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『ユダヤ人の歴史』-古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで (中公新書 2839) 鶴見 太郎 | 2025/1/22

2025年05月30日 | 本と雑誌

専門的ながらも読みやすい文体で、初めて学ぶ読者にも適していると好評。特に現代中東問題を理解する手がかりとして有用との声が多く、バランスの取れた視点も評価されている。

欧米文化の一部としてのユダヤ人、「自分たちも作り手だった」

ユダヤ人(特にアシュケナジム系=ヨーロッパ系ユダヤ人)は、ヨーロッパ文明の中で長く生活しており、欧米文化の中核的な担い手でもあります。哲学(スピノザ、ヴィトゲンシュタイン)、経済学(マルクス)、物理学(アインシュタイン)、文学(フランツ・カフカ)、精神分析(フロイト)など、ユダヤ系の知識人は欧米の知的文化を大きく形作ってきた、ということが改めて理解できた。

読書後、TV番組で「日ユ同祖論」が取り上げられていた。

こういうユダヤ人の自負を考えると「日ユ同祖論」は、日本人の側の「ユダヤ人への親近感」も感じられるものの、欧米文化に先立つユダヤに対するあこがれ、ないし「文明的コンプレックスの裏返し」として位置づけるのが妥当かと。読んで おもった。


映画「小説吉田学校」1983年

2025年05月28日 | 映画

1983年の映画『小説吉田学校』を観た。
原作:小説吉田学校(文庫 戦後日本の政治史を知る上で貴重な作品)も読んでいたけれど、本が探し出せない。

良質の社会派ドラマ映画として評価も高い。
森谷司郎監督
脚本を長坂秀佳と森谷司郎
前半はモノクロ映像で占領下の日本を描き、
後半はカラーで独立後の政界の動きを追う
上映時間132分

被占領下の日本。戦後改革を遂行する吉田茂は
対日講和条約の締結に命を賭ける。

映画は、吉田の門下生たちの苦闘、
そして政敵・鳩山一郎と、その盟友三木武吉との宿命の対決を描く。

保守本流:吉田茂(森繁久弥)と鳩山一郎(芦田伸介)の対立を中心に戦後日本の再軍備や憲法改正を巡る対立と、三木武吉(若山富三郎)の根回しなどが中心。

GHQにより公職追放されていた鳩山が復帰する際、吉田は一時的に首相の座を預かるが、再軍備に反対する吉田は、推進派の鳩山に政権を譲ることを拒む。

この対立は、吉田派(官僚出身の政治家)と鳩山派(党人派)との間の権力闘争として描かれています

官僚派 吉田茂、池田勇人、佐藤栄作など 戦前からの高級官僚出身者が多く、行政主導・技術官僚的な政策形成を重視。経済成長志向が強い。


党人派 鳩山一郎、三木武吉、河野一郎など。旧来の政党政治の伝統を重んじ、党の運営や人脈重視。党組織による政治主導を志向。

「官僚的現実主義」と「党人的理想主義」のぶつかり合い
吉田は国を再建するためのリアリストだった。

現在 例
党人派風 安倍晋三、高市早苗
官僚派風 菅義偉、岸田文雄、河野太郎(一部)

この対立は、戦後日本政治の保守本流を形作る「自由民主党」の内部抗争の原型。

そしてこの対立構造は、現在に至るまで日本政治の根本的な力学として続いているということは多くの識者が指摘しているところだ(この対立は単なる歴史的因縁なのではなく、現在の政治のリアルな構造問題として顕在化し続けている)。

登場人物が多いので、当時の政治的背景を理解していないと展開が分かりづらいとの指摘もあるが、この対立構造を押さえてみれば、小説を読んでなくても楽しめる。


吉田茂、池田勇人、佐藤栄作のいずれもが、政界入りする前に国家の要職を担う高級官僚としての経験を持っています。このため、彼らは官僚派」と言えますが、

映画では若いころ吉田を支持する田中角栄役の西郷輝彦の名演が光る。

田中が、(官僚派の)吉田茂を支持したのは、なぜだろうか。
吉田が戦後の日本を主導する保守勢力のトップであり、若き田中が政治家として力をつけるためにその懐に入った、という側面が強いということだ。

