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映画『HOKUSAI』 2021年5月公開 

2025年09月03日 | 映画

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映画『HOKUSAI』 2021年5月公開 
画家の伝記映画は好んで見ている。

本作は日本での評価もさほど高いとはいえない。少し以外。
面白くなりそうで、なかなかならない。
批評家向けと一般向け(万人受けとはちょっと違う)の中道を狙った結果、どちらにも深く届かない印象。
でも、構成をピリッとしたらいい線いったとおもう。画家の伝記は好きなのだ。

 

喜多川歌麿玉木宏)や東洲斎写楽浦上晟周)らとの交錯、版元蔦屋重三郎阿部寛)の目利き、幕府による表現規制(寛政・天保の改革)を背景、などが醸し出すワクワクもあった。

柳楽優弥(青年期)、田中泯(たな・みん)(老年期)。反論もあろうが、二人一役も構成上裏目に出てしまった思う。

 

映画では柳亭種彦北斎の関係に劇的演出を加えていますが、歴史的事実として接点はあるがそれは一般的な文化人同士の交流の域というのが一般的な見方でしょう。

柳亭種彦のストリー上の重用は、種彦の知名度としても違和感が拭えない。この構成もHokusaiの反骨精神を薄めてしまったと思う。北斎は権力の圧力に正面から対峙しなかたと印象を強める効果だけが浮き出てしまった感。芸術家・絵師の生涯と権力との対峙の表現は意外と難しいものだとおもう。

どっちつかずの構成が、せっかくのHokusaiの人生を”分断”してしまいメッセージ性を弱めてしまったのではないか。そういう意味でのみどころは、ありすぎるほどあった。

ーーーー

ここからはまったっくの余談だが、Hokusai老年期の初期の田中泯の顔が田中一村そっくりでした。

 

で、映画のラストの肝。

のこり24:56頃

種彦「先生は絵のためすべてを捨てられますか?」
中略
Hokusai「いつかは、いつかは人に指図されねえで生きていける世の中がくる。
「生きているうちにそんな世の中が見てえ」「俺は俺ができることをやるだけだ」

北斎、直接の弾圧に身を投じずとも、徹底して庶民の目線に立った絵を描き続けることで、幕府が奨励する「秩序ある美」とは異なる世界を提示した。

日本画の枠から離れ、奄美大島などで独自に自然を描く道を歩んだ日本画家の田中一村
奄美大島で紬の染色工として働き、一切の外的制約から解放され、描くことだけに専念できる環境を自ら作り上げ、晩年わずか数年ではあるが「孤高の完成期」をみて、表現者としての彼自身の「理想郷」を得た一村と比べてみた。


北斎

勝川派破門 → 読本挿絵 → 浮世絵風景 → 春画 → 肉筆画…と変幻自在。

権力や画壇の枠を避けながら、常に庶民や市場と関わり続けた。

晩年も「富嶽百景」「富嶽三十六景」を経て、90で死ぬまで「あと10年あれば…」と飽くなき探求を口にした。

「孤高」というより常に外界と関わりながら変化した末に、ようやく“自由”を口にできた。


映画『戦と乱』2024年製作 128分 韓国

2025年09月01日 | 映画

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『戦と乱』2024年製作 128分 韓国
原題または英題:Uprising
配信:Netflix 2024年10月11日


英題のUprisingの意味は(蜂起)
舞台は壬辰倭乱(1592〜豊臣秀吉の朝鮮侵攻)。朝鮮出兵、朝鮮侵略とも)

主人公は奴婢のチョンヨン(カン・ドンウォン)と両班の息子ジョンニョ(パク・ジョンミン)。幼少期から剣術を学び、試験の代わりに身分を超えた友情を持つ2人・・・。身分違いの幼馴染の人生を描くとあって、面白そうだと、見始めたがこまぎれ視聴で
途中からなにがなんだかわからい剣戟戦。アクション映画だ。

製作者側の狙いは、豪華キャストと大規模な剣戟シーンで国際市場に通用する娯楽性を打ち出すことだったようだ。

実際、迫力ある合戦映像や(人気スターらしい)カン・ドンウォンの存在感を高評価する声も少なくない。

 

だが一方で、物語は整理不足で筋が見えにくく、歴史や社会の意味づけも浅いため「稚拙」との批判も多い(私の鑑賞態度だけが原因ではなかった)。

韓国映画が本来得意とする社会性を欠いた結果、日本映画的な俳優依存の凡庸さに近づいた、そこに本作の評価の分かれ目があるだろう。


映画『ドキュメンタリー沖縄戦』 知られざる悲しみの記憶 2020年 監督 太田隆文

2025年08月29日 | 映画

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映画『ドキュメンタリー沖縄戦』 知られざる悲しみの記憶

2019年製作 105分 日本
劇場公開日:2020年7月25日
監督 太田隆文

映画『沖縄狂想曲』2024年 太田隆文同様、評価は高い。

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感想 沖縄戦の記憶から現代日本への教訓

――「米兵は優しかった」の意味をどう受けとめるか

 2020年に公開されたドキュメンタリー映画沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』

体験者の証言を通じて、沖縄戦の悲惨さを私たちに突きつける。住民の3人に1人が犠牲となったこの戦いでは、

「軍は住民を守らなかった、だからひどい。米兵は優しかった」という証言も数多く残されている。確かに軍による住民軽視、集団自決の強要(強制死)などの惨劇は、旧日本軍の大きな責任だ。
しかし「米兵が優しかった」という事実をそのまま美化してよいのでしょうか。

 冷静に見れば、米兵が余裕を持って振る舞えたのは、圧倒的な経済力と軍事力の差が背景にあったからだろう。大量の物資を抱えた側だからこそ、飴やチョコを分け与えることができただ。
もし日米の国力が逆転していたら、日本兵も同じように「やさしく」できたかもしれないのだ。つまり、この「やさしさ」は人間性の差ではなく、構造的な余裕(国力)の差から生まれたものだったのと言えるだろう。

