最近、面白い本を手に入れた。南米に砂漠を森に変えてエネルギーを自給自足して発展した町があるという。その名はガビオタス。早川書房から出版されている「奇跡のエコ集落ガビオタス」1967年という40年も前に行われていたということにとても驚いた。そして、ここで平和を目指して作ったコミュニティの理由が面白い。「ここで人が暮らせるなら、どこででも暮らせる」ここ阿拉善も環境は厳しいが、こういう考えはなかった。環境が厳しいという場所でも、欠点を補うだけの利点もたくさんあるからだ。ガビオタスでは水耕栽培で新鮮な野菜を手に入れ、学校や病院を建てて、600万本の松を植えて森を作った。最終的には森からの恵みを受ける事になる。このガビオタスには、学者から、技術者から、音楽家、農民と、実にいろいろな人が来ている。そして、スペシャリストが集まって実にさまざまな視点や考えから総合的なプロジェクトを築き上げ、ゼネラリストになっている。そして、実にたくさんの失敗を重ねている。実は積ん読しているだけで、まだすべてを読む機会にない。グローバル化が進み、今の経済危機の際に、このグローバル化が仇になっている現在、将来、危機を避けるという意味でも逆にこういった小さな自給自足ができるコミュニティの必要性が今後ますます高くなるのかもしれない。
フィリピンのミンダナオ島のエコテックセンターの池田所長から博多弁の手紙が届いた。池田所長のアイディアはとても面白く、ここで”クソは地球を救う運動”をしろと励ましてくれた。こちらの人からもバイオトイレが出来ないかという相談が来たので、今年はぜひバイオトイレをやろうと思っている。寒冷地でも発酵する微生物も手に入った。もしうまくいけば、ここで発生している冬の悲惨なトイレを改造できるかもしれない。冬でも電気の要らないバイオトイレができれば理想なのだがゆっくりと考えよう。
2009年、丑年。今年も一年がスタートした。気を新たにしてのスタート。初夢は日本の砂漠だった。一応、設定では函館あたりの海岸沿いが出てきたのだけど、そこでラクダに乗っている人を遠くから眺めている夢だった。なぜ、そこにいるのか分からないが、海沿いだというのに、景色はアラシャン。そしてホテルの部屋から砂漠を見ていた。外はひどい砂嵐だった。そして、砂嵐を見ている横で学生時代にアルバイトをしていたホテルのスタッフが出てきた。なぜだ。このシュチュエーションはありえない。夢分析しても仕方ないかな?と思っていたら、大晦日にテレビでスバルか何かの車の宣伝で火星(だと思う)を走っていて地球を眺めているシチュエーションがあった。それを再び見た時に、このせいだ!と分かった。そういった印象が夢に出てくるものなのだろう。丑年がスタートして、「丑年は牛の歩みでウッシッシ」と俳句を作ったら寒いおやじギャグだと笑われてしまった。自分としては、今年はちょうど景気が悪いのが丑年なので良かったなと思っていたのだが。牛の歩みが必要な年だと思う。元旦からそんな事を考えていた。
ひらがなで題名を書かなければならないか?という深い問題は知る人のみぞ知る(フィルターの為)さておき、くさった問題について。先日のラクダ事件もそうなのだが、結局に轢いた犯人は捕まった。その後が深い~問題なのだ。これがこの国の発展を阻害する一番の大きな問題だと常々考えている。発展途上国と呼ばれる国では恒常的な問題なのだ。まず警察が費用を請求してくる。手間賃という名目だ。今回も2000~3000元を請求してきた。その後も食事会をして警察を労わなければならないという。こういった問題のため、スタッフの表情も暗い。もちろん轢いた側も、本来はひき逃げということで牢屋に入ることになるのだが、この国ではお金さえ渡せば即日釈放される。もちろん、轢いた人はお金持ちのトラック会社だったので、数万元を支払って即日釈放されたらしい。ラクダ代が5000元/匹としても割が合わない。誰が一番得をしたのか?本来は仕事であるはずの警察だ。双方からお金をむしり取る。もちろん彼らのポケットに入る。こうした事についてどう思う?と聞くと「仕方のないことだよ」こうした事が警察に限らないのだ。先日の町にできたライトの工事といい、すべてにこうした事が絡んでくる。諺で「きれいな池に魚は住まない」という言葉がある。多くの人がこうした習慣を嘆いている。こうした不公平な部分がまだまだ残っている。それを「仕方がない」と問題意識として捉えない。アンテナの感度が低いというのか、事なかれ主義なのか。本当にむなしい。そして、今日もテレビではこうした事を取り上げることもなくありきたりの表面的な”いい”ニュースを流している。(写真はシバイ犬:犬の方がエライよ)