「吉田学校」の一員とも見なされた田中角栄だが、彼は官僚派には分類されない。

官僚経験なし:叩き上げの政治家。学歴や経歴から、エリート官僚とは全く異なる「庶民派」。官僚の意見を尊重しつつも最後は自らの判断と強力なリーダーシップで政策を決定し、実行していくスタイル。
幅広い人脈を築き、各界との調整や利害調整に長ける政治主導と実行力。

まさに「党人派」の典型、あるいはその究極の姿とも言える。

映画を見ると、その後の田中角栄の天才ぶりしがばれる。(映画で描かれるあとの時代だ)



たとえば今、世界中が直面している移民・外国人労働者の問題。
経済を回すために現実的に受け入れるべきか?
社会的・文化的統合をどう実現するか?
そもそも「共に生きる」とはどういうことか?
これはまさに、現実)と理想)の対立構造と重なる。70年前の対立が、そのまま今の政治にも響いているといえる。

田中角栄ならどう解決するのだろうか・・・。


映画は感情で伝えてくる。小説で読むと構造が見えてくる。

政治は制度だけじゃ動かない。
人の信念と選択が、社会の未来を決めていく。映画はそれがよく描かれていたと思う

森繁久彌の吉田茂は孤高で寂しげだった。
芦田伸介の鳩山は悔しさと信念をにじませていた。
三木武吉(若山富三郎)はある意味で吉田や鳩山より印象が強いのだが、
若山富三郎のやくざ映画の印象が強すぎるきらいがした。
吉田茂の娘:麻生和子(麻生太郎氏の母 役夏目雅子)の美しさと存在感もポイントのひとつ。


鳩山と三木武吉の人物背景がもう少し描かれてよいと思った。

鳩山には戦争犯罪などの法的な訴追(罪)はない。
あくまでGHQの価値基準による政治的な「思想パージ」であり、「罪」とは言えない。(追放は1951年に解除され、その後に鳩山は首相に就任(1954年〜1956年)。衛文麿内閣の文部大臣(1937年〜1938年)

三木 武吉:鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った

過去の話じゃなく、未来を考えるヒントになる。
『小説吉田学校』は、構造と感情をつなぐ“政治の人間ドラマ”だった。


『イスラム移民』 (扶桑社新書) 新書 – 2024/11/1 飯山 陽 (著)

2025年05月23日 | 本と雑誌

飯山陽(著)『イスラム移民』(扶桑社新書)

日本におけるイスラム教徒の受け入れと共生について、現実的かつ具体的に論じた一冊。だいぶ前書店で発見。

例えば、土葬墓地や教育現場でのハラール対応など、表面化しつつある課題を挙げ、日本人の「無意識の寛容」がどこまで通用するのかを問いかけてくる。 

読後、「多文化共生」は理想論だけでは成り立たないという現実を突きつけられた思いがした。

他のアジア諸国が移民受け入れに積極的に舵を切る中、日本は制度整備や国民の意識改革がまだまだ追いついていない、ということだろうか。(現場の声、政策とのズレ)
今後も日本社会の在り方を考える上で、このテーマは避けて通れないと思う。


映画『The Battle of China(中国侵攻作戦)』1944年 アメリカ製作のプロパガンダ・ドキュメンタリ

2025年05月23日 | 映画

アマプラ

『The Battle of China(中国侵攻作戦)』
1944年にアメリカ製作されたプロパガンダ・ドキュメンタリ

”アメリカ軍のプロパガンダだからあてにならい”は当てはまらない。だからこそ見る意味があり、また面白い。当時のアメリカの対日認識や、中国への態度を知る上では。

この作品は、アメリカ陸軍省によって製作された7部構成の戦争記録映画シリーズ『Why We Fight(我々はいかに戦うか)』の第六作目。

全7部作の構成:
Prelude to War(戦争の序曲) - ファシズムの台頭を描く。

The Nazis Strike(ナチスの攻撃) - ドイツの拡張主義を描写。

Divide and Conquer(分割と征服) - フランス・ベネルクス諸国侵攻。

The Battle of Britain(英国の戦い)

