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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

木村太郎「収穫高統計の史的発展」『改訂 統計・統計方法・統計学』産業統計研究社,1992年

2016-10-09 17:52:13 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
木村太郎「収穫高統計の史的発展」『改訂 統計・統計方法・統計学』産業統計研究社,1992年

 統計あるいは近代統計学は,資本主義社会の成立と踵を接して登場した。それ以前の封建社会の下で統計的記録が全く存在しなかったわけではない。封建領主が残した土地台帳,小作帳,収穫帳,領主の財産目録がそれである。しかし,それらが近代的な統計と異なるのは,封建的土地所有の枠組みによる制約を受けていることである。すなわちそれらの記録は土地所有者を対象とし,人間,財産,生産物は土地を単位としてしか数えられなかった。筆者は,このような記録の仕方を土地単位主義と呼ぶ。

 土地単位主義は,その時代における統計的考え方を支配していた。その現れを筆者は,封建末期の17世紀にドイツで開花した国状記述論派に属する人たちの統計学にみる。彼らは形式的に統一されたドイツ国家を理念的に描きながらも,そこに強固に残存する封建的土地所有や領主制に規制され,封建的所領や封建的国家を単位とする表を構成することをもって統計学と考えた。近代的な統計や統計に関する諸概念は,こうした封建的土地所有や領主制がくずれ,人間,財産,生産物が個人のレベルで把握され,その集団として国家や社会が考えられるようになった時に,その基礎を形成する。

 封建制下の領主や王侯にとって,収穫高は最大の関心事であった。それらの資料による把握は,上述の制約があったものの,かなり正確に行われた。しかし,これらの記録は,それがよってたつ封建的土地所有そのものの解体によって崩壊した。代わって登場した絶対主義王政のもとでは,その直接的財源としての租税の徴収が必要となり,崩壊した領地の記録の整理や人民や耕地を補足するための調査が頻繁に行われた。だが,絶対王政の下での統計調査は歴史的限界をもち,成功した調査は存在しなかったと言って過言でない。ただ,その努力はドイツでは形式的には国状記述や表式統計学として,またイギリスでは市民的な基礎の上に試みられた政治算術派の「推算」として学問的開花をみた。

 イギリスの政治算術派は租税の基礎を,人間を単位として計算し,把握しようとした。この点に,この学派が担った近代的統計概念への橋渡しの役割がある。しかし,彼らは人口のみに関心があり,収穫高に関する業績はないに等しい。フランスでは,収穫高に関する記録は,14-15世紀まで維持されたが,16-17世紀には社会的政治的混乱のなかで機能を失い,その後,古い台帳の整理,書き換えが施行された時期もあったが成功しなかった。絶対王政のもとでの最初の収穫高推定はルイ14世治下,ヴォーバンによってなされた(その結果は信用に値する代物ではなかった)。その後,収穫高推計に関する本格的研究は,ラヴォアジエ(有名な化学者)によって実施された。ウェスタガードはこの研究について,収穫高,耕地面積の推算が大胆な仮説のもとでの単純な方法によるものであったが,その結果が後世の統計からみて合理的な面をもっていた,と評価している。

 封建制および絶対主義王政のもとでの収穫高統計はもっぱら封建地代,あるいは租税徴収の目的があって作成された。資本主義国家のもとでは,農産物の供給事情の把握が目的となる。このため収穫高統計は少なくとも一年に一回は実施され,しかも迅速にその結果がわかるものでなければならない。くわえて,それは農家の社会的生産物としてよりはむしろ特定作物の総量の把握が必要であり,財政負担が安上がりであることが要請された。その結果,収穫高統計は全部調査である農業経営統計と分離し,作況統計として発展していくことになる。

 以下,筆者はフランス,ドイツ,イギリス,アメリカにおける収穫高統計発展の概略を紹介,解説している。フランスでは,収穫高統計が世界に先駆け1834年に着手され,6年間を費やして40年に発表された。それは表式調査で,属地主義的な調査であったが,最初の全国的な近代統計調査として画期的なものであった。しかし,初期の調査は不完全であり,多少なりとも信頼できる調査は1862年調査からである。以後,調査は10年おきに実施されたが,これでは間隔があきすぎ需要にたえるものでなく,全数調査によらない別の推計方式による調査(通信員による情報の蒐集を基礎とする調査)が提案された。いずれにしても,フランスでは1870年前後から通常の統計と分離した独立の通信機構を通じた年統計が作成されるようになった。