今は現地でタンパク食料確保の為、養殖魚の導入を考えている。そんな中、ちょうどシャケを調べていたらシャケというのはすごい魚だ。それも本能だからすごい。なんて、最近は頭がなかなか働かない。何を書いているんだか?川の流れと同様、頭の良さも年齢に比例するなあと思ったりする。若いうちは川の上流にいる状態なので、急流の川の流れに沿って降りてこればよい。しかし、青年から中年に入ってくる、川でいう中流域にさしかかった頃に、鮭のように頭を上流に向けて逆行することは相当のエネルギーを要する。ましてや上流部分はとても勾配がきついため、普通の努力では、川の重力エネルギーに流されてたどり着くことができない。人はこういったリスクを抱えて、いろいろとチャレンジしていく。でも段々と体力や能力というのは坂道を下るように衰えてくる。そこで普通はバトンタッチすればよい。会社では管理していく仕事に移り、体力や能力のある若者に仕事を任せていく。こうして、中流から下流へとだんだんと緩やかな勾配で能力を落として行くことができる。しかしここからが勝負だ。自分は鮭だ!こう言い聞かせて、飛行機で言う滑走路に入る時になって逆噴射をかける逆行の道をスタートする。人間、能力というものは限られていることが分かるようになってくる。そうなると、早めに自分を守ろうと俄然、保守的になってしまう。安定した職業に着くと、その傾向は強くなるのかもしれない。安定したが故に社会を考える事ができ、社会の為の仕事ができるのだ。その点、自分が飛び込んだNGOの仕事というのは相反している。逆なのだ。自分が不安定だからこそ、オオカミのように心をかき立て、問題とは何かを考えることができる。そして社会の為の仕事を行うことができる。ただ、実行するには、精神的なエネルギーが不可欠なのだ。NGOには精神的な部分や意義的な部分が大きくなるのもこうした状況と無関係ではないかもしれない。(本当は食べて行けるようにしないとだめだだよな)ただ、社会が豊かになってくると、こうした不安定な仕事というのは問題というエネルギーが少なくなって行くことで、段々と供給できなくなる。そして自然淘汰されていく傾向にある。NGOの仕事が海外に向かって行くのも、日本国内ではもはやこういったエネルギーを供給する場が少なくなったからなのかもしれない。こうして世界的にNGOの触媒作用によって社会の格差や不正が是正されていくのだと思う。NGOの仕事を客観的に見て行くと、問題があるからこそ活動できるのだ。よく、自分が不安定であるのにどうして社会の為の仕事ができようか?と言われるが、このように問う人は、大抵自身が安定している為に理解することができにくいだろう。ただ、陽と陰があるように、必ず反したものがあってこそバランスを取る事が出来る。全員が安定してしまっては、社会の健全な安定はできないのだ。よく活力ある社会と言われるのだが、この言葉は安定した社会には矛盾している。活力と言うものは不安定だからこそ出てくるものなのだ。今居る中国を見ても、活力ある社会のエネルギーで満ちている。なぜなら不安定だからこそ、隙間のチャンスを狙う輩が多く動き回り活力のエネルギーを生み出す。こうした不安定さがなければ活力も出てこないのだ。そう考えると今の不景気も悪くないと考えられる。逆の発想で考えれば活力を作るチャンスだと考えられる。こうした不景気に乗じてたくさんのチャンスが生まれる。波があるからこそ社会があるのだという考えになれば、今は底なんだ!という我慢も生まれ、将来に対する希望も生まれる。安定した社会になれば活力が失われて行くのも当然だからだ。例えば、研究にしても、詰った時にすばらしい研究成果が出る事がある。安定した所では、意外な結果というものは出にくいのだ。その為に、自分をあえて不安定にしなければ、面白い研究はやりにくい。そして、すぐれた結果も出す事ができないのだ。人生というのはチャレンジだ。失敗する前提であってもチャレンジする中で、鮭の数匹が見事上流にたどり着き卵を落とす事が出来るのだ。確率で言えば1%もないだろうが、不景気の今こそ、シャケのように生きよう。
13日は今年最大の満月で地球から35万6500Kmまで近づく。といっても地球を9周くらいしないと行く事が出来ない。やはり遠いな。でもぜひ行ってみたい。町の山に登ってみた。寒いのであまり人もいなかったが、とても大きく見えた。満月の日にお願いすると願いが叶うと言う。来年も良い年でありますように。