The Battle of Russia(ロシアの戦い)

The Battle of China(中国の戦い)

War Comes to America(戦争、アメリカへ) - なぜアメリカが参戦したかの総まとめ。


この映画は、1931年の満州事変から始まり、1937年の盧溝橋事件(日中全面戦争のきっかけ)を経て、1941年の真珠湾攻撃に至るまでの日本の対中国侵略を時系列で描いている。

主に次のようなトピックを扱っている。

日本の中国侵略の動機と計画(資源、領土拡大など)

日本軍による中国都市の爆撃や南京大虐殺(明確に非難して描写)

中国民衆の抵抗、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党の共闘(協力して日本と戦う姿)

中国の地理や文化、民衆の生活などを通じて、中国人への共感を促す描写

アメリカと中国の連携の重要性を訴える

プロパガンダとして、日本を明確な「侵略者・悪」として描写しているのが特徴。


戦時中のアメリカ政府による意図的なメッセージが込められているため、プロパガンダとしての偏りはあるが、当時のアメリカの対日認識や、中国への態度を知る上では非常に貴重な資料だ。


映像構成・ナレーション・編集の技術が非常に高く、質の高い作品で、その意味でも見る価値がある。日本軍の残虐性を印象づける演出が多く、感情に訴える作り。


歴史的資料としては有用だが、日本側の事情や視点はまったく描かれず、敵国を「悪」と断定する一面的な描写。真逆が全く正しいということもないのは、言うまでもないのだが。


「窓辺のアダンと海色のターバンの少女」生成AI

2025年05月19日 | ChatGPT

チャットgtp

ChatGPT無料版の画像生成機能が大きく開放されたのはつい最近らしい。
(1分あたり約60回の質問回数、1回の質問につき約2,048文字の入力制限が)

質問回数や文字数の制限があるので質問文を簡潔にまとめたり、プロンプト(質問や指示)をあらかじめ準備するなどの工夫をすることが望ましい。

少女に大島紬(柄指定)を着せるように指示しが、制限のため明日までまたなければならない。

フェルメール風、牛乳を注ぐ女などと指示したのだが・・・。(言わなくてもわかるだろう、は通用しない場合もある)

画像は二枚とも、別のソフトで簡単な画像処理をしました(色調、明るさ・コントラスト補正)


映画『田舎司祭の日記』1950年・フランス

2025年05月16日 | 映画

地味で退屈そう。でも、なぜか心に残る──『田舎司祭の日記』
たまたま観た映画『田舎司祭の日記』(1950年・フランス)。
正直、最初はかなり退屈そうに見えた。セリフも少なく、映像も地味。今どきの映画のような、何かが「起きる」感じがしない。終始”えっ、これで終わり?”となりそうな予感。

でも、最後まで観てしまった。そして、観終わったあと、じわじわと心に残っている。もしかしたら名作かもしれない・・・
派手さもわかりやすさもないけれど、これは確かに「芸術」だった。

映画は娯楽だけじゃない
この映画を撮ったロベール・ブレッソンという監督は、芝居がかった演技を徹底的に嫌った人らしい。
出演するのはその作品限りの素人ばかり。彼らに演技させるのではなく、ただ“そこにいる”よう求める。それがブレッソンのスタイル。

だからだろうか。映画には演技らしい演技がほとんどなく、ただ日々の風景や人々の表情が、淡々と、そして妙にリアルに映し出されている。

傷ついた若い司祭の物語
物語は、ひとりの若い司祭が田舎の村に赴任するところから始まる。
しかし、彼を待っていたのは村人たちの冷淡な態度と不信感。子どもたちとの関係もうまくいかず、孤独と苦悩ばかりが募っていく。