 ドイツの収穫高統計は,1877年から毎年,実施された。収穫高統計は一般に,作況調査的な対地的方法をとって発展する傾向がある。しかし,ドイツにおける作況調査は,悉皆的農業調査の実施なしに行われた。ここにドイツにおけるこの種の統計の特徴がある。収穫高統計作成の要請が高かったフランス(他にイギリス,アメリカ)などでは,政府統計として農業経営を単位とする全部的統計調査が先行実施され,それにもとづく耕地あるいは作付面積といった統計から作況調査が行われた。これに対し,ドイツでは農業経営を基礎とする耕地面積統計すら存在しないまま,作柄やヘクタール当たりの収量のみが調査された。ドイツにおける最初の全部的な農業経営調査は,1882年に実施されたが,収穫高に関してはこの調査でも,95年調査でも触れられず,1907年調査まで待つことになる。筆者はその歴史的背景として,1850年以降のドイツ農業の急速な分解と独占資本の発展のもとでの都市労働者階級の成長にみている。

 イギリスでは,近代的農業統計の発足はフランスより遅れた。最初の農業統計の調査は,1855年のスコットランドの「ハイランド農会」(ブルジョア的農業経営団体)が主導したものである。この調査は明確に農業経営を対象とし,家畜頭数,耕地および草原面積,農作物の種類,平均生産額などの諸項目にわたり,近代的調査の意識が明確であった。7年間継続実施され,対象農家は協力的であった。政府が実施した農業調査は,1866年のものが最初である。これは農業経営者を対象とした全国的悉皆調査であるが,調査項目は農用地面積,主要作物作付面積,飼育家畜頭数などに限定され,収穫高あるいは面積当たり収量は経営内容に触れるとして除外された(経営内容不可侵の原則)。収穫高統計の基本的要素である作付面積に関しては,1866年以降,毎年推計された。この頻度は,イギリス独自のものである。また収穫高統計は,作況報告組織(1884年発足)の作物報告員の予測するエーカー当たり収量に,上記の作付面積を乗じて算出された。

 最後にアメリカの状況である。アメリカのセンサス(第1回は1790年)で農業が調査(家畜頭数,各種作物の生産額)されたのは,1840年である。農産物市場の拡大にともなう農産物の価格変動の要因である作況に関する情報を要求する農民の側からの世論におされてのことであった。しかし,その中身は信頼性に欠け,その発展は担ったのはむしろ民間人であった。すなわち,「メアリランド」農事協会会長は1855年に,各州の農事協会に農作物に関する資料蒐集の必要性を呼びかけ,自らメアリランド在住の個人や農会に調査用紙を公布して作況を報告させた。他にも,American Agriculturistの主筆であったオレンジ・ジャドという人物が1862年に,同誌の読者から作物の出来高に関する情報を月ごとに集め,その結果を発表した。政府による作況報告は,1863年のものが最初である。以後,この調査は収穫高統計に発展し,作況調査としてセンサスにおけるそれと併行して,毎年作成されるようになる。以後,作況統計調査的統計の発展は,推計技術の追求を主導に進む。

伊藤陽一「アメリカ合衆国第一回人口センサス(1790年)について」『経済志林』第58巻第3・4合併号, 1991年3月

2016-10-09 17:50:38 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
伊藤陽一「アメリカ合衆国第一回人口センサス(1790年)について」『経済志林』第58巻第3・4合併号, 1991年3月

 人口センサス(日本のそれは国勢調査と呼ばれている)を世界で最初に行ったのはどの国だろうか。それはアメリカが最初で, 1790年に実施された。1703年のアイスランドでの人口調査, 1749年のスウェーデンの人口調査の存在もあるが, 今日のような政府主導で, 全国規模の調査員による直接調査は, アメリカ合衆国第一回人口センサス(1790年)が嚆矢である。本稿は, そのアメリカでの第一回人口センサスの全貌を紹介し, 批判的に吟味した論文である。

アメリカの人口センサスに関する研究は本国では膨大にあるが, 日本では数が知れている。近代センサスの嚆矢となった第一回のそれとなると, 本国でも体系的なものはないに等しい。概略は伝えられているが, このセンサスの社会的背景, 内容紹介, 問題点の指摘, その批判的研究はない。本稿は, その空白を埋めてあまりある内容になっている。以下で, この論文の内容を要約紹介するが, 紙幅に限りがあるので, エッセンスに限定せざるをえない。

