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益満 休之助27年の人生はドーダったのだろう

2019年04月16日 | 本と雑誌
 
この記事は『ドーダの人、西郷隆盛』 のコメントです。
 
益満 休之助27年の人生は、どんなだったのだろう。
遠い昔の大河ドラマでもなんどか見た記憶があるものの
イメージとしては密偵 工作員といったものしか浮かばない。
益満 休之助の生地鹿児島の高麗町は、西郷や大久保の生まれた加治屋町とは
甲突川を隔てて隣町になる。甲突川にかかる高見橋や南州橋(人道)周辺は鹿児島中央駅から歩いても散策できる。
生年は
益満(1841年)
西郷(1828年)だから
西郷より13歳年下。
幼いころから知る西郷に対する益満の尊崇の念はいかばりであったろうか。
慶喜の大政奉還で、武力倒幕の大義名分を失った薩摩藩(西郷、大久保ら)。
密偵工作が得意の西郷は、益満と同郷の伊牟田尚平(1832年生 喜界島(奄美大島のとなり)遠島の経験がある)を江戸に派遣し、相楽総三(1839年生 江戸)が中心となって、薩摩藩邸を拠点とし、浪士たちを指揮して江戸の街に火つけ強盗などの撹乱工作にあたらせ旧幕府方を刺激する。
そして江戸城二の丸放火におよぶと、旧幕府方の怒りが爆発。庄内藩(のちの東北戦争の敗北で西郷の寛大な処置に感銘し『南洲翁遺訓』をまとめる)と旧幕府軍による江戸薩摩藩邸の焼討事件に発展し、これが鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の引き金となり、ついには明治維新にいたった、などとよく説かれる。
益満は、薩摩藩邸焼き討ち事件で旧幕府方に捕らえられるが、あの勝海舟に助命され、勝家に保護される。そして江戸城開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉にあたる山岡鉄太郎の護衛役として駿府に同行している。
益満の印象は、わき役のわき役といったところだが歴史上重大な場面で、その役目を果たしている。
しかし、益満も伊牟田も相楽総三(赤報隊 偽官軍 年貢半減などで検索してね)3名とも不審な死を遂げる。
益満は上野戦争(旧幕府軍彰義隊なと薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の戦い)で流れ弾にあたって死んだ、といわれるが、後ろから撃たれともいわれる(典拠不明)。
しかし、最近の研究では西郷が益満らを江戸に派遣したのは、
討幕の密勅(慶応3年10月14日
大政奉還(慶応3年10月14日、翌15日に朝廷が受理)
という流れの中で、西郷の益満らに対する指示は9月の段階のことで、
大政奉還後は、「撹乱工作見合わせ」を益満と伊牟田に指示していたともいわれる。(吉井幸輔書簡 蓑田傳兵衛宛の西郷書簡などで検索)
つまり現場の暴発ということだろう。歴史上よくあることだ(満州事変 関東軍の暴発)。
ネットなどない時代、この指示はどのように伝わったのだろうか。
秘密工作なので、記録に残ることもないだろう。このあたりは歴史家よりも作家の登場が望まれる。
想像力の働かせどころだ。
益満が西郷の意の奥の奥を忖度したのかもしれない。あるいは勝は、なぜ益満を助命、保護し、山岡につけたのだろうか。
(山岡鉄舟も西郷とよく似たタイプだ)
まだ読んでいないが『西郷を破滅させた男 益満休之助 』河出書房新社 (2018/10/20)
という本もある。
西郷の陽から陰への転換点(大河ドラマでは実弟で西郷従道の兄の吉次郎を戊辰戦争で失ったあたりだったように描かれていたと思う)
余談だが、吉次郎は江戸出府が多い兄隆盛に代わり西郷家の家政を取り仕切っていたという。
また沖永良部島流刑も大変な難儀をかけ、隆盛は常に「自分が国家のために、聊かご奉公ができたのは、吉二郎が自分に代わって兄たる責務を果たしてくれたからの事で、自分は年齢の上からの兄で、実際の兄は吉二郎だ」と述懐していたという。wikipedia
益満休之助の27歳の生涯。どんな人物だったのだろうか。短い生涯で謎も多い彼に対する評価によっては西郷隆盛のイメージにも少なからず影響を与えそうだ。
関東攪乱が、益満らの暴発だとする本は、まで読んではいない。

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