しかも司祭は、深刻な病を抱えている。
心も体も傷ついたまま、彼は信仰の意味を問い続ける。そして最後には、神さえも「沈黙している」と感じはじめるのだった。

遠藤周作『沈黙』を思い出す
この映画を観ていて、自然と頭に浮かんだのが遠藤周作の小説『沈黙』だった。
キリスト教信仰の核心を、神の「沈黙」を通して問いかけるあの作品。

そして、その映画版──マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』(2016年)のことも思い出した。あちらは、日本の拷問や踏み絵という強烈なビジュアルで訴えかけてくる。

中でも、ロドリゴが踏み絵の直前に神の「声」を聞くシーンは印象的だ。

「踏め。私はお前と共にいる。」

原作にはなかったその声が、映画では強いカタルシスとして描かれている。

だが『田舎司祭の日記』の沈黙は、沈黙のまま
それに対して、ブレッソンの『田舎司祭の日記』では、神の声は一度も聞こえない。
救いの兆しも劇的な展開もない。
ただ司祭は、沈黙のなかでも信仰を手放さない。

そして、死の床で日記に記す最後の言葉は、

「すべては恵み(Tout est grâce)」

ここに至るまでの過程が、カタルシスではなく、静かな内面の解放として描かれているのが印象的だった。


『沈黙』と『田舎司祭の日記』。
一方は神の声を聞き、もう一方は終始沈黙のまま。表現方法は対照的だが、どちらも伝えていることは同じように思える。

信仰とは、神が応えてくれるから信じるのではない。
むしろ、神が何も語らない沈黙の中でも、なお信じ続ける意志。
それこそが本当の信仰なのだと、両作品は語っているのかもしれない。

派手でもないし、わかりやすくもない。
だけど、観終わったあと、不思議と心が静まり、どこかでずっと残り続ける映画だった。

 


映画『さまよえるユダヤ人』(1948)イタリア

2025年05月13日 | 映画

イタリア映画『さまよえるユダヤ人』(1948)を観た。

第二次大戦の直後に、ユダヤ人の苦難を描こうとした作品というだけで、ある種の重さを感じる。でも観てみると、何とも評価が難しい、というのが正直なところだった。

Wikipediaで『永遠のユダヤ人』(独: Der ewige Jude, 英: The Eternal Jew)
さまよえるユダヤ人(英語:Wandering Jew)も検索

物語は、磔刑に向かうイエスを冒涜したことで永遠に地上を彷徨う呪いを受けた“さまよえるユダヤ人”マッテオが主人公。

彼はアウシュビッツの中で人間性を見つめ直し、最終的には贖罪のような行動をとる。その展開はドラマとしては一貫していてわかりやすい。しかしどこか寓話的で、現実感が希薄だった。(←レビューの否定的意見)

この映画の表現は、全体として寓話や宗教的象徴に傾きすぎていて、ナチスによるホロコーストの現実的な残酷さや構造的な暴力を生々しく伝えるには至っていないと思った。

死や苦しみが、神の罰や救済のように語られることで、かえって具体的な加害の輪郭がぼやけてしまっている。誰が何をしたのか、という加害の現実が見えてこない。

もちろん、戦後の早い時期にこうしたテーマに取り組んだ意義はあると思う。当時としては大きな挑戦だったのかもしれないし、ユダヤ人の姿を描こうという意志も感じた。でも、それはあくまで“キリスト教的視点”から見たユダヤ人像であって、彼ら自身の言葉や視点はあまり描かれていなかったように思う。

この映画が良いか悪いかは今でもよく分からない。ただ、簡単には飲み込めない何かが残ったのは確かで、だからこそ観てよかったとも言えるのかもしれない。あの居心地の悪さが、自分の中で何かを問い続けている気がする。古い映画を見るのはきらいではない。なぜかアマプラでよくみかける。