 第一回センサスの調査形態は, 全国規模(当時は13州)で, 世帯に直接あたる調査であった。調査対象は, インディアンを除く合衆国人で, 世帯をリストアップして実施された。調査内容は, 人数を数えるだけの簡単なものだった(ペンシルバニア一部地域やマサチューセッツではセンサス法による内容以外の職業なども調べたようである)。家族ごとに代表者の氏名のみが調べられ, その他の構成員の氏名は調査されなかった。人数が確認されるだけである。16歳以上人口を確定できる設計になっていた。奴隷は3分の2で勘定された。差別を前提とした調査であった。

 センサス開始の契機は, 直接的には憲法にある税負担と議員配分の基礎データの獲得という政治的目的にあった。人口現象の分析という社会科学的視点は毛頭なく, したがって人口統計としての信頼性, 正確性に関しては多くの問題があった。調査対象時点は曖昧である。8月第一週の定住地が原則であったが, かなりばらばらであった(1790年をまたいだ地域さえあった)。大統領―中央政府直轄の調査であった(州知事の媒介は弱かった)。統一的な調査票はなかった。調査員は指示にしたがって, 各自各様の判断で調査にあたった。ペンと紙も自分で調達したらしい。

 調査結果は, ワシントン大統領が1791年10月27日にサウスカロライナを除いた結果を, 議会で報告した。翌92年3月3日, 大統領が議会に人口数3, 929, 214という確定数字を報告した(後に数え漏れが認められた。また調査員からの報告に脱漏があった。)。結果はまた各地域で, 個票内容が公共の場所(2カ所)で縦覧された(個人情報の秘匿という概念がなかった)。集計結果は議会報告され, 地元紙に掲載された。人口数は当時, 基本的国力の反映と考えられていたが, この結果数字は予想外に少なく, 関係者が結果に落胆したというエピソードがある。

 調査による上記の人口数の信頼性, 正確性は, 今日の目で検証すれば問題が顕著である。辺境地のカウントの脱漏はかなりあったと推定されている。インディアンが最初から対象から除外されていることも問題である。記述のように, 調査期間の実際はかなりルーズであ  
これらの一つひとつについての詳細は, 本稿に直接あたってもらうしかないが, ここでは独立戦争後, 諸州の寄り合いであった大陸会議(その第一回は1774年9月)から, 中央政府の権限を強化した合衆国になり, 独立宣言発布(1776年7月), 植民地の連合をめざした連合規約採択(1777年)と発効(1781年3月), 憲法制定会議(1787年5月), 連邦議会開催(1789年4月)を経て, 1790年3月の議会で, 全7か条からなるセンサス法が制定された経緯が興味深い。(センサス法の条文と特徴については, pp.260-63)

また, アメリカがヨーロッパに先駆けてセンサスを実施した理由として, ヨーロッパでは教会を基礎とする登録人口調査の伝統が強かったこと, 関連してアメリカでは人口移動が限られ人口把握が比較的容易だったこと, アメリカでは既述のように税徴収と議員配分という政治的要請が喫緊の課題となっていたことなどがあげられ, 説得力があった。

さらに, 人口センサスは第一回以降, 10年おきに実施されているが, これを改革ごとに3区分して整理し(第1回から第6回まで, 第7回から第12回まで, 第13回以降), 第一回センサスを統計調査史の中でに位置づける点にも共感がもてた。

 末尾に補論があり, 筆者は「合衆国センサス研究史の概略」を サーヴェイしている。

田中尚美「統計における『世帯主』の概念」『統計学』第58号,1990年3月

2016-10-09 17:47:43 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
田中尚美「統計における『世帯主』の概念」『統計学』(経済統計学会)第58号,1990年3月

 世帯を調査単位とする統計では,「世帯主」の属性で世帯を分類することが多い。この場合,「世帯主」は「夫」が想定されているが,「妻」が「世帯主」の場合もないわけではない。否,徐々にではあるが,そのような世帯は増加している。

