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『五代友厚 商都大阪を築き上げた「英雄」の生涯』 – 2016/1/28

2016年08月01日 | 本と雑誌

『五代友厚 商都大阪を築き上げた「英雄」の生涯』 (三才ムックvol.854) ムック  – 2016/1/28
 
5つ星のうち 5.0
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西郷隆盛、大久保利通と並んで「薩摩の三才」と呼ばれる五代友厚は、鹿児島でも前2者と比べあまりにも知られていない。

その残した業績を知ると、不思議なほどである。

1、武勲派ぞろいの薩摩藩にあって、薩英戦争で捕虜になったこと

2、官尊民卑の風の強い鹿児島(奄美はもっと強いか)で、維新後、官を辞し民へ転じたこと

3、北海道開拓使官有物払い下げ事件もゼニカネの話を嫌う人たちには、いやがられたのだろう。

これは何も鹿児島だけでなく、これまで名前が知られなかったのは、全国的にそうであったのだろう。

しかし、五代は、西郷や大久保よりはやく、西洋文明に接し、海外渡航も多い。西洋のすごさを、軍艦や鉄砲だけでなく、その商売(貿易)に目をつけた。

同じ島津斉彬に抜擢され中央政界へ躍り出た西郷にしても、外国語ができ、いち早く日本の近代化のビジョンを持っていた五代は肌が合わず、維新の前も後も、扱いにくかったのだろう。

五代を知ると、これまでの奄美の歴史の見方も、いくらかは変わったような気がする。===
wiki 五代才助の上申書
==


本書で、その他にも薩摩人の活躍も知ることができる。

小松帯刀 家老

寺島宗徳 

松木弘安(1863年)薩英戦争において五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる。 日本の電気通信の父。第4代外務卿。

松方正義 

内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。wiki

黒田清隆 

薩薩長同盟に奔走し、戊辰戦争の北陸戦線と、箱館戦争で指揮を執りのち北海道の開拓にの尽力。
薩摩閥の重鎮となるが、開拓使官有物払下げ事件を起こし、その払い下げ払い下げ元が五代であって指弾された。
明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があった。(三條暫定内閣)
酒乱であったとしても知られる。wiki

森有礼ほか。


友厚は14歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父親から、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図の複写を命じられる。
その類まれなる才能を見出し、喜んだ11代当主斉彬が「才助」と命名したといわれる。

政界における功績は、

P30 「立憲政治の礎・大阪会議」明治政府首脳たちの仲介役として奔走
料亭 花外楼

wiki 大阪会議は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。
五代邸(現在の日銀)は大阪会議の準備会談として使われ、大久保や伊藤らが何度も往復したという。

====

ドラマは見ていなかったのだが、それとは違う、妻や女性関係など、くわしいことは

『五代友厚伝』 (1981年) - 有斐閣 1981/1 宮本 又次 (著)
ほか

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amazon 登録情報

ムック: 111ページ
出版社: 三才ブックス (2016/1/28)
言語: 日本語

amazon 内容紹介


NHK連続テレビ小説『あさが来た』のもうひとりの主人公ともいえる五代友厚。
 英国との関係を独自に築いた彼は、幕末期を薩摩の志士として駆け抜け、
 明治維新での薩摩藩の功績に大きく貢献した。
 明治になってからは、明治の元勲や財界人との交流を通じて、
 経済的地番沈下の激しかった大阪を商都として立ち直らせた経済人として名を残している。


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1 コメント

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島津七百年の系譜とその総決算は五代 (管理人)
2017-10-06 11:24:36
島津氏は、鎌倉時代はじめから、明治維新まで、一貫して国替えもされず南九州の地を七百年も支配してきた。このような例はほかにない。

その島津七百年の内、鹿児島のお国自慢によく言われる「島津に暗君なし」と、ほんとうに言えるのは、むしろ戦国時代の島津 忠良(しまづ ただよし(1492~1568)からと言える。

その忠良は日新斎(じっしんさい)の号で知られ、島津氏の分家・伊作家(島津氏庶家である伊作家10代当主)出身。

忠良は自分の嫡子・貴久に島津宗家(15代)を継承させ、以後明治維新までその子孫が本家をついでいく。

島津にとって、それまでの、争乱につぐ争乱は、この後の安定へいたるために要した試練の数百年だったといえるだろう。

名君の系譜はつづく。

薩摩は日本の辺境で北を山でふさがれていたが、南には世界につながる広大な海をもった。季節風や黒潮の流れは、奄美や沖縄をとおして世界との接触をもたらした。

18代家久は、奄美沖縄侵略(1609年)。
そこを拠点にした密貿易は、他藩にさきがける商業的利益と海外情報を得た。

国内に対しては極端な閉鎖性、海外に対しては半開国。
この辺境性と開放性という特殊の環境が、気宇壮大な藩主を輩出した。

彼らは、幕府の監視下の秩序とも、他の儒教的藩主とは、どこかしっくりいかない。

中でも傑物は25代重豪。
幕末、江戸三百諸侯に並ぶ人なき英傑とうたわれた斉彬(おかげで島の人々は苦労した)の曾祖父。
(中略)
西郷隆盛は、この斉彬によって抜擢される。(中略)

隼人武士の豹の群に囲まれた名君の系譜。その総決算、
真の後継者は、久光や西郷、大久保もさることながら五代友厚こそふさわしいのではないかとの見方もある。

五代の世界的見通しの広さは竜馬をもしのぎ、維新後は薩摩藩士の意識からもいちはやく脱却し、大阪で実業家となる。
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