岩井浩「合衆国における労働力統計の確立について-「調査表」と雇用状態の規定-」『経済論集』(関西大学)第40巻第2号,1990年7月(『労働力・雇用・失業統計の国際的展開』梓出版社,1992年)
筆者に本稿が出た直後,抜刷をいただいた。この論文は,筆者の『労働力・雇用・失業統計の国際的展開』(梓出版社,1992年)に第4章第1節として収められている(ただし,抜刷の最後段C.D.Long,Bancroftの見解の紹介は削除されている)。本稿の課題は,筆者の叙述によれば,1930年代後半の失業調査,失業センサス,1940年代合衆国センサス,1940年3月から開始された労働力月例報告を対象に,その調査表と雇用状態の規定を中心にした合衆国における労働力統計の確立事情の考察である。
節建ては以下のとおり。「1.失業救済と労働力方式の形成」「2.1940年合衆国センサスと労働力方式の確立」「3.労働力月例報告」。
以下,内容(歴史的背景をふまえ,労働力調査の確立過程)の要約である。世界恐慌の最中の
1930年,アメリカの最初の失業センサス(第15回合衆国センサス)が実施された。公表された調査結果は多方面からの批判を受けた。それは有業者方式による失業調査の限界をつくものであった。
当時,アメリカには,失業対策を講じる2つの機関があり,一つはFERA(連邦緊急救済局)であり,もう一つはWPA(雇用促進局)であった。前者は1933年3月に成立したルーズベルト政権によって制定された「連邦緊急救済法」のもとに設立され,連邦失業基金を配分する機関である。後者は1935年の「緊急救済支出法」によって設立され,雇用創出を目的に活動したニューディール政策の雇用政策を実施する機関である。FERAとWPAの両者は協力して,1933-35年にかけて州,市レベルの失業調査と救済家族の諸形態の研究を進め,救済基金をもとに市救済局をつうじ各州,各市の調査統計部をした州,市レベルの失業調査を実施させた。これらのニューディール期のWPAによる失業救済受給者の調査および失業調査,連邦,州,市の失業調査の試行,経験から有業者方式の再検討,労働者方式の基本概念と方法が形成され失業調査表の設計・運用が試みられた。
1930年代後半になると,WPAのスタッフは失業救済行政の資料として地方失業調査を実施し,労働力調査方式の技術と方法を発展させ(1937年失業センサスなど),1940年3月から失業標本調査を行い,失業月例報告を公表した。またセンサス局はこれらを吟味,総括し,1940年実施の第16回合衆国センサスで労働力調査方式を全面的に採用し,労働力方式の雇用状態に関する調査の理論と方法を確立した。
その後,第二次大戦のなか,ニューディール政策の終焉とともにWPAは廃止され(1942年),失業月例調査の主体はセンサス局に移行し,1943年10月より労働力月例報告として実施され,その後幾多の変遷を経て現在にいたるまで踏襲されている。背後に失業救済政策から完全雇用政策への転換があった。
筆者は以上の内容を,WPAの失業救済政策との関係で,失業救済希望者への雇用救済基準の適用性,その適性可能性[就業者と失業者]の吟味,「雇用可能者」の対象認定を紹介,検討し,次いで1937年失業センサスにおける「失業報告カード」の「失業登録チェック・センサス」の概要説明(失業調査で指導的役割を果たしたJ.N.Webbの調査表にはまだ労働力概念は使用されていなかった,とのことである),WPA失業調査(1937-39年)の基本的考え方[労働力方式の基本的概念と同一の立場]と失業調査表の内容[調査票の運用の成果が「失業月例報告」の調査表に結実]を詳しく解説している。さらに1940年センサスの紹介では,その特徴(主要な点は,調査表への雇用と所得の質問事項の挿入と標本調査法の導入)とともに,このセンサスがそれまでのWPAを中心にした多くの失業救済調査および失業調査,地方失業センサスの経験のなかで培われて形成されたこと,労働力概念,労働力方式が初めて採用されたことが考察されている。その後,WPAが廃止され,労働力月例報告の作成は,センサス局に移管され,理論,概念,調査表の検討が繰り返し行われたと言う。
もっともこの労働力方式に対しては,若干の批判的見解がある。C.D.Longによれば,WPAの失業救済政策との関係で形成された労働力方式,労働力概念は,求職基準(求職テスト)を前提とした統計的測定法であり,調査の回答者の「雇用可能性」(働く意志,働く能力,かつ求職活動)そのものが経済的諸条件によって左右されることを無視している。それゆえに,Longは限界雇用可能性=隠された失業,パートタイム失業,縁辺労働力(労働者)の測定が重要であるとしている。
またBancroftによれば,労働力概念は「副産物」概念にすぎない。第一に就業者(従業者,休業者)が確定され,第二に失業者(求職者)が算定され,その総和として労働力概念が形式的に規定されるにすぎない。労働力概念は曖昧な概念であり,換言すると「仕事を求めて労働市場で圧力となる者の総数」にすぎない。他の仕事に圧力にならなければ,仕事をしていなく,支払いを受けていない者でも,就業者とされる。また,他の仕事を見つけようとする者のみが失業者に分類されることになっている。
結局,労働力概念の独自の実態的規定はない。それは就業者,失業者の総和としての受動的概念である。労働力調査方式そのものが,一時点の就業・不就業活動の形式的,機能的測定方法であり,労働力概念とそれを構成する就業者,失業者,残差としての非労働力概念は,その歴史的社会的規定性を欠いていたというのが筆者の認識である。