 「世帯主」を「夫」とすると,統計上,奇妙なことが起こる。勤労者世帯を収入主体で区分する場合,世帯分類はかつて「世帯主」「妻」「他の世帯員」と三区分されている。この「世帯主」は「世帯の家計費の主たる収入を得ているもの」とされ,そこには性別の規定はないが,想定される「世帯主」は男性である。この想定を貫くと,例えば妻が「世帯主」であった場合,妻の収入は「世帯主」の欄に計上され,夫のそれは「他の世帯員」の欄に記入される。夫は「妻」でないからである。このような妻が「世帯主」のケースを交えて集計された「世帯主」の欄には,「世帯主」が夫である世帯の収入と「世帯主」が妻である世帯の収入とが混在し,「妻」の欄に「世帯主」が妻である世帯の収入が入らない。まことに妙な,実態把握に支障をきたす統計ができあがってしまう。(1990年代に入ってから,部分的改善措置ではあるが,「世帯主」の対語に「配偶者」をおき,主要統計に限ってそれぞれに男女の別が明示されるようになった。)

 みられるように,統計の集計上の問題として欠陥をもたらすのが,「世帯主」=男性とする措置(社会通念,暗黙の了解)である。しかし,そもそも「世帯主」概念を男性とする社会通念が妥当なのかどうか。「世帯主」はなぜ男性でなければならないのか。そのような通念の根源はどこにあるのか。統計の問題に最大の関心をおきながら,この疑問をほりさげたのが本論文である。

 筆者の調べでは,「世帯主」を「世帯を主宰するもの」とする定義は,大正時代に制定された寄留法に依る。寄留(制度)は,本籍を離れて世帯を構成する際(90日以上住所または居所が異なる場合)に使われた用語である。戸籍のある本籍地で生活が営まれている場合,戸主=「世帯主」であるが,本籍を離れて世帯が構成された場合,「世帯を主宰するもの」は戸主ではなく,「世帯主」となった。これを定めた寄留法は,1914年に制定された。第一次世界大戦後,戦時色が強くなるにつれ,市町村は配給制度実施の必要性から世帯台帳が作成されるようになり,この台帳が住民の把握のための基礎資料となった。

 第二次大戦後,新民法が制定され(1947年),家制度が廃止された。旧戸籍法は新戸籍法に代わり,先の寄留法も現実の家族である世帯を把握する住民登録法にとって代わられた(1951年)。住民登録法はその後,1967年に住民基本台帳法に引き継がれた。このような変遷はあったが,世帯を主宰する「世帯主」という規定は,寄留法から住民基本台帳法まで一貫している。
「世帯主」をただちに男性とするのは,偏見である。性差別の現れの一形態である。そうした批判を避ける目的で考えられたのが,「世帯主」を「主として世帯の生計を維持する者」とし,性差別をしていないかのようなみせかけの表現をとった。実際に,日産自動車訴訟では共働きである女性従業員に対し,会社は彼女を主たる生計維持者でないとし,家族手当を支給しないとした。女性従業員はこれに対して不服の申し立てをし,訴訟となった。(東京地裁:原告敗訴;1989年1月26日)

筆者はさらに海外でのこの問題に関する動向を紹介している。すなわち「世帯主」概念そのものへの批判,あるいは用語の廃止をめぐる論議は,1975年の国際婦人年およびその翌年からの「国連女性の10年」における一連の女性差別撤廃運動を契機に展開された。「国連女性の10年」の最終年にナイロビ会議で採択された『女性の地位向上のためのナイロビ将来戦略』はその295項で,「法律文書や家計調査において,<世帯主>というような用語を廃し,女性の役割を適切に反映するに足る包括的な用語を導入する必要がある」と述べている。

アメリカでは国連の動きに先駆けて,1970年代から統計における「世帯主」(head of household)概念の論議が行われ,商務省センサス局が実施する1980年人口住民センサスで,同局により現在人口調査で,さらに労働統計局実施の1982-83年消費者支出調査でこの用語を廃止した。代わりに使われたのは,householder あるいは reference personである。イギリスではアン・オークレーらが『政府統計における性差別』(1979年)で,1971年センサスにおける「世帯主」概念が不当であると発言した。

それでは,世帯に関する統計で,「世帯主」概念にどのような代替案が可能だろうか。筆者は,勤労者世帯では夫,妻,子供の属性を単独で,あるいは組み合わせて使うのが合理的である,例えば共働き世帯では夫と妻の収入額の二重分類表示が考えられるとしている。本文中で,筆者は伊藤セツ,居城瞬子による改善案を紹介している。その提案は,①現行(当時)区分をそのまま生かし,「世帯主」と「他の世帯員」をそれぞれ夫,妻,他の世帯員別に区分する,②「世帯主」という用語に代えて「家計代表者」とし,その対語を「配偶者」とし,それぞれ夫と妻に細区分する,③核家族世帯については,「世帯主」「妻」の代わりに,「夫」「妻」「子」という区分を採用する,である。

筆者の確信は,「世帯主」概念の廃止が憲法に定められた男女平等を具現し,国際的に展開されている女性差別撤廃条約の運動につながる,という主張に込められている。

現在,「全国消費実態調査」の用語解説では,世帯主は現在も依然として「世帯主とは,名目上の世帯主ではなく,その世帯の家計の主たる収入を得ている人をいう」となっている。ただし,「『妻の収入』とは,用途分類の『世帯主の勤め先収入』のうち『世帯主が女の収入』,『世帯主の配偶者の勤め先収入』のうち『配偶者が女の収入』及び『(再掲)農林漁業収入を除く配偶者の事業・内職収入』のうち『配偶者が女の事業・内職収入』の合計額である」という記述もある。「家計調査」では,実収入の中で性別のデータが得られるのは「勤め先収入,世帯主収入,うち男」及び「勤め先収入,世帯主の配偶者の収入,うち女」である。


山田茂「わが国の社会指標体系の課題-わが国における社会指標作成の問題点-」大屋祐雪編『現代統計学の諸問題』産業統計研究社,1990年

2016-10-09 17:46:00 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
山田茂「わが国の社会指標体系の課題-わが国における社会指標作成の問題点-」大屋祐雪編『現代統計学の諸問題』産業統計研究社,1990年

 社会の現状把握には,社会指標体系が不可欠と考えられた時期があった。日本では1970年代前半に,社会指標体系作成の動きが政府・自治体で活発となった。経済審議会は,1973年にGDPを補完するNNWを指標として公表した(その後,この動きは衰退する)。また国民(住民)の福祉に寄与する物財・サービスの現物量,国民(住民)の状態を対象とした個別指標体系が登場した。経済企画庁の「国民生活指標」(「社会指標」を継承,しかしこの「国民生活指標」も今は無い),総理府統計局の「社会生活統計指標」(1977年)がそれである。筆者は本稿で,これらの作成状況をサーヴェイし,代表的な作成例を検討し,今後を展望している。(なお,ここで取り上げられている「国民生活指標」は1990年までで,その後「新国民生活指標(1992-1999)」「暮らしの改革指標(2002-2005)」に引き継がれた。「社会生活統計指標」は,現在も基本的に同じ原則で,継続して作成されている。本稿で示された問題点,それぞれの統計の意義と限界をふまえ,現行の関連統計の検討,再評価が必要である。)

筆者によれば,社会指標体系の構築は中央・地方を問わず企画・調整部門によるものが多かった。当初あった総合指標への集-約および政策利用への指向が徐々に弱まり,この論稿が書かれた頃には沈滞気味で,その利用形態は一般的な現状認識と評価にとどまるものなった。
以上のように社会指標体系の現状を整理したうえで,筆者は新たに節を立て,「国民生活指標」と「社会生活統計指標」の検討を行なっている。

 「国民生活指標」は,①生活領域別指標,②主観的意識指標,③関心領域別指標の3部門から構成され,生活領域別指標は時系列指標と国際比較表をもち,関心領域別指標は生活領域別と関心領域別の二重に分類され,とくに関心領域は「国際化と生活」「情報化と生活」「高齢化と生活」「国民生活と格差」「情報化と生活」の6領域からなる。ここでは「主観的意識指標」の難しさ,「関心領域別指標」では作成主体の関心が領域設定と指標選択に色濃く反映していることの指摘がある。

「国民生活指標」の個別指標数はその前身の「社会指標」に比べると,適切な原資料が存在しないことを理由に,大幅に指標数が削減された。その個別指標も特定の前提に基づいて選定されたとの印象がぬぐえず(筆者は8個の「生活領域」のうち最も多い個別指標設定が行われている「家庭生活」の「生活領域」を例示),対象領域を適切に代表しているかが疑問視されている。