こちらにいると、豊かさとは何かと言う事をよく考えてしまう。毎日懸命になって働き、日本は世界でもトップレベルの便利な生活をしている。しかし、豊かであっても豊かさを実感できない人も多い。特に不景気になると、衣食住が十分に出来ても、車を持っていても何だか貧しいと感じてしまったりする。というのは物質的な豊かさが本当の豊かさでないことがなんとなくわかってしまったからかもしれない。豊かさというものを正しく捉えている人は少ない。昼間からぼーっとしている人でも食べて行く事ができる人がいる。その一方で週6日働いても、ぎりぎりの生活の人も居る。この違いはなぜなんだろう。食堂では昼間から酒を飲んでいる人達がいた。私はつい忙しくハシを動かしてしまうのだが、その横でゆったりと会話を楽しみながらご飯を食べている。こちらの方がきっと貧乏くさく見えるだろうなあ。今日は氷の張った水産試験池に行った。帰りに夕日を見ながら「モンゴルの昔は物がほとんどなかったが、その分時間がたくさんあり、音楽を歌ったりして豊かだったんだよ」とビリゲさんが話してくれた。今は連絡も24時間Eメールで出来る為に日本と同じ早さでできてしまう。でも早くなった分、仕事が減ったというのは聞いた事はない。逆にその分、仕事が増えてしまう。このカラクリに実は気がつかない。そしてさらに悪い事には、通信環境が整う分、仕事も日本と同じく当たり前にできるという錯覚を相手に起こさせてしまうのだ。こちらでは現地の人に仕事を合わせてしまうと、あとで溜まって頭を掻きむしることになるのだが、そんな悩みに気がつかないだろうな。手紙の早さだと返信まで時間がかかる分、相手もゆったりと返信することができるし、それが許される。それが、Eメールの今日、何だか即答しないと悪い気になってしまう。ここの人達の生活も、物が増えてきて生活も便利になってきた分、失われるものもあるのかもしれない。コンピュータの前に座っていて、最近ではよくそんなことばかり考えてしまう。
こちらでは、冬の風物詩の一つにビニールの花があちこちに咲く。このビニールは分解しない分、とてもやっかいだ。今年はビニールも買うようになったので、少なくなると期待していたのだが、一向に減る様子はない。このビニールが埋められれば、まだいいのだが、捨てられたものが風に飛んで散乱してしまう。この話を小学校の先生に話したら、「ゴミ拾いを皆でやらなくてはいけないねえ」と言っていたのだが、だんだんと生活が便利になっていく生活に合わせて、捨てる側の意識も高めて行かなければ、このような悲惨な状況になってしまう。これをおかしいと問題意識を持てればまだいいのだが。それこそ、ビニールのない時代は不便でもゴミなども出なかったと思うのだが、便利さの裏側を見てしまった。ここでは、昔は遊牧民の人達は家も移動ができた。その為、物もそんなになかった分、環境にもやさしく自由な生活だったかもしれない。それにゴミなどはあまり出なかったと思う。便利さと引き換えに持ち物を持つ不自由さ、環境に対しての負荷も改めて考え、伝えて行かなければいけないなと思う。
今の時期、ちょうど夕方に空を見るとひときわ輝く金星と木星を見る事ができる。なかでもこれからの11月30日の夕方と12月1日の夕方の方(1日は特に注目!なぜなら、金星と木星が近づいて、その下に三日月が出て、なんと「ニッコリマーク」が見られるかもしれないからだ。との高橋さんのお話)これは歴史的に見てもとても珍しいことらしい。金星と木星が近づくのはどうでもいいのだが、このニッコリマークを見てニッコリしたいものだなあ。
今、世界的な恐慌と言われている。1929年に大恐慌が起きたと習った覚えがあるが、なぜそうなったのか?歴史をしらない分、再び検証する必要がありそうだ。新聞では「中国が世界経済を救う!」というような見出しが多い中、広州等、南方ではたくさんの会社が潰れているという話も聞く。これからどうなっていくのだろうか?人間は動物と考えると、こうした不安心理が市場をますます冷えさせてしまうのだろう。気のせいか、テロや争いなどの悪いニュースも出てきているからだ。日本でも、不景気に絡んでの争いが増えてきたような気がする。そして急激な円高。ただ、この円高はこちらにいるととてもありがたい。今は1万円で700元前後を推移している。金融というものの影響がこれほど大きい時代もない。ただ、砂漠に入り、遊牧民の家にいると、あまり関係を受けない生活も存在している。こうした所にいると、外の世界と遮断されている分、気分が安定するような気がする。そう思うと最近はテレビや新聞はあまり見たくない。いや、見ない方がいいのかもしれないなと思うときがある。情報化が昔よりも進んだ事により、世界的な連携でこの恐慌を防ぐ事ができるような気もするが、情報化が進みすぎたせいで、悪い情報が早く多く伝わり、それが悪い結果にもなる可能性がある。やはり見ない方がいいのかもしれない。今日も日中で-2℃。天気も景気も懐も暖かくなりたい。