「本物」へのこだわり。

2008-02-20 14:54:15 | デリダ
気づいたんだけど、‘仮の設定’っていうのが苦手みたいだ。

学部生も出席するような入門の授業とかでレジュメを作って発表する時は、けっこう面白がって(楽しんで)やっていることが多くて、あとで、好評だったよ、なんて言っていただけたりもする。

ゼミとか勉強会とかだと、先生や先輩相手になるので、ダメだ。
‘だって、私より分野のこと、わかってる人ばっかじゃん!
どうしてそんな人達に、ぺーぺーの私が説明しなきゃならないの?
バカみたい。バカみたい。’
ってどうしても、そういう子どもっぽい考えを抜け切らない。そんなこと考えて、うまく立ち回れない方がよっぽどバカみたいなんだけど。

人数が少ないと緊張する(=不特定多数に向かう方が得意だ)、ということに加えて、ゼミでのパフォーマンスがまずいのはそういう理由もあるみたいだ。

本物じゃないと納得しない、っていうのは、けっこう一貫している。

基本的に本は原書で読みたいと思ったのは、中学生の時だった。
と言っても、外国語は英語しか読めないので、せめて原語が英語の本は英語で読むことにした。そうすると、訳書を見つけても、‘原書で読まなきゃ’って思うので、それが手に入るまでけっこう時間がかかってめんどくさい。でも、そのめんどくささより、訳書で読む気持ちわるさの方がわたしの中で勝ってしまうんだ。

最近、ジャック=デリダの訳書を手にするたびに‘フランス語、勉強しなきゃ’って思う。もちろん、訳者の方が真剣にひとつひとつの訳語を考えて選んで翻訳を作っててくださるのはとてもありがたいことなんだけど、わたしが直接、デリダのことばに触れて感じることは別のことかもしれない。それは、訳書より不正確な解釈である可能性が高いけど、それがわたしにとってのデリダになりうるっていうか。別の人のフィルターを通してしかデリダに触れられないのは、もうイヤなんだ…。

そういう自分のこだわりをできる限りでは、貫くのもひとつの方法かなと思ってる。努力するのは自分なんだし(仏語を身につけることとか)。

だけど、ゼミの件に関しては、考え方変えた方が正解だろうな。
論文を輪読するにしても、自分がレポーター(報告者)になったら、自分がその論文に関しては一番よくわかってるつもりで行くとか。もちろん、よくわからなかったので一緒に考えさせてください、っていうのもありだけど。
あぁ、そうだ。実際、どこを先生と議論したいか、ピンポイントでもいいから(わたしは本当に細かい所にこだわる、だいたい質問がいつもピンポイントすぎる、自分でわかってても気になるのでやめられない)自分の中で挙げていくことかな。どうして、それが気になるのか言葉にして考えていくこと。
ほんまに先生と一対一で話すこと自体、異常な緊張を誘うんだけど、そのことはもう伝えてあるので、その中でもやらなあかんことはやらなあかんし、その上でやれることをやっていくだけなんやもんね。

納得しないと動けない。納得したら動ける。
納得して動けるんやったら、納得の仕方を工夫する。
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