 また「国民生活指標」における標準化と総合化の特徴が洗い出されている。標準化では,個別指標の時系列指数値の標準化に焦点をあてて吟味している。その手順は,(1)個別指標値の対前年変化率(A)の算出→(2)対象期間の平均変化率(B)の算出→(3)(A)を(B)で標準化した指数(C)の算出,というものであるが,総合化指数作成の意味は曖昧である。「国民生活指標」には指数の総合化志向が根強くあったようである。しかし,総合化指数のもとになる各個別指標が対象分野全体の水準を適切に代表しているは十分説明されていず(筆者はこれを「勤労生活」分野の3指標で例示),総合化の方法(等ウエイトの平均)が妥当とも言えない。筆者は,「意義のはっきりしない総合指数をあえて算出するのは国民へのPRでの利用がこの指標の主目的に想定されているためだろうか」と疑問を投げかけている。(p.147)

「社会生活統計指標」(報告書)は,「Ⅰ社会生活統計指標」「Ⅱ基礎データ」「Ⅲ基礎データの説明」からなり,付録として「社会人口統計体系の概要について」「指標体系の分野区分,大分類,小分類。及び個別指導」が収録されている。「Ⅰ社会生活統計指標」には47都道府県の入手可能な最新の個別指標値が掲載されている。分野設定では,「行動主体」(人口・世帯),「環境基盤」の3分野(「自然環境」「経済基盤」「財政」)および「時間使途」(「生活時間の配分」)以外で,「国民生活指標」とほぼ同じである。個別指標値は,対象人口比率・全国シェアなど各地域の状態の比較を容易にする形態へ,基礎データが加工されている。各都道府県値のほかに都道府県値の単純平均,標準偏差が掲げられている。指標の網羅性が特徴であり,意識調査を除く「国民生活指標」の大部分の個別指標が収録され,採用指標数は「国民生活指標」の数倍である。「社会生活統計指標」は,「国民生活指標」と異なり総合化は念頭にない。実体記述を本位にしているからである。

 「Ⅱ基礎データ」には各個別指標の算出に利用された原統計値と調査時期が,「Ⅲ基礎データの説明」には資料源,基礎データの概念,利用上の注意点などが詳細に記述されている。
「社会生活統計指標」は都道府県値そのものを個別に利用する場合を含め,利用側の多様な利用方法に対応することをねらって作成されている。難点もあるが,作成主体とは異なる立場からの利用の余地は,「生活統計指標」の方が「国民生活指標」よりかなり大きい。
 以上の紹介と考察をもとに,筆者は社会指標の方向性に関する一般的展望を示すが,その内容は悲観的である。それと言うのも指摘されていることはみなもっともなことであるが,それらを改善するのは現状では極めて困難だからである。もちろん筆者はそのことを自覚しているのだが。

すなわち,社会指標はその性格から,社会のあらゆる分野を網羅的に対象とすることが望ましいにもかかわらず,欠けている部分を埋める業務統計は十分でなく,新規調査を組むことはコストの面で難しい。既存統計を利用する場合を考えても,総合加工統計としての内容的な斉一性を確保する制度的基盤がない,民間統計利用可能性もありうるが他の目的で作成された統計と整合性を測ることには障害がある。また,統計作成は作成主体の行政的介入が必ず下地にあり,このことは客観的統計指標の作成を妨げる。関連するが,社会指標が体系的な指導理論にもとづいて作成されないことが重大な問題である,と指摘して筆者は本稿をまとめている。

岩井浩「合衆国における労働力統計の確立について-「調査表」と雇用状態の規定-」『経済論集』(関西大学)第40巻第2号,1990年7月

2016-10-09 17:44:14 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
岩井浩「合衆国における労働力統計の確立について-「調査表」と雇用状態の規定-」『経済論集』(関西大学)第40巻第2号,1990年7月(『労働力・雇用・失業統計の国際的展開』梓出版社,1992年)

筆者に本稿が出た直後,抜刷をいただいた。この論文は,筆者の『労働力・雇用・失業統計の国際的展開』(梓出版社,1992年)に第4章第1節として収められている(ただし,抜刷の最後段C.D.Long,Bancroftの見解の紹介は削除されている)。本稿の課題は,筆者の叙述によれば,1930年代後半の失業調査,失業センサス,1940年代合衆国センサス,1940年3月から開始された労働力月例報告を対象に,その調査表と雇用状態の規定を中心にした合衆国における労働力統計の確立事情の考察である。

 節建ては以下のとおり。「1.失業救済と労働力方式の形成」「2.1940年合衆国センサスと労働力方式の確立」「3.労働力月例報告」。

以下,内容(歴史的背景をふまえ,労働力調査の確立過程)の要約である。世界恐慌の最中の
1930年,アメリカの最初の失業センサス(第15回合衆国センサス)が実施された。公表された調査結果は多方面からの批判を受けた。それは有業者方式による失業調査の限界をつくものであった。

