社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

木村太郎「収穫高統計の史的発展」『改訂 統計・統計方法・統計学』産業統計研究社,1992年

2016-10-09 17:52:13 | 6.社会経済統計の対象・方法・課題
木村太郎「収穫高統計の史的発展」『改訂 統計・統計方法・統計学』産業統計研究社,1992年

 統計あるいは近代統計学は,資本主義社会の成立と踵を接して登場した。それ以前の封建社会の下で統計的記録が全く存在しなかったわけではない。封建領主が残した土地台帳,小作帳,収穫帳,領主の財産目録がそれである。しかし,それらが近代的な統計と異なるのは,封建的土地所有の枠組みによる制約を受けていることである。すなわちそれらの記録は土地所有者を対象とし,人間,財産,生産物は土地を単位としてしか数えられなかった。筆者は,このような記録の仕方を土地単位主義と呼ぶ。

 土地単位主義は,その時代における統計的考え方を支配していた。その現れを筆者は,封建末期の17世紀にドイツで開花した国状記述論派に属する人たちの統計学にみる。彼らは形式的に統一されたドイツ国家を理念的に描きながらも,そこに強固に残存する封建的土地所有や領主制に規制され,封建的所領や封建的国家を単位とする表を構成することをもって統計学と考えた。近代的な統計や統計に関する諸概念は,こうした封建的土地所有や領主制がくずれ,人間,財産,生産物が個人のレベルで把握され,その集団として国家や社会が考えられるようになった時に,その基礎を形成する。

 封建制下の領主や王侯にとって,収穫高は最大の関心事であった。それらの資料による把握は,上述の制約があったものの,かなり正確に行われた。しかし,これらの記録は,それがよってたつ封建的土地所有そのものの解体によって崩壊した。代わって登場した絶対主義王政のもとでは,その直接的財源としての租税の徴収が必要となり,崩壊した領地の記録の整理や人民や耕地を補足するための調査が頻繁に行われた。だが,絶対王政の下での統計調査は歴史的限界をもち,成功した調査は存在しなかったと言って過言でない。ただ,その努力はドイツでは形式的には国状記述や表式統計学として,またイギリスでは市民的な基礎の上に試みられた政治算術派の「推算」として学問的開花をみた。

 イギリスの政治算術派は租税の基礎を,人間を単位として計算し,把握しようとした。この点に,この学派が担った近代的統計概念への橋渡しの役割がある。しかし,彼らは人口のみに関心があり,収穫高に関する業績はないに等しい。フランスでは,収穫高に関する記録は,14-15世紀まで維持されたが,16-17世紀には社会的政治的混乱のなかで機能を失い,その後,古い台帳の整理,書き換えが施行された時期もあったが成功しなかった。絶対王政のもとでの最初の収穫高推定はルイ14世治下,ヴォーバンによってなされた(その結果は信用に値する代物ではなかった)。その後,収穫高推計に関する本格的研究は,ラヴォアジエ(有名な化学者)によって実施された。ウェスタガードはこの研究について,収穫高,耕地面積の推算が大胆な仮説のもとでの単純な方法によるものであったが,その結果が後世の統計からみて合理的な面をもっていた,と評価している。

 封建制および絶対主義王政のもとでの収穫高統計はもっぱら封建地代,あるいは租税徴収の目的があって作成された。資本主義国家のもとでは,農産物の供給事情の把握が目的となる。このため収穫高統計は少なくとも一年に一回は実施され,しかも迅速にその結果がわかるものでなければならない。くわえて,それは農家の社会的生産物としてよりはむしろ特定作物の総量の把握が必要であり,財政負担が安上がりであることが要請された。その結果,収穫高統計は全部調査である農業経営統計と分離し,作況統計として発展していくことになる。

 以下,筆者はフランス,ドイツ,イギリス,アメリカにおける収穫高統計発展の概略を紹介,解説している。フランスでは,収穫高統計が世界に先駆け1834年に着手され,6年間を費やして40年に発表された。それは表式調査で,属地主義的な調査であったが,最初の全国的な近代統計調査として画期的なものであった。しかし,初期の調査は不完全であり,多少なりとも信頼できる調査は1862年調査からである。以後,調査は10年おきに実施されたが,これでは間隔があきすぎ需要にたえるものでなく,全数調査によらない別の推計方式による調査(通信員による情報の蒐集を基礎とする調査)が提案された。いずれにしても,フランスでは1870年前後から通常の統計と分離した独立の通信機構を通じた年統計が作成されるようになった。

 ドイツの収穫高統計は,1877年から毎年,実施された。収穫高統計は一般に,作況調査的な対地的方法をとって発展する傾向がある。しかし,ドイツにおける作況調査は,悉皆的農業調査の実施なしに行われた。ここにドイツにおけるこの種の統計の特徴がある。収穫高統計作成の要請が高かったフランス(他にイギリス,アメリカ)などでは,政府統計として農業経営を単位とする全部的統計調査が先行実施され,それにもとづく耕地あるいは作付面積といった統計から作況調査が行われた。これに対し,ドイツでは農業経営を基礎とする耕地面積統計すら存在しないまま,作柄やヘクタール当たりの収量のみが調査された。ドイツにおける最初の全部的な農業経営調査は,1882年に実施されたが,収穫高に関してはこの調査でも,95年調査でも触れられず,1907年調査まで待つことになる。筆者はその歴史的背景として,1850年以降のドイツ農業の急速な分解と独占資本の発展のもとでの都市労働者階級の成長にみている。

 イギリスでは,近代的農業統計の発足はフランスより遅れた。最初の農業統計の調査は,1855年のスコットランドの「ハイランド農会」(ブルジョア的農業経営団体)が主導したものである。この調査は明確に農業経営を対象とし,家畜頭数,耕地および草原面積,農作物の種類,平均生産額などの諸項目にわたり,近代的調査の意識が明確であった。7年間継続実施され,対象農家は協力的であった。政府が実施した農業調査は,1866年のものが最初である。これは農業経営者を対象とした全国的悉皆調査であるが,調査項目は農用地面積,主要作物作付面積,飼育家畜頭数などに限定され,収穫高あるいは面積当たり収量は経営内容に触れるとして除外された(経営内容不可侵の原則)。収穫高統計の基本的要素である作付面積に関しては,1866年以降,毎年推計された。この頻度は,イギリス独自のものである。また収穫高統計は,作況報告組織(1884年発足)の作物報告員の予測するエーカー当たり収量に,上記の作付面積を乗じて算出された。

 最後にアメリカの状況である。アメリカのセンサス(第1回は1790年)で農業が調査(家畜頭数,各種作物の生産額)されたのは,1840年である。農産物市場の拡大にともなう農産物の価格変動の要因である作況に関する情報を要求する農民の側からの世論におされてのことであった。しかし,その中身は信頼性に欠け,その発展は担ったのはむしろ民間人であった。すなわち,「メアリランド」農事協会会長は1855年に,各州の農事協会に農作物に関する資料蒐集の必要性を呼びかけ,自らメアリランド在住の個人や農会に調査用紙を公布して作況を報告させた。他にも,American Agriculturistの主筆であったオレンジ・ジャドという人物が1862年に,同誌の読者から作物の出来高に関する情報を月ごとに集め,その結果を発表した。政府による作況報告は,1863年のものが最初である。以後,この調査は収穫高統計に発展し,作況調査としてセンサスにおけるそれと併行して,毎年作成されるようになる。以後,作況統計調査的統計の発展は,推計技術の追求を主導に進む。

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