映画『あのころ輝いていた(I Used to Be Famous)』2022年Netflix 英 音楽ドラマ映画

2025年05月11日 | 映画

あの頃輝いていたけれど (字幕付き) | 日本語の予告編 | Netflix

映画『あのころ輝いていた(I Used to Be Famous)』は、2022年にNetflixで配信されたイギリスの音楽ドラマ映画

「ほのぼのとした温かさ」を大切にして、意外と高い評価。

かつてボーイズバンドにいた男が、今はストリートで音楽をしている。
「ヴィニーD」の表情、服装から軽薄そうで、何か悪いことをやらかしそう。
ある日、ドラムのうまい青年と街中で出会う。そこから少しずつ、何かが変わっていく。

派手さはない。衒いや気負いもなく、展開もなんとなく予想ができそうで、そのぶん安心して観られる。肩の力を抜いて、ただその世界に居ることができる、そんな映画。

ヴィニーDという男は、見た目で損しているタイプ。
過去にも何かやらかしていそうな雰囲気があるけれど、実際は違う。
演奏道具を自分で運びながら、出演交渉をしている姿が、妙にいい。
地に足のついた人間として、ちゃんと描かれている。

言葉より音楽でつながる関係。
何かを急がず、ただ、そこにある日常のようなもの。
疲れた日に観ると、静かに効いてくる映画だった。

 


映画『昭和天皇 Hirohito ~ラストバンザイ』

2025年05月08日 | 映画

アマプラで見たのだが

『昭和天皇 Hirohito ~ラストバンザイ』は、ヒストリーチャンネルが制作・放送した歴史ドキュメンタリー番組で、昭和天皇の即位から戦争、そして戦後の民主化に至るまでの激動の時代を、貴重な記録映像とともに振り返ります。

今見ると、当時の庶民の暮らしや、自然などどこか外国のように見えて新鮮だ。

25歳の若さで即位した昭和天皇の貴重な映像の数々で紡ぐ『昭和天皇 Hirohito ~ラストバンザイ』予告編

wikipedia

ヒストリーチャンネル(HISTORY)は、エーアンドイーネットワークスジャパンが運営する衛星放送チャンネルで、歴史総合エンタテイメントの専門チャンネルである。The History Channelは世界220以上の国やエリアで放送され、4億人以上の視聴者を持つ。運営するA+E Networksは、Hearst CommunicationsとThe Walt Disney Companyの合弁会社である。2016年7月8日より合同会社化(ヒストリーチャンネル・ジャパン合同会社→エーアンドイーネットワークスジャパン合同会社)。日本では スカパー!プレミアムサービス・スカパー!プレミアムサービス光と、J:COMをはじめとするケーブルテレビ局で放送、また、動画配信サービスHulu、dTV (NTTドコモ)、U-NEXT、AbemaTV、Amazonプライム・ビデオ、Rチャンネル等でデジタル配信している。


映画『セザンヌと過ごした時間』(原題:Cézanne et moi)2016年フランス政策

2025年05月06日 | 映画

映画『セザンヌと過ごした時間』(原題:Cézanne et moi)
2016年にフランス製作の伝記ドラマ映画
日本では2017年公開

「近代美術の父」と呼ばれる画家ポール・セザンヌと

フランスの自然主義文学の提唱者・文豪エミール・ゾラの40年の友情と、その破綻を描いた伝記ドラマです。ゾラの視点で描かれる

生い立ちの対比と友情の始まり
セザンヌは裕福な銀行家の家庭に生まれ、ゾラはイタリア人の父を幼くして亡くし、母子家庭の貧しい暮らし。

中学校では「イタリア人」「貧乏人」といじめられていたゾラを、セザンヌが助けたことから、二人の友情が始まる。

成長しゾラは小説家として成功を収め、社会的地位を確立するが、セザンヌは画家としての評価を得られず、経済的にも困窮する日々を送る。

絶交のきっかけ
1886年、ゾラが発表した小説『制作(L'Œuvre)』にセザンヌが深く傷つく。

これらのことは映画の中でも印象的に描かれる。映像は美しいが、セザンヌの人となりはあまり深くは描かれていない印象これは画家の伝記映画にはよくある評価だ。