 では、この事実から何を学ぶべきか。
第一に、自衛力の実効性を確保することです。二度と圧倒的格差に押しつぶされないよう、最新技術やサイバー防衛、宇宙領域など新しい脅威に対応できる体制を築かなければなりません。ただし軍拡競争に陥るのではなく、相手の侵攻を思いとどまらせる「抑止力」として設計することだ。軍事力の格差は思わぬ事態をまねきかねない。

 第二に、外交の多角化。かつての日本は国際的に孤立し、最後には開戦以外の選択肢を失った。
現代日本は日米同盟を基軸としつつ、東南アジアやインド、欧州との協力を深め、多国間の安全保障ネットワークを広げるべき。また、対立国との「対話チャンネル」を常に確保する努力も欠かせない。

 第三に、映画でも強調されていたが、国民への情報公開と議論の深化。
沖縄戦の時代、国民は「勝っている」という虚報を信じさせられ、実際の戦況を知らぬまま戦争に巻き込まれました。現代では、防衛や外交政策をめぐって政府が透明性を保ち、市民が主体的に議論に参加できる環境を整えることが不可欠。「お上に任せる」態度ではなく、一人ひとりが判断主体となることが、民主主義の最大の防波堤だ。

 沖縄戦の悲劇が語りかけるのは、力の格差が人間性すら左右するという冷厳な現実です。米兵が優しかったのは、彼らに余裕があったから。だからこそ、現代の日本は同じ轍を踏まないために、自衛・外交・国民参加の三本柱を揃えなければならない。

戦争を止められなかった過去を繰り返さないために。


その2 映画『沖縄狂想曲』2024年 太田隆文

2025年08月26日 | 映画

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その2 映画『沖縄狂想曲』2024年 太田隆文

『沖縄狂想曲』――戦後日本の矛盾が奏でる不協和音 太田隆文

鳩山由紀夫の弁明が映す「不作為の80年」

映画『沖縄狂想曲』(2024)は、沖縄の基地問題を描きながら、戦後日本の安全保障と政治の矛盾を浮き彫りにする。

中でも、鳩山由紀夫元首相が「最低でも県外」発言をめぐって語る弁明は象徴的だ。迷走の末に果たせなかった約束は、沖縄の失望を深めただけではない。むしろそれは、憲法9条と米軍依存のはざまで誰もが目をそらし続けてきた「不作為の80年」の縮図にほかならない。

 

迷走の末に果たせなかった約束は、沖縄の失望を深めただけではない。むしろそれは、憲法9条と米軍依存のはざまで誰もが目をそらし続けてきた「不作為の80年」の縮図にほかならない。「県外」にもっとも近い鹿児島県奄美大島にいる私はその考えの浅はかさに驚いたが、間もなくそれは立ち消えた。

2. 沖縄の犠牲は普遍か、異常か

歴史をひもとけば、国家が地方や異分子を犠牲にして中枢を守る構造は普遍的に見いだせる。調べてみると、ローマ帝国の属州、中国の※藩部、江戸幕府外様大名、冷戦下のフィンランド――「捨て石」とされた地域は数多い。

*1 中国の清朝が直轄領や朝貢国とは異なる形で統治したモンゴル、チベット、新疆(しんきょう)、青海などの地域を指す総称

 

琉球王国(薩摩支配以降)
江戸幕府薩摩藩を通じて琉球王国支配下に置き、 対清貿易(対清交易)の「窓口」として利用し、利益を搾取した。琉球王国は名目上の独立を保ちながらも、薩摩藩の武力による支配と財政的搾取に苦しめられ、日本の本土防衛のための存在として犠牲になった。

===

だが沖縄のケースは決定的に異なる。

1.80年にわたる恒久的犠牲

2.同じ国民を犠牲にしている

3.米国の利益のためという二重従属

 

この三重構造を持つ例は、世界史の中でもきわめて特異である。

確かに、日本が志願制で自衛隊を維持している点は米欧諸国と共通する。だが、自国領土を恒久的・無償で他国軍に提供している国は、日本がほぼ唯一だ。

徴兵制を採用している国は多く、主にイスラエル、韓国、スイス、北欧諸国(スウェーデンノルウェーフィンランドデンマーク)、東南アジア諸国シンガポール、タイ、マレーシア)、ロシア、北朝鮮ベトナム

そしてその負担の大半を沖縄に押し付けている。
にもかかわらず、与党は米国依存を深め、野党は「憲法死守」を掲げながら徴兵や防衛を論じることなく、政治全体が責任を回避してきた。


なぜこの映画は「狂騒曲」でも「協奏曲」でもなく、「狂想曲」と名づけられたのか。

「狂想曲(ラプソディー)」は自由奔放で激情的な音楽形式を指すが、
沖縄をめぐる現実は、協調の「協奏」ではなく、狂乱の「狂騒」でもない。思考を揺さぶり、観客の内面に複雑な不協和音を鳴らす「狂想曲」なのだ。


映画『沖縄狂想曲』が示すのは、

アメリカによる軍事的従属(制空権・地位協定)と、

日本の政治・経済エリートによる利権構造(セメント・振興予算・公共事業)

が二重に沖縄を縛っているという構図です。

___

沖縄の基地問題
アメリカ属国としての日本」 vs 「沖縄住民」 という構造が本質。

SNSの片隅で人は派閥に分かれ、指先の論争に明け暮れ、政治家は利権に群がり続ける。そうして泰平の眠りが続く間に、次なる「黒船」は必ず現れる。だが、それはもはやペリーでもマッカーサーでもない。微笑みを浮かべる紳士ではなく、冷徹に国益を計算し尽くす、・・・。

*1:藩部


ドキュメンタリー『沖縄狂想曲』2024年 太田隆文監督

2025年08月23日 | 映画

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映画『沖縄狂想曲』2024年

 