筆者に本稿が出た直後,抜刷をいただいた。この論文は,筆者の『労働力・雇用・失業統計の国際的展開』(梓出版社,1992年)に第4章第1節として収められている(ただし,抜刷の最後段C.D.Long,Bancroftの見解の紹介は削除されている)。本稿の課題は,筆者の叙述によれば,1930年代後半の失業調査,失業センサス,1940年代合衆国センサス,1940年3月から開始された労働力月例報告を対象に,その調査表と雇用状態の規定を中心にした合衆国における労働力統計の確立事情の考察である。
節建ては以下のとおり。「1.失業救済と労働力方式の形成」「2.1940年合衆国センサスと労働力方式の確立」「3.労働力月例報告」。
以下,内容(歴史的背景をふまえ,労働力調査の確立過程)の要約である。世界恐慌の最中の
1930年,アメリカの最初の失業センサス(第15回合衆国センサス)が実施された。公表された調査結果は多方面からの批判を受けた。それは有業者方式による失業調査の限界をつくものであった。
当時,アメリカには,失業対策を講じる2つの機関があり,一つはFERA(連邦緊急救済局)であり,もう一つはWPA(雇用促進局)であった。前者は1933年3月に成立したルーズベルト政権によって制定された「連邦緊急救済法」のもとに設立され,連邦失業基金を配分する機関である。後者は1935年の「緊急救済支出法」によって設立され,雇用創出を目的に活動したニューディール政策の雇用政策を実施する機関である。FERAとWPAの両者は協力して,1933-35年にかけて州,市レベルの失業調査と救済家族の諸形態の研究を進め,救済基金をもとに市救済局をつうじ各州,各市の調査統計部をした州,市レベルの失業調査を実施させた。これらのニューディール期のWPAによる失業救済受給者の調査および失業調査,連邦,州,市の失業調査の試行,経験から有業者方式の再検討,労働者方式の基本概念と方法が形成され失業調査表の設計・運用が試みられた。
1930年代後半になると,WPAのスタッフは失業救済行政の資料として地方失業調査を実施し,労働力調査方式の技術と方法を発展させ(1937年失業センサスなど),1940年3月から失業標本調査を行い,失業月例報告を公表した。またセンサス局はこれらを吟味,総括し,1940年実施の第16回合衆国センサスで労働力調査方式を全面的に採用し,労働力方式の雇用状態に関する調査の理論と方法を確立した。
その後,第二次大戦のなか,ニューディール政策の終焉とともにWPAは廃止され(1942年),失業月例調査の主体はセンサス局に移行し,1943年10月より労働力月例報告として実施され,その後幾多の変遷を経て現在にいたるまで踏襲されている。背後に失業救済政策から完全雇用政策への転換があった。
筆者は以上の内容を,WPAの失業救済政策との関係で,失業救済希望者への雇用救済基準の適用性,その適性可能性[就業者と失業者]の吟味,「雇用可能者」の対象認定を紹介,検討し,次いで1937年失業センサスにおける「失業報告カード」の「失業登録チェック・センサス」の概要説明(失業調査で指導的役割を果たしたJ.N.Webbの調査表にはまだ労働力概念は使用されていなかった,とのことである),WPA失業調査(1937-39年)の基本的考え方[労働力方式の基本的概念と同一の立場]と失業調査表の内容[調査票の運用の成果が「失業月例報告」の調査表に結実]を詳しく解説している。さらに1940年センサスの紹介では,その特徴(主要な点は,調査表への雇用と所得の質問事項の挿入と標本調査法の導入)とともに,このセンサスがそれまでのWPAを中心にした多くの失業救済調査および失業調査,地方失業センサスの経験のなかで培われて形成されたこと,労働力概念,労働力方式が初めて採用されたことが考察されている。その後,WPAが廃止され,労働力月例報告の作成は,センサス局に移管され,理論,概念,調査表の検討が繰り返し行われたと言う。
もっともこの労働力方式に対しては,若干の批判的見解がある。C.D.Longによれば,WPAの失業救済政策との関係で形成された労働力方式,労働力概念は,求職基準(求職テスト)を前提とした統計的測定法であり,調査の回答者の「雇用可能性」(働く意志,働く能力,かつ求職活動)そのものが経済的諸条件によって左右されることを無視している。それゆえに,Longは限界雇用可能性=隠された失業,パートタイム失業,縁辺労働力(労働者)の測定が重要であるとしている。
またBancroftによれば,労働力概念は「副産物」概念にすぎない。第一に就業者(従業者,休業者)が確定され,第二に失業者(求職者)が算定され,その総和として労働力概念が形式的に規定されるにすぎない。労働力概念は曖昧な概念であり,換言すると「仕事を求めて労働市場で圧力となる者の総数」にすぎない。他の仕事に圧力にならなければ,仕事をしていなく,支払いを受けていない者でも,就業者とされる。また,他の仕事を見つけようとする者のみが失業者に分類されることになっている。
結局,労働力概念の独自の実態的規定はない。それは就業者,失業者の総和としての受動的概念である。労働力調査方式そのものが,一時点の就業・不就業活動の形式的,機能的測定方法であり,労働力概念とそれを構成する就業者,失業者,残差としての非労働力概念は,その歴史的社会的規定性を欠いていたというのが筆者の認識である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます