大神神社境内を南に出て、鎮守の森からも外れた民家の合間に鎮座する小さな神社です。目立った案内がないので、行き過ぎてしまったくらいです。それでも、谷川健一編「日本の神々」で大和岩雄氏が多くのページを割いて論考される程、大神神社の三輪明神信仰の本来の姿を内に秘めたような存在の神社のようです。ご祭神は、櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命。
【式内比定訂正論争】
現在は、「延喜式」神名帳に記載の”神坐日向神社”にあたる式内社だとされていますが、中世以来、諸書では山頂に鎮座する「高宮」こそそれだと唱えられ続けており、明治18年には当時の大神神社松原貴遠宮司が内務卿、山形有朋に対し訂正願届を提出しています。つまり、頂上である神之峰の殿内に"神坐日向神社幸魂奇魂神霊"と記載の標札が有る事を確認したという主張でした。裏には弘化3(1846)年記載と分かる文字も。これに対し、当時の社寺局長は信憑性が疑わしいとして却下してしまいました。
・突き当り、北向きに鎮座します
しかし、1265年の「大神分身類社鈔並附尾」には、”三輪上神社一座 神名帳云、神座日向神社一座・・・日本大国主命 神体杉木”と記載されていたり、明治6年の「大神神社摂末社御由緒調査書」でも、社伝を引用して、”祭神は日向御子神なり、本社境内神峰に鎮座す。旧平等寺所蔵の古地図に神在日向神社と見え、また当社所蔵の古絵図には神上の宮と見えたり”と、山頂の宮こそ日向神社であると明確に書かれていたのです。
つまり本来の山頂の神を、山頂は不便だから、里宮として現在の日向神社の地にも祀ったと考えられ、さらにこの隣が神主の高宮家の自宅であることから、かつて神主家の屋敷内に祀られていた氏神が今の日向神社にされたのだろうと、大和氏は結論付けられています。
【伊勢からの三輪・伊勢同体信仰】
西大寺の叡尊が1285年から1290年にかけて書いたと推測される「三輪大明神縁起」に、三輪の神と天照大神は同体であると記載されており、これがいわゆる"三輪流神道"とされています。叡尊は伊勢神宮の大神宮寺である弘正寺を創立し、三輪の大御輪寺を再興した人ですが、「三輪大明神縁起」は弘正寺で書き写され、それが三輪へ伝わったものである事が注目されます。三輪との同体説を伊勢神道が受け入れているという事です。
【三輪山と天照大神】
天照大神は何となく三輪山から倭姫が伊勢に移したと思いがちですが、日本書紀では天照大神は”笠縫邑"に祀られた書いてるのであって三輪の神との関係は書いていません。それでも内宮の縁起である「皇大神宮儀式帳」(804年)には、天照大神はは一旦、三輪山に鎮座してから伊勢へ遷った、と言っているのです。「倭姫命世記」にも同様の記載があり、天照大神を2年奉斎したという”御室峰上宮”は、山頂の日向神社の事でしょう。
【日向の意味】
神社名の”日向”については、古事記の神武天皇の記述に、「”なお東(ヒムカシ)に行かむと思う”とのらして、即ち日向(ヒムカ)より発たして、筑紫に幸行しき」とあるように、大和の地、つま三輪の地がヒムカシの地で、高千穂は、その大和(朝日)に向くヒムカの地の日向だと理解されます。そして、大和は朝日の登る日本(ヒノモト)になります。一方、その大和は、伊勢に対しては日向(ヒムカ)となるのです。つまり、三輪山は”日本”と”日向”を両有しているといえます。
【大和と伊勢の関係】
伊勢の呉部の人たちには、大和の多の地から移住したという伝承があり、大田姓を名乗って意非多(長田)神社を祀ってきたそうですが、”長田(オサダ)”は敏達期の他田日祀部や、纏向の他田坐天照御魂神社に通じ、三輪から伊勢への人の流れを感じさせます。つまりこのあたりの時期までの伊勢信仰とは、三輪山山頂(日向神社)から拝する朝日の昇る方向、つまり日の本としての大和のさらに東への信仰であり、伊勢神宮も本来その為のものだったと思われるのです。
【天武・持統帝の天照大神】
それを変えたのが、執筆当時('80年代)すでに”王権の簒奪者”と、大和氏が表現した、天武・持統帝夫妻でした。当時まだ三輪山にあった天皇霊を伊勢の日神に取り入れて天皇家の氏神とし、一方の三輪山は単に国つ神の代表になってしまったのです。つまり、三室山の神