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村田新八 2年前の記事(西郷どん)のつづき

2020年07月09日 | 歴史 民俗

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西郷は3つ目の遠島地、沖永良部島から元治元年(1864年)、赦免され、
鹿児島へ帰還の途中、喜界島へ寄って同じ遠島人の村田新八を鹿児島へ連れ帰っている。
(無断で?よくこんなことが許されただろうか)(要研究)

村田の遠島は、西郷の一度目の奄美大島龍郷での島暮らしから
帰藩後、西郷が、有馬新七らの京都挙兵(寺田屋騒動)を扇動したとして国父久光の怒りを買い
いわば西郷に連座してとらえられたのが原因。
西郷は徳之島(のち沖永良部)、村田は喜界島に島流しとなった。

薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)生まれの村田新八
は少年のころから同じ加治屋町山之口馬場生まれの西郷隆盛に兄事し尊王の志を抱く。

村田が西南戦争で死の直前(城山)まで「風琴」(アコーディオン?)を弾いた話は、テレビドラマ「田原坂」(1987)のシーンを覚えている。大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990)にも出てくるという。

だが当時は、村田の遠島のことや、維新なり明治4年(1871年)、村田が西郷の推挙で宮内大丞に任命され、その年、岩倉具視遣欧使節団の一員に加わり、欧米視察に出発、(明治7年(1874年)視察から帰国)したことは知らなかった。

世界の最先端ヨーロッパで見聞を広めた村田が、ナゼ西南戦争で西郷軍にかけつけることになったのか。
(開明派の西郷への従軍は、ほかにもある。(要出典)

村田の従軍は少年時代から西郷に兄事した情実や義理だけからだろうか?

西郷の思想や国家ビジョンに共鳴して行動した側面はなかったのだろうか。

村田はイギリスの工場視察の際、労働者の労働条件や生活のあまりの過酷さに
驚いたという(要出典)

西郷も村田も奄美での薩摩藩による過酷な黒糖収奪、島民の暮らしぶりを
つぶさに見聞きし経験している。

村田はイギリスの都会の労働者と、自然に囲まれた南の島でつらいとは言え
テゲテゲのらりくらりがゆるされた島んちゅの実態を比べてみたのではなかろうか。
(要校正)最期まで西郷は農本主義の考えがあったと言われる(要出典)