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映画『HOKUSAI』 2021年5月公開
画家の伝記映画は好んで見ている。
本作は日本での評価もさほど高いとはいえない。少し以外。
面白くなりそうで、なかなかならない。
批評家向けと一般向け(万人受けとはちょっと違う)の中道を狙った結果、どちらにも深く届かない印象。
でも、構成をピリッとしたらいい線いったとおもう。画家の伝記は好きなのだ。
喜多川歌麿(玉木宏)や東洲斎写楽(浦上晟周)らとの交錯、版元蔦屋重三郎(阿部寛)の目利き、幕府による表現規制(寛政・天保の改革)を背景、などが醸し出すワクワクもあった。
柳楽優弥(青年期)、田中泯(たな・みん)(老年期)。反論もあろうが、二人一役も構成上裏目に出てしまった思う。
映画では柳亭種彦と北斎の関係に劇的演出を加えていますが、歴史的事実として接点はあるがそれは一般的な文化人同士の交流の域というのが一般的な見方でしょう。
柳亭種彦のストリー上の重用は、種彦の知名度としても違和感が拭えない。この構成もHokusaiの反骨精神を薄めてしまったと思う。北斎は権力の圧力に正面から対峙しなかたと印象を強める効果だけが浮き出てしまった感。芸術家・絵師の生涯と権力との対峙の表現は意外と難しいものだとおもう。
どっちつかずの構成が、せっかくのHokusaiの人生を”分断”してしまいメッセージ性を弱めてしまったのではないか。そういう意味でのみどころは、ありすぎるほどあった。
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ここからはまったっくの余談だが、Hokusai老年期の初期の田中泯の顔が田中一村そっくりでした。
で、映画のラストの肝。
のこり24:56頃
種彦「先生は絵のためすべてを捨てられますか?」
中略
Hokusai「いつかは、いつかは人に指図されねえで生きていける世の中がくる。
「生きているうちにそんな世の中が見てえ」「俺は俺ができることをやるだけだ」
北斎は、直接の弾圧に身を投じずとも、徹底して庶民の目線に立った絵を描き続けることで、幕府が奨励する「秩序ある美」とは異なる世界を提示した。
日本画の枠から離れ、奄美大島などで独自に自然を描く道を歩んだ日本画家の田中一村。
奄美大島で紬の染色工として働き、一切の外的制約から解放され、描くことだけに専念できる環境を自ら作り上げ、晩年わずか数年ではあるが「孤高の完成期」をみて、表現者としての彼自身の「理想郷」を得た一村と比べてみた。
勝川派破門 → 読本挿絵 → 浮世絵風景 → 春画 → 肉筆画…と変幻自在。
権力や画壇の枠を避けながら、常に庶民や市場と関わり続けた。
晩年も「富嶽百景」「富嶽三十六景」を経て、90で死ぬまで「あと10年あれば…」と飽くなき探求を口にした。
「孤高」というより常に外界と関わりながら変化した末に、ようやく“自由”を口にできた。