の要点は,計量経済学批判の課題からすれば,計量経済学=方法説の是非にあると述べる。
もう一つの異論は,計量経済学の有効性を認めるべきであると主張する山田(彌)によるものである。山田(彌)は,「長期や中期の計量モデルによって,独占資本によって必要な限りでの整合的な経済見通しと政策の大枠を決定することができる」との見解を表明し,𠮷田の「二元論的構造」説を否定した。

計量経済学の利用を推進するためには従来のそれに対する否定的評価を一掃しなければならないと考えた山田(彌)は,方法論的批判説に対する批判を開始する。山田(彌)の主張は要するに,方法論的批判は計量経済学(モデル)の全面的批判,全面的否定である,計量モデルは因果関係を表現することができるし,因果性を付与して解釈できる,モデルの評価は,具体的かつ個別的に行わなければならない,現実の本質的側面を正確に反映した計量モデルの作成は可能であり,そうしたモデルを使って政策シミュレーションが意味をもつ,というものであった。
批判的経済学の側でこのような研究が進められていた時期,近代経済学の側では計量経済学の従来型の方法に対する懐疑と批判が顕在化していた。批判の矛先は,経済政策の実施の有無にかかわらず構造パラメータを一定と仮定していること,モデルの大型化=作業量の厖大化に比し,予測成績が悪いことに向けられた。批判の急先鋒は,合理的期待形成を旗幟に掲げる論者であった。計量経済学の従来型の方法にみられる上記の難点にたいして,彼らがとったやり方は予測変数の導入,これを説明する方程式(合理的期待仮説)の導入である。このような方法をとると,モデルと統計データとの対決,すなわちモデルの妥当性の検証は,構造方程式のレベルで行うのではなく,それから導かれた誘導方程式のレベルで行わなけれならなくなる。この方法を首尾一貫させるためには,同次連立方程式モデルを退けねばならない。モデルの検証方式をめぐる意見対立は,同次連立方程式モデルの登場以来,常に発生してきたことであり,今回の対立はその延長線上にある。

山田(彌)は合理的期待説による批判点は方法論的批判説が指摘した論点と同一であるとして,同次連立方程式モデルを擁護する観点からこれを拒否した。筆者はこのことを確認しつつ,しかし問われるべきは計量経済学の有効性を主張するのであれば,計量経済学の内部で上記のような対立と混乱がなぜ生まれたのかについて回答を用意しなければならないと,迫る。他方,近昭夫,山田貢は合理的期待説の批判の論点は方法論的批判説が指摘してきたたことと同じと考えその見解を評価する。ただし,筆者によれば,合理的期待説の批判は近,山田がとらえたように,計量経済学の外部からなされたのではなく,内部での混乱である。この視点は,計量経済学の今後を考えるうえで非常に重要である。なぜなら,こうした混乱の結果生み出されるのは,そこで認めざるをえなかった問題点を糊塗する手法の新たなモデル開発であるからである。
計量経済学が何かを考えようとすると,過去におけるその展開目を向けざるをえない。今日の計量経済学がこれまで直面してきた方法上の困難,

また混乱の原因を解く鍵が計量経済学のこれまでの展開そのものの中に与えられているからである。
計量経済学の方法は,純粋に手法の面から言えば,自然科学における統計的方法ないしその展開にすぎない。条件の違いを無視して社会科学の分野で適用すれば,何らかの形でその欠陥を認識せざるをえなくなる。計量経済学の変遷は,新しい方法の開発で古い手法の欠陥を一時的に覆い隠し,モデルのスクラップ・アンド・ビルドが繰り返される過程であった。こうした点を踏まえると,計量経済学の評価をめぐる意見対立は,その有効性をめぐる対立ではなく,計量経済学=方法説を認めるか否かにつきる。