鹿児島(薩摩)藩のお家騒動 三件 復習まとめ wikipedia この記事は書きかけです。
1599年(慶長4年)庄内の乱(島津氏の内紛、重臣伊集院氏を誅殺・粛清)
島津氏家中最大の内乱、徳川家康の仲介により解決。慶長の役直後、関ヶ原の戦い直前の大乱で、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかった原因になったとも。
1808年(文化5年)近思録崩れ(文化朋党事件 Bunka group incident/ 秩父崩れ)
【朋党】ほうとう=主義・利害などが共通な仲間。
島津家27(26)代当主斉宣は、前代重豪の開化進取政策により財政は破局に向かっていた藩財政を
立て直そうと近思録派(「近思録」を愛読し,実践を重んずる党派)を起用し徹底的な緊縮政策を実施し、重豪の政策を次々と破却し、これに激怒した重豪は翌年、秩父季保、樺山久言らに切腹、50人ばかりに遠島,寺入りを命じ,斉宣を隠居させて孫の斉興に襲封させた。
処分者の数は有名なお由羅騒動より多い77名
薩摩藩の経済改革が遅れる原因となった。
命名の由来は、処分された秩父季保らが『近思録』(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募ったことから。
背景
鹿児島藩8代藩主・島津重豪の放漫財政
市田盛常の(重豪の娘で徳川家斉の御台所となった茂姫の叔父)の専横
島津斉宣は若年で藩主になったものの、隠居した父・重豪に藩政を牛耳られていたが、重豪の長年の浪費による国元の疲弊は目に余る状態となり、我慢も限界に達していた。
斉宣は父の代から居座っていた家老達に隠居・剃髪を命じ
樺山主税久言を抜擢した。樺山は「近思録」の読書仲間であった秩父季保を推挙し、同年12月には秩父も家老となった。
重豪の逆襲
「近思録党」の敗北
処分者は切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎など12名にのぼった
秩父季保は7月6日未刻に、樺山久言は9月26日未明に切腹した。翌文化6年、斉宣も近思録党を取り立てた責任を問われ、6月17日隠居に追い込まれ、家督を長男島津斉興に譲らされた。
伊地知季安(「薩藩旧記雑録」編集者)喜界島に流刑
奈良原助左衛門(奈良原質の子孫で奈良原喜左衛門と奈良原繁先祖)・喜界島遠島。
重豪もこの事件で財政にようやく目を向けるようになったが、その時に採った政策がかえって天文学的な借財を作る原因となった。これは重豪晩年に調所広郷を家老に抜擢するまで根本的には「改善」されないままであった。行政改革(借金を無利子で250年の分割、琉球を通じた清と密貿易)、農政改革(大島・徳之島などの砂糖の専売制など)
一方、国元下級藩士の間で「近思録党」は「藩に殉じた悲劇の士」として語られ、西郷隆盛や大久保利通など多くの藩士が「近思録」を読み、結党するようになった。皮肉なことにこれらの藩士が後に重豪が寵愛した曾孫島津斉彬の擁立に活躍する。
1849年(嘉永2年)お由羅騒動(おゆらそうどうOyura feud(嘉永朋党崩れ / 高崎崩れ)
藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。
斉彬派の重鎮・近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された
引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島などの処分が下された。
大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職、謹慎となるなど非常に困窮した
切腹した船奉行・高崎五郎右衛門の長男で歌人とし高名の高崎正風は、事件に連座して奄美大島に流刑となった。
嘉永5年(1852年)に赦免され
文久3年(1863年)8月18日これを成功させ(八月十八日の政変)、薩会同盟の立役者となる。その功により京都留守居役に任命されるが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立し、維新後は不遇をかこった。
奄美大島での見聞を記した『南島雑話』、『遠島日記』を残したことで知られる名越 左源太(なごや さげんた)はこの時、首謀者である近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門らに密談場所を提供し、自身も計画に加わったとされ、奄美大島(名瀬方小宿村、現奄美市小宿)への流罪に処され(安政元年1854年赦免)ている。
斉彬を買っていた老中・阿部正弘の働きもあって、遂に斉興は隠居し、家督を斉彬に譲った。