『沖縄狂想曲』2024年 太田隆文監督

 劇場公開日:2024年2月3日

===

ドキュメンタリー映画『沖縄狂想曲』われるテーマ・問題群をできるだけ網羅する。

 歴史的背景

 

沖縄戦惨禍(住民犠牲、「捨石」政策)

 

1955年・由美子ちゃん事件(米兵による幼女暴行殺害)

 

1970年・コザ騒動(コザ蜂起)(米軍支配差別する住民蜂起)

 

② 米軍基地・軍事問題

 

辺野古新基地建設問題

 

普天間基地危険性(「世界一危険基地」ばれる立地)

 

オスプレイ配備問題(墜落事故・騒音・欠陥機体)

 

米軍ヘリ墜落事故(沖縄国際大学など)

 

日米地位協定不平等性(米兵犯罪裁判権問題、環境規制ばなさ)

 

制空権喪失(沖縄上空航空管制権米軍られけている現実)

 

③ 政治・経済構造

 

セメント利権(基地建設公共事業ゼネコン・政治家利権構造)

 

建設業界中央政界癒着(国会議員・県内政治家名証む)

 

「沖縄振興予算」基地政策取引関係

 

「基地経済えている」という言説実態検証

 

④ 社会問題・人権

 

米兵による事件・事故住民被害

 

沖縄する差別的言説・構造(「沖縄えている」など)

 

住民生活・教育・安全への影響

 

⑤ メディア情報統制

 

大手マスメディア沈黙・矮小化(基地問題・利権構造十分えない)

 

情報り(政府・防衛省主張優位流布され、住民される)

 

記者クラブ制度権力との癒着

 

⑥ 政治家・言論人発言

 

大田昌秀・元知事証言

 

鳩山由紀夫・元首相「最低でも県外」発言真意

 

山本太郎れいわ)の国会追及シーン

 

沖縄県庁元幹部・元市長・学者らの証言

 

⑦ 国際的文脈

 

米国対外政策における沖縄の「軍事拠点」化

 

在日米軍構造的差別性(日本本土沖縄負担格差)

 

中国・台湾情勢口実にした米軍再編沖縄基地強化

 

つまり、この映画げているのは「沖縄過去現在基地問題だけではなく、

 

制空権支配(主権問題)

 

セメント・建設利権(経済構造)

 

マスメディア沈黙(情報統制)

といった“構造的沖縄っている仕組全体”だとえる。


映画『教皇選挙』原題: Conclave)2024年制作の米・英のミステリー映画

2025年08月19日 | 映画

映画『教皇選挙』予告篇

Wikipedia)監督 エドワード・ベルガー 脚本 ピーター・ストローハン 原作 ロバート・ハリス

『教皇選挙』(きょうこうせんきょ、原題: Conclave)は、2024年制作アメリカ合衆国・イギリスミステリー映画。


ドキュメンタリーにしては、重厚で美しいビジュアル。それに、名演技えられた非日常的で緊張感のあるストリーでくの批評家・観客好評映像・音響・撮影による緊迫感の演出も見所だ。

一方で宗教的、保守的視点からの批判もあり評価一枚岩ではないが宗教権力深層力作として、論争びつつも印象映画とおおむね好評

★印象的タイミングの現実との「シンクロ」(同時性類似性=描写正確さ)

映画公開数月後の2025年4月21日実際ローマ教皇フランシスコが88逝去。 ”まるで現実予見していたかのようなタイミング”現実シンクロする。

しかし現実との同時性」について、制作陣意図的予測したという発言はみあたらない。このさえてみると、描写のあまりのリアルさと脚色でドキュメンタリー?とまず「安心して」して視聴できるだろう。これは政治ミステリードラマなのだ。

☆映画一部枢機卿によって“参考資料”的視聴された(実際教皇視聴した可能性あり)ともいわれる。

儀式・舞台再現精密かつ映像芸術的。ただし、一部現実にはありない明白な脚色である点も押さえたい。

ベルガー監督言葉

インタビューでは「宗教批判特定政治キャンペーンではない。これは“人間権力の空白をどうめるか”という普遍的テーマいた」としている。

つまり、直接的政治的批判はしないが、もちろん寓話的解釈否定するものではない「世界的な政治の右傾化に対する警鐘」という読解は成立し得るが、それを製作者が唯一の解釈として提示しているわけではない、という位置づけになると思う。

 

★★★★★そこで、主人公コンクラーベ仕切ローレンス枢機卿の以下の説教は、この映画思想的な“芯”端的している部分だとうので一点だけ詳しく述べる 。

それは、まりの0時間36ごろから。

ローレンス枢機卿が用意された原稿を「つまらない」とって自分言葉でしゃべりだすシーンだ。

非常簡略化していうと確信罪」という逆説です

ローレンス枢機卿う「確信(conviction)である」という言葉は、一般的宗教イメージ(確信=信仰さ)とは真逆こえる。

は「確信すぎると、分断し、寛容さをわせる」と指摘する

ここには、信念イデオロギーの“純粋さ”がしばしば不寛容排除じ、共同体すという、現代社会じる批評がある。

リベラル的解釈

この台詞いた観客は、自然と「確信=硬直したイデオロギー」「寛容=リベラル態度」えやすい。

に説教のキリストでさえ最期には確信った」というくだりは挑発的で、信仰本質を“疑念らぎをえながらむこと”にしているようにみえる。

これは、伝統的カトリック的教義(確信・教条主義)よりも、リベラル神学対話的信仰親和的メッセージといえる

「寛容」からまり、「一個人一派他社支配してはならい」、「から教会への賜物とは『多様性』だとパウロった」、「教会は伝統ではなく、進歩する」(←他の枢機卿の言葉)など。

 