当時,アメリカには,失業対策を講じる2つの機関があり,一つはFERA(連邦緊急救済局)であり,もう一つはWPA(雇用促進局)であった。前者は1933年3月に成立したルーズベルト政権によって制定された「連邦緊急救済法」のもとに設立され,連邦失業基金を配分する機関である。後者は1935年の「緊急救済支出法」によって設立され,雇用創出を目的に活動したニューディール政策の雇用政策を実施する機関である。FERAとWPAの両者は協力して,1933-35年にかけて州,市レベルの失業調査と救済家族の諸形態の研究を進め,救済基金をもとに市救済局をつうじ各州,各市の調査統計部をした州,市レベルの失業調査を実施させた。これらのニューディール期のWPAによる失業救済受給者の調査および失業調査,連邦,州,市の失業調査の試行,経験から有業者方式の再検討,労働者方式の基本概念と方法が形成され失業調査表の設計・運用が試みられた。

1930年代後半になると,WPAのスタッフは失業救済行政の資料として地方失業調査を実施し,労働力調査方式の技術と方法を発展させ(1937年失業センサスなど),1940年3月から失業標本調査を行い,失業月例報告を公表した。またセンサス局はこれらを吟味,総括し,1940年実施の第16回合衆国センサスで労働力調査方式を全面的に採用し,労働力方式の雇用状態に関する調査の理論と方法を確立した。

その後,第二次大戦のなか,ニューディール政策の終焉とともにWPAは廃止され(1942年),失業月例調査の主体はセンサス局に移行し,1943年10月より労働力月例報告として実施され,その後幾多の変遷を経て現在にいたるまで踏襲されている。背後に失業救済政策から完全雇用政策への転換があった。

 筆者は以上の内容を,WPAの失業救済政策との関係で,失業救済希望者への雇用救済基準の適用性,その適性可能性[就業者と失業者]の吟味,「雇用可能者」の対象認定を紹介,検討し,次いで1937年失業センサスにおける「失業報告カード」の「失業登録チェック・センサス」の概要説明(失業調査で指導的役割を果たしたJ.N.Webbの調査表にはまだ労働力概念は使用されていなかった,とのことである),WPA失業調査(1937-39年)の基本的考え方[労働力方式の基本的概念と同一の立場]と失業調査表の内容[調査票の運用の成果が「失業月例報告」の調査表に結実]を詳しく解説している。さらに1940年センサスの紹介では,その特徴(主要な点は,調査表への雇用と所得の質問事項の挿入と標本調査法の導入)とともに,このセンサスがそれまでのWPAを中心にした多くの失業救済調査および失業調査,地方失業センサスの経験のなかで培われて形成されたこと,労働力概念,労働力方式が初めて採用されたことが考察されている。その後,WPAが廃止され,労働力月例報告の作成は,センサス局に移管され,理論,概念,調査表の検討が繰り返し行われたと言う。

 もっともこの労働力方式に対しては,若干の批判的見解がある。C.D.Longによれば,WPAの失業救済政策との関係で形成された労働力方式,労働力概念は,求職基準(求職テスト)を前提とした統計的測定法であり,調査の回答者の「雇用可能性」(働く意志,働く能力,かつ求職活動)そのものが経済的諸条件によって左右されることを無視している。それゆえに,Longは限界雇用可能性=隠された失業,パートタイム失業,縁辺労働力(労働者)の測定が重要であるとしている。

 またBancroftによれば,労働力概念は「副産物」概念にすぎない。第一に就業者(従業者,休業者)が確定され,第二に失業者(求職者)が算定され,その総和として労働力概念が形式的に規定されるにすぎない。労働力概念は曖昧な概念であり,換言すると「仕事を求めて労働市場で圧力となる者の総数」にすぎない。他の仕事に圧力にならなければ,仕事をしていなく,支払いを受けていない者でも,就業者とされる。また,他の仕事を見つけようとする者のみが失業者に分類されることになっている。

 結局,労働力概念の独自の実態的規定はない。それは就業者,失業者の総和としての受動的概念である。労働力調査方式そのものが,一時点の就業・不就業活動の形式的,機能的測定方法であり,労働力概念とそれを構成する就業者,失業者,残差としての非労働力概念は,その歴史的社会的規定性を欠いていたというのが筆者の認識である。