『パウロ 愛と赦しの物語』Paul, Apostle of Christ)、2018年のアメリカ合衆国の伝記映画。
『パウロ 愛と赦しの物語』──わかりにくいけれど、日本人の心にもそっと響く映画
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映画『パウロ 愛と赦しの物語』を、二度目に観た。
けれど、それでもやっぱり、すぐにはわかりづらいな……と正直思った。一度目の印象はだいぶ薄らいでいた。
パウロは、もともとは熱心なユダヤ教徒で、イエスの信徒たちを迫害していた人物だ。
そんな彼が、あるとき突然、回心してイエスを信じる者へと変わる。
「ダマスコ途上の回心」と呼ばれるこの劇的な出来事は、カラヴァッジョの『聖パウロの回心』(1601年)などにも描かれているし、聖書にも登場する。
天からの光に包まれ、地に倒れるパウロ。
そのとき、イエスの声が響く──「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」
ところが、この映画では、その劇的なシーンは直接は描かれない。
ほんの少しの回想とセリフで、そっと触れられるだけだ。
派手な展開はない。でも、静かな深さがある。
奇跡や派手なドラマ、あるいは歴史の勉強、を期待していると、ちょっと拍子抜けするかもしれない。
描かれるのは、老いて牢獄に囚われたパウロの晩年だ。
もはや自由もない、力もない。
それでも、彼の内面には、確かに揺るぎないものが宿っている。
若き医師ルカ、そしてローマ人看守マウリティウスとの静かな対話を通して、
「敵に復讐すべきか、それとも赦すべきか」という、重く深い問いが浮かび上がる。
史実であるローマ大火(西暦64年)と、それに続く皇帝ネロのキリスト教徒迫害を背景にしているが、
聖書本文にはネロの名は出てくるわけではない。
映画は、史実と聖書をうまく織り交ぜながら、静かなドラマとして描かれている。
でも、この映画に込められたテーマは、
実は私たち日本人の心にも、そっと寄り添ってくるものだと思う。
1. 「弱さの中にこそ力がある」
牢獄に閉じ込められ、老い、無力になったパウロ。
でも、その弱さの中にこそ、強い信仰の光が宿っている。
これは、日本人が大切にしてきた「滅びの美学」にも通じる。
『平家物語』にうたわれる、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というあの感覚。
さらに、「枯木も山のにぎわい」ということわざも思い出される。
力を失っても、そこに存在するだけで、意味があるのだ。
2. 「死を超えて生きる」
パウロは言う。
「生きるとはキリスト、死ぬことは益である」
彼にとって、生きることも死ぬことも、すべてイエスへの信仰に繋がっている。
開始1時間19分頃、囚人がルカに「わたしはあなたを知っている」というあたりから、この映画の核心部だと思う。
この生き方は、どこか日本の「武士道」とも重なる。
「武士は食わねど高楊枝」、
あるいは「死して屍拾う者なし」という、命を懸けた覚悟。
普通は「命あっての物種」と言うけれど、
パウロはむしろ「命を捨ててこそ本当に生きる」と考えているのだ。
3. 「赦す」という超越的な力
そして、この映画の一番大きなテーマは「赦し」だと思う。
敵を憎まず、復讐せず、赦すこと。
これは、キリスト教独特の教えだけれど、
日本にも「怨みに報ゆるに徳を以てす」(『論語』)という言葉があるし、
「水に流す」という慣用句もある。
争いや恨みを、乗り越えていく知恵。
そこには、静かで深い共感がある。
これらは、遠い昔のローマ帝国の話でありながら、
日本人の中にも、静かに息づいているものだろう。