その説教黒人枢機卿ローレンス枢機卿説教大事なのは万人受け=てないこと」助言するシーンがあります。(そのの、ローレンス黒人枢機卿自身スキャンダルについての告白(告解)シーンせてえると、この映画予想外結末同様、非常示唆的だ。

黒人枢機卿の助言に、ローレンスがうなずいたで「確信罪」ける。つまりは「絶対しいとじる言葉」よりも「人々びつけるらかい言葉」重視しているのだ。

このれは、まさに不寛容な“確信”より、対話共感姿勢象徴している

まとめ

イエス自身が“確信喪失”経験したと解釈は、信仰を「らぎのみ」と見るリベラル的視点。

映画的には、「確信罪」という言葉は、現代政治における硬直したイデオロギー(ナショナリズム、宗教原理主義、排外主義)への警鐘ではないのか。

現実政治との接点としては、世界的右傾化、日本における保守的政党躍進などは、まさに「確信共同体分断する」事例つと、見ることもできる

(寓話としてだが)保守的家父長制的制度バチカン舞台リベラル価値(寛容、揺らぎの容認)くこと自体が、現代世界へのメッセージとなっている。前述したように、この映画は宗教批判特定政治キャンペーンではなく、この映画の主旨ではもちろんない。


映画『スケーターガール』(2021)Netflix 米・印

2025年08月18日 | 映画

スケーターガール(2021)―スポーツが変える村と社会の境界線

Netflix映画『スケーターガール』(2021)

インド農村部舞台に、スケートボード出会った少女が、自分人生価値観さぶっていく物語

主人公プリヤしい家庭まれ、学校にもえない。そんな彼女ロンドンからた(インド系)女性ジェシカれ、んだスケートボードどもたちの流行する。舗装のないスケートは、これまでざされていた世界一気げ、プリヤ自由む、という話。

物語にあるのは、インド社会根付いたジェンダー階級だ。少女男子じようにぶことすらされない環境で、プリヤ批判抑圧にさらされる。

この背景には、いまだに農村作用するカースト制度影響もある。インドでは1950憲法カーストによる差別廃止されたものの、農村部では結婚・職業・人間関係制約としてり、下層カーストや「不可触民(ダリット)」(かつては「不可触民(untouchables)とよばれた)への差別暴力報告されている。

教育職業へのアクセスられ、社会的格差再生産んでいるのだ。映画かれる「少女自由制限される構図」は、ジェンダーだけでなくカースト序列をも背景にしている。こうしたことは背景の具体的な実相は、普段ニュースを漫然と見ていただけではなかなか思いつかない。差別は表向きには撤廃されているのだ。

この物語構造は、インド映画『ラガーン』(2001)こさせる。『ラガーン』では、植民地政府重税された村人たちが、イギリス手段としてクリケットぶ。

このブログ 映画『ラガーン』2001インド 3時間43分 2023年02月21日 | 映画

外部からまれたスポーツが、村全体りや団結み、既存権力構造挑戦する。『スケーターガール』もまた、スケートボードというしい文化が、農村社会硬直した秩序風穴ける物語だ。両者はおどろくほど共通点がある。普遍性もみいだせる 。

ここから話はそれる。

★日本に明治期米国から導入され、学生野球プロ野球発展☆戦後復興期にプロ野球が国民娯楽として台頭し、社会の活力や一体感を象徴

米国ではラテンアメリカ日本からの選手流入文化的多様性げた☆黒人選手の大リーグ参が人種差別撤廃運動の象徴に、という歴史が想起される。

 

「スケーターガール」や「ラガーン」にも描かれるこの村対村」感覚は、日本甲子園野球にもじる。県代表として高校野球は、地域りを背負った存在であり、勝利結束める。

じように大相撲でも、力士出身地応援興行直結する。地方巡業地域力士をつなぎ、出身地背負姿は「村対村」競争興行的にも文化的にも成立させている。相撲国際的交流となる可能性があるのも、こうした地域性友好的競争性質ゆえだろう。(相撲は、スポーツとしての特殊性も逆説的に見逃せない要素だ)

『スケーターガール』は、やかな映像美と、どもたちの表情変化観客魅了する。いた大地スケートスピードは、プリヤざされた解放する象徴だ。それだけでも絵になるのだ。社会問題いながらも説教臭くなく、Rotten Tomatoes批評家93%、Filmarks平均3.7評価い。観客テーマえつつも、やかな感動希望ることができる。

さらに話はそれます。

Rotten Tomatoesロッテントマト)アメリカレビュー集積サイト。映画ドラマについて、世界中プロ批評家(Critics)一般ユーザー 評価をまとめて閲覧できる。

☆Rotten Tomatoesとは直訳「腐ったトマト」で、「拙演技った観客ったトマトなどの野菜類舞台げつける」ということに由来する。

レビュアー大多数がその映画推奨した」ものとして"fresh"(新鮮)、60%未満場合は "rotten"(腐敗)格付がなされる。

☆Filmarks(フィルマークス)は、国内最大級映画レビュー(コミ)映画情報サービスです。


結局のところ、この映画くのは「さな物語が、社会世界かす可能性」だ。カーストジェンダーといった硬直した社会のして、スポーツ競争同時解放をもたらす。村対村健全競争地域りをみ、びつける――それはインドだけでなく、日本世界各地じる普遍的テーマである。『スケーターガール』は、そのことをかに、そして力強作品となっている。


映画『一枚のハガキ』2011年 新藤兼人監督 

2025年08月15日 | 映画

新藤兼人と『一枚ハガキ』

戦後日本映画における新藤兼人の位置

新藤兼人(1912–2012)は、戦後日本映画史で、農村労働者、女性といった市井人々視点から戦争けた監督である。

黒澤明小林正樹(人間の条件など)権力構造上層部人物像までを射程に描いたのにし、新藤はあえて視野庶民日常から歴史大波つめた。

日本インディペンデント映画先駆者ともいわれる。

晩年(撮影当時98)遺作『一枚のハガキ』(2011)は、その作家性人生観集大成といえる。

物語は、戦地からびて帰還した農民と、った農婦交流を ”かに” く。

感謝と市井の視点で描く戦争の逆説。

軍隊序列学歴・出身地といった差異は、ここでは意味たない。戦争てなく庶民み、理不尽人生えてしまう——この逆説こそが新藤映画である。

新藤広島元豪農まれたが、戦後没落とともにしいらしを経験した。とはいえ、父母とふたりのや、地域人々、同僚えにまれ、その感謝記憶後年までる。

この背景は、映画『一枚ハガキ』深層にもれ、登場人物たちのう“もり”の源泉となっている。

新藤監督・脚本めた石内尋常高等小学校 花れども』(2008)にも、幼少期学友村人とのつながりをしむ視線色濃れ、戦争共同体みと、そのられたかにかれた。

さらに、島』(1960)られる“農家”視点——労働さ、自然との格闘、そして無言り——は、『一枚ハガキ』にもづいている。手、働背中、沈黙感情。新藤にとって、労働きることそのものであり、戦争はその日常破壊する存在だった。

映画『裸島』は、新藤兼人監督・脚本で1960年(昭和35年)公開。孤島自給自足生活う4家族葛藤を、台詞して、映像美追求することで傑作されるめたといわれる。

このブログでもいた 映画 『裸島 』 新藤兼人 (監督) 1960年

2011年06月07日 | 映画

この映画(一枚のハガキ)かれている、ふたりが天秤棒シーン映画『裸島 』にもある。

戦後映画史において、新藤政治的告発よりも生活ざしたまなざしで戦争いた稀有作家である。『一枚のはがき』は、反戦メッセージであると同時に、自分ててくれた共同体への鎮魂感謝の“人生手紙”でもあった。スクリーンるのは、歴史片隅いやられた人々姿だが、その沈黙こそが新藤兼人なのである。

農村出身自伝的背景

wikipedia自分とした家族、職業、地域、国家から世界問題総合的くことのできた、世界のない映画作家であった、と佐藤忠男は(新藤を)評価している。

小説家自伝的作品くことがいため郷里をよくくが、映画個人的表現ではないとえられてきたために監督郷里くことはなかった。新藤例外といわれる。

固定カメラは、茅葺の農家の前庭を正面から映している。デンとして動かない。そこで出征の祝いと遺骨返還の儀式が行われる。繰り返し行われる。前庭は戦争に通じているのだが戦場は描かれない。戦争の理不尽さや、それがもたらす家族の悲惨、苦悩を静かに映していく。しかし儀式は厳格であればあるほど、どこか滑稽に映る。それが繰り返されると、こんどは言うにいえない、笑うに笑えないおかしみさえにじんで、見るものの心にしみて、波となってせまってくる。

だからそう思うと、一部芝居がかったおおげさな演技や、庭先の決闘のシーンなどは、そのこと自体が深い意味をもっているこに気づく。


キャスト

豊川悦司 六平直政 大竹 しのぶ 柄本明 大杉漣 倍賞 美津子 津川雅彦


映画「デンデラ」(2011年)天願 大介監督

2025年08月12日 | 映画

映画「デンデラ」(2011年)は、佐藤友哉の同名小説を映画化。姥捨山伝説題材に、てられた老女たちが雪深山中びるという異色サバイバル・アクション作品です。キャスト · 浅丘ルリ· 倍賞美津子 · 山本陽子 · 草笛光子 · 山口果林 · 白川和子 他

「姥(うば)捨山伝説」いた「楢山節考」(1983)られる故今村昌平監督息子である天願大介監督作品とは、らずにた。

 

のっけから級、級転落をれるいがつのる。

しかし、雪山映像さにかれて最後までみた。

 

『デンデラ』舞台は、てられた老女たちがびる雪山。南国まれちのには、雪山しさも、姥(うば)捨山伝説実相想像しにくいのだが・・・。

 

雪原と、老女たちの粗末黒装束強烈コントラストが、まるでモノクロ写真のようにくっきりと画面る。

カットごとにダイナミック構図てる。これは見事だった。様式美というのだろう。

カメラ横移動きの長回多用し、平面都市道路のような幾何学的構図む。

にその景色は、大都会俯瞰映像のように錯覚させる。

 

そして、静寂雪景色突如現れる人影・・。この動」が、物語緊張感める。 ヨーロッパ映画監督から評価ている溝口健二監督映像美につながるものを。。

 

「自然」と「人間」画面構成均等うあたりが溝口的だ。映像面では、Bなどではありえない。

 

そうってみると、物語テーマ現在にもじる社会派ドラマとしての性格ってがってくるのだ。時ににんまりとさせられる老女たちのそぼくな人生懐古セリフひとつつも哲学性びる・・、という具合だ。級感にとらわれていては見逃してしまう。

 

天願 大介(てんがん だいすけ、本名:今村 大介、1959年12月-は、日本脚本家、映画監督。

「テンデラ」は、鬼才・天願大介監督した異色作だ。

 

今村昌平天願大介―父から

 

この比較面白くするのは、『楢山節考』(1983)監督・今村昌平が、『デンデラ』監督天願大介であるという事実だ。

今村版『楢山節考』写実的え、「美化せず、しさをそのまます」という姿勢いた。

一方、天願大介写実性ぎながら、そこに溝口健二木下恵介様式美ぜ、さらにアクションダイナミズムえている。

 

つまり『デンデラ』は、リアリズムと、日本映画史様式美とを融合させた「映画史交差点」うことができそうだ。。

 

構図演出系譜

 

は、しいが残酷であり、生命いもすれば、そこにいの舞台える。

この二面性が、『楢山節考』から『デンデラ』へと雪景色系譜形作っているのだ。

 

しい自然いに二面性をもっている。

 


映画『太陽の帝国』(1987 スティーヴン・スピルバーグ監督)

2025年08月09日 | 映画

映画『太陽帝国』(1987、スティーヴン・スピルバーグ監督)

第二次世界大戦下上海舞台に、裕福英国人少年ジム戦争によって家族れ、捕虜収容所姿く。J・G・バラード自伝的小説原作とし、戦争を「生存」視点からいた作品

 

TVで見たので最初の10分ほどは見ていない。

この映画の受け取り方ごとになるだろうという点に注目しながら観た。

中国では舞台自国であるにもかかわらず中国人視点がほぼかれず、戦時被害者としての自国像背景化されている批判がある。一方、映画ファンからは「戦争普遍的悲劇」いた評価するもある。

英国では上海租界らす自国民姿帝国主義末期すとして、ノスタルジー回顧じる評価となっている。もう慣れっこなのだろう。

日本では日本兵比較的秩序正しく、尊敬対象としてかれている場面があり、当時としては「フェア方」として肯定的められる一方、戦争責任曖昧にしているという批判存在する。戦争物は常に賛否が極端に分かれる。

本作のタイトルにある「太陽」は、少年の生きる希望でもあり少年ジェイミーは、日本の零戦(日の丸)に憧れるという、ある種の「太陽」への憧憬を抱いている点、そして、その他さまざまシーンで「太陽」の光は象徴的に描かれている。日中の強い日差しの中でも陰影の強い画面がとても印象的だ。

以上の観方はピルバーグユダヤアメリカであることに関係してのことだ。彼は黒澤明や小津安二郎への深い敬意を公言しており、日本文化への関心も強いこと、日本文化に親しむ姿勢から「親日的」との評価もあるということはよく知られている。

スピルバーグはホロコーストイスラエル問題同様、敵一面的としてかない。

本作のこうした視点↑は、米国内保守的戦争映画観とは若干の距離があり、海外批評との温度差んでいると思う。(米国で製作され、ワーナー映画が配給)

スピルバーグの代表作『シンドラーのリスト』は、ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)を描いた映画であるが、アメリカ映画の中でも屈指の倫理的重みを持つといわれる。本作『太陽の帝国』においても、敵味方の単純な二項対立ではなく、「生き抜く」ことそのものに価値を見出す姿勢があり、これはホロコーストを描く際の視点とも重なる。スピルバーグにとって戦争は、国家や正義のために戦うものではなく、「個人がどう生きるか」という主題へと集約されていくのである。

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2024年09月23日 | 映画


話はすこし脱線する。

本作の背景には、20世紀前半英国の「三枚舌外交」象徴される帝国主義矛盾がある。

すなわち、★アラブ独立約束したフサイン=マクマホン協定(オスマン帝国を切り崩すためのアラブ人にたいする嘘)、

列強による中東分割密約のサイクス=ピコ協定(オスマンを山分けするというフランスにたいする嘘)、

ユダヤ人国家建設支持したバルフォア宣言(戦争が終わったらここにアラブのナショナルホームを作ること認めるというアラブに対する嘘)つの約束は、いに矛盾し、中東問題火種となった。このことは現在の国際ニュースを見る上でも基本的に必要な知識だ。

名瀬の書店で見つけた

歴史く!世界情勢のきほん 中東編 (ポプラ新書 269) 新書 – 2024/12/11

池上 彰 (著)

 

映画アラビアロレンス』(デヴィッド・リーン監督=スピルバーグが影響を受けた監督の一人)は、★アラブ独立を約束したフサイン=マクマホン協定、外交理想かれる青年将校いたが、『太陽帝国』もまた、帝国現実裏切りに直面する少年成長通底する。帝国終焉背景に、個人(少年)無垢さとその喪失んだ作品である。

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2021年10月27日 | 映画


映画 2016年版『ベン・ハー』を観て、1959年版「ベン・ハー」との違いについて調べる

2025年08月05日 | 映画

写真左が1959年版

『ベン・ハー(Ben-Hur)』は、ルー・ウォーレス小説『ベン・ハー:キリスト物語』(1880年)原作とした壮大歴史劇で、何度映画化されてる。

とりわけ有名なのが1959年版(監督:ウィリアム・ワイラー)。

2016年版(監督:ティムール・ベクマンベトフ)の違いについて以下概要・評価・違いを調べてみた


1959年版『ベン・ハー』概要

原題:Ben-Hur

監督:ウィリアム・ワイラー

主演:チャールトン・ヘストン(ユダ・ベン・ハー)、スティーヴン・ボイド(メッサーラ)

上映時間:212分

 

ジャンル:歴史ドラマ、聖書映画、スペクタクル

 

舞台:紀元1世紀ローマ支配下ユダヤ

 

あらすじ

ユダヤ貴族ユダ・ベン・ハーは、幼馴染でありローマ将校となったメッサーラ(二人の関係は義兄弟)裏切られ、奴隷としてちぶれるが、復讐信仰じてキリスト出会い、精神的救済る。

どころは戦車競走(チャリオットレース)ガレー海戦シーンこの2だけが強烈すぎるが、これは歴史ドラマ、聖書映画なのだ)

 

1959年版評価

アカデミー賞:史上最多タイの11部門受賞(作品賞、監督賞、主演男優賞、美術、衣装、音響、編集など)

 

映画史的意義:スペクタクル映画金字塔とされ、巨大セット、群衆シーン、ロケ実写感圧巻。

宗教的寓意娯楽性両立させた作品。特撮・合成らず実写迫力せる映画的技巧極致と言われる。

シリアスドラマ映像美により、クラシック映画ファンからの評価めてい。現代視点ではやや説教臭さや長尺指摘されることも。

 

wikipedia 日本での一般公開は1960年4月1日だが、これに先立同年3月30日にはテアトル東京チャリティ上映われた。このとき昭和天皇・香淳皇后かれ、日本映画史上初天覧上映となった。ヘストン夫妻もこのっている。


2016年版『ベン・ハー』概要

監督:ティムール・ベクマンベトフ

主演:ジャック・ヒューストン(ベン・ハー)、トビー・ケベル(メッサーラ)

上映時間:123分

CGI多用した現代風アクション演出(チャリオットレースなど)1959年版と比べるとキリスト教的要素前面され(キリストの映像もある)、より救済しの物語シフトしている。

兄弟としてったメッサーラとの関係強調され、より感情的対立になり、物語やや高尚になる。テンポく、いかにも現代観客向けに再構成された感じ。

 商業的・批評的失敗(興収不振)


総評

1959年版は、古典映画名作として評価く、「スペクタクル×精神的救済」という黄金比確立。

2016年版は、モダン演出(CGI中心のアクション演出)しい世代訴求しようとしたが、オリジナルえられず、「なぜリメイクしたのか?」というく、批評的にも商業的にも低調


>違いがはっきりしている分、両方観ることで映画表現変遷や、価値観変化えてきます。リメイクしさとともに、「なぜ旧作なおがれるのか?」をえるよいきっかけにも。

補足:なぜこれらが重要なのか?

これらの比較は、「映像技術進歩」だけでなく、大衆じ、共感し、どこに感動するかという“受容変化”如実反映される好例


現代の芸術と“万人受け”の関係

おおげさに言うと「ベン・ハー」旧作リメイク対比は、なる映画比較ではなく、芸術表現根幹にある大衆との関係性」さらには「表現時代」「普遍性個別性のせめぎいをあぶりしています。


大衆芸術のあいだ 興行か芸術(作家主義)か 原作尊重

その意味で、1959の『ベン・ハー』なおきをわず、2016年版挑戦は、総合芸術といわれる映画を「めぐる未完いをげかけている。

万人受けを無視した芸術がこれからも成り立つためには、「拒絶」ではなく「共鳴」や「内省」を促す方法が必要なのではないかとの訴えが見えてくる。

たとえば、観客の感情や倫理を刺激する曖昧さや象徴性、論理ではなく視覚”詩”的表現がその鍵となりうるということだろう。


アニメ映画 『火垂るの墓』 Grave of the Fireflies. 監督, 高畑勲. 脚本, 高畑勲.  原作, 野坂昭如

2025年08月01日 | 映画

✅ETV特集「火垂るの高畑勲と7ノート」が、8月2日NHK Eテレ放送される。(再放送:8月7日午前0時~)。

✅2025年8月15日日本テレビ系列の「金曜ロードショー」で、スタジ☑オジブリアニメ映画「火垂るの墓」放送されます。


☑ 2025年7月15日よりNetflix日本国内にて独占配信されている。(その直後に視聴した感想です)

『火垂るの墓』反戦映画なのか──野坂昭如い。そして「戦争らないどもたち」への違和感

スタジオジブリの代表作『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、しばしば「反戦アニメ」と呼ばれる。だが本作を単に戦争の悲惨さを描いた映画と位置づけるのは、いささか表層的すぎる。

 

原作において、兄・清太かに節子し、ろうとした(実際野坂態度はあのようにまでは親切ではなかった、という)のですが、その愛情は「社会との接点」—親戚家、役所、隣人など—を拒絶する方向作用します。

清太自分プライド被害者意識から、親戚自活ぶのだが、それは結果として、妹・節子の「他者とのつながり」「公的支援」へのざしてしまうのだった。

つまり、「る」という行為が、逆説的生存可能性った、というふうに描かれる。

あの時代のことをえるなら、清太節子する、(親戚のおばさんなどの)世間態度は、けっして過酷とはえない。むしろたりだったとえるのだ。

なくとも現在くの高齢者にとっては、少し考えると理解できる。生前のTVなどで垣間見た野坂の性格からいっても、本人も、そう思っていたことだろう。

だから、即「清太節子かわいそう」とはならない。単純に「反戦映画」めつけられない。

『火垂るの墓』は、どこかしている。誰をめない。戦争も、社会も、叔母も、そして自分自身すら。

読者清太肩入れし、「戦争犠牲になったかわいそうなどもたち」と物語ろうとしても、りはどこか素直にそれをめてくれない。そこが本作の純文学としての読みどころでのひとつである。

野坂昭如は、敗戦直後から「わっていく」世間で、われないとしてくしていたのかもしれない。戦後手のひらをすように主張えたマスコミ、被害者大衆、倫理知識人たち。そんな空気のなかで、野坂らないことをんだ。独特なユーモアまじりで語る「焼け跡闇市派」としての独自の視点は、どこか吉本隆明との共通点もある。

 

「妹なせたのは責任だ。戦争責任じゃない。叔母にもみはない。戦時中感覚では当然だった」

そうした立場に、同情批判えず、淡々ける。あらゆる主張を「嘘」とみなし、あえて主張しないことでしかせなかったみが、清太りをかたちづくっている。野坂は自ら自分の「うそつき」を認めていたというから、面白い。これも読みどころのひとつだ。

 

「反戦コールとしてんでもらってもいい。してもらってもかまわない。だが、そのに、気持ちにもほんの一瞬、立まってもらえたら――」

 

野坂原作清太節子心中物語」べていたことは象徴的だ。

そこには、なる悲劇ではなく、戦争のなかであらわになる未熟自己中心的人間姿まれている。

清太がる」ために叔母行動現実からの逃避であり、節子餓死へといやる選択でもあった。への純粋だが、同時にそれは彼自身りや理想優先した暴走でもある。

これは、戦後日本展開された学生運動、とりわけ全学連のいわゆる「革命ごっこ」にじないだろうか。

理念い、現実対話せず、結果的くをんで自壊した運動と、清太自己完結的には共通する構造がある。これを読みどころの三つ目としてあげておくことにする。

 

野坂戦争らない世代♪「戦争らずにらはった」とたちにしどんないでいたのだろうか。

 

悲劇反戦教訓として抽象化するだけではなく、戦争がもたらした「恥」や「責任」ることこそが重要だとえていたののではなかろうか。

 

しになるが『火垂るの墓』は、単純反戦文学ではない。清太失敗み、同時にそれをさないための批評としてむべき作品である。しみにするだけではなく・・・・。

 

映画冒頭、清太が「9月21日、僕んだ」とめることから、冥界からのりとして、解釈されている。

 


映画『密偵』(The Age of Shadows)韓国:2016年9月公開

2025年07月22日 | 映画

『密偵』(The Age of Shadows)

公開年 韓国:2016年9月、 日本:2017年11月

監督/主演 キム・ジウン監督、主演:ソン・ガンホ、コン・ユ

イ・ビョンホンも出演

 

松本清張シリーズ1978年版『松本清張シリーズ 天城越え』の少年役:鶴見辰吾が、日本警務局部長・ヒガシ(唯一の日本人出演)の役で出ていた。

 

鶴見さんの想い 「韓国の大物俳優(ソン・ガンホ)との共演に意欲を持ち、敬意をもって仕事に臨んだ。現場での尊重と日本人俳優の必要性を実感」

 

韓国側の監督や共演者たちが敬意をもって接してくれ、「日本人なしでは成立しない物語だからこそ、日本人を演じたことに意味がある」と感じたそうです。(文春オンライン)

 

 

映画の舞台は、1920年代の朝鮮半島(京城=現ソウル)それに上海。独立運動団体「義烈団」と日本警察の諜報戦が主題で、実在の「黄鈺事件」(1923年爆弾密輸計画)がベース。

 

韓国国内で大ヒット

「ファクション(fact+fiction)」ジャンルということで、

史実ベースだが、フィクションが主で、スパイ映画として俳優間の「小さい演技」、韓国映画らしいスピード感で「心理戦」と葛藤を描くエンタメ構成。

重厚で洗練された映像だが、歴史映画として見てしまうと、あまり楽しめない。映像と展開のスピード感には酔える。


映画 『サンセット・サンライズ』2024年製作 139分日本 劇場公開日:2025年1月

2025年07月21日 | 映画

『サンセット・サンライズ』2024年製作 139分日本 劇場公開日:2025年1月

『俺たちの旅』(1975年のテレビドラマ)中村雅俊が出ていたので軽い気持ちで見た。

この映画の内容も「軽い」と感じたが、その軽さが受けたのか、評価は高い。

“軽やかな社会派映画”の時代なのだろう。

震災後の地域、空き家、過疎、移住促進といった社会課題を扱いながら、コメディなので暗さはない。

社会課題は、「人との出会い」や「人生の再出発」といった個人の感情へと回収されていく。今風映画の典型のような映画だろう。

観客に“安心と共感”を提供する一方で、問題の構造的な根深さを見えにくくするという評もある。

“軽さ”は決して悪ではないのだが、しかしその裏で、現実としての「制度」「差別」「構造的問題」が見えなくなってはいないか?

「癒し」や「再生」だけでなく、「痛み」や「問い直し」にも向き合う映画を期待し、わざわざ「重さ」を期待するのはダサいのだろうか。

外国の例をみると時代の変化とともに、この閉塞状況から脱しようとする動きも確実に存在するようだ。、

クラウドファンディングや自主制作 Netflixや海外資本を活用する戦略。

日本では「怒り」や「政治」は見苦しい、説教臭いと捉えられる文化的バイアスがある一方で、

それらが“クールで知的なスタイル”として商業的にも成立している外国の例もある。


映画『ベナジルに捧げる3つの歌』(Three Songs for Benazir)2021年のアフガニスタンの短編ドキュメンタリー映画

2025年07月19日 | 映画

『ベナジルに捧げる3つの歌』(Three Songs for Benazir)

エリザベス・ミルザエイとグリスタン・ミルザエイ監督

 

難民として生きる青年のシャイスタはベナジルと結婚して難民キャンプで生活しつつ、自分の部族から初めてアフガニスタン国軍に入るという夢との両立に苦心する。上空には白い飛行船らしきものが常時監視しているようす。

 

評価

第94回アカデミー賞短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

難民として生きる青年のシャイスタの軍への入隊に

部族はなぜ反対するのか。なぜ入隊より、中毒、依存のリスクの高いアヘン労働を選ばせるのか?

 

アフガニスタンの多くの地方部族社会では、「国家」という枠組みよりも、「部族(トライブ)」への忠誠が最上位に置かれます。

 

1.国軍は中央政府の命令に従う存在であり、部族の伝統・命令に背く可能性があると見なされるため、信頼されない。

部族の人たちには、中央政府への不信感が根強く残っています。

 

2. 戦争や報復に巻き込まれるリスク

国軍は米軍やNATOと協働してタリバンと戦っていたため、入隊者やその家族がタリバンの報復の標的になるリスクがあ

 

3. 部族内での「恥」とみなされる文化規範

一部の部族では「兵士になる=部族の外部勢力に仕える」という行為は、家名を汚す行為ともみなされる伝統が残っており、特に若年層の志願には強い抑圧があります。

 

映画内でも、シャイスタが「お前は家長ではない、まずは家を支えろ」と言われる場面があり、伝統的な家父長制・労働観が志願を否定する形で作用しています。

 

4. 経済的な実利を欠くという判断

国軍の兵士になっても給与が安定せず、負傷・戦死のリスクも高かったため、ケシ栽培などの地場経済のほうが現実的という意見も。

 

部族社会にとっては、「即金性」と「手元に残る労働力」の方が重要だった可能性があります。

 

「なぜ入隊はダメで、アヘン栽培はいいのか?」という問いは見たもの誰しもが抱く疑問。シャイスタを取り巻く現実には構造の非合理と文化の重みが描かれる。

それがこの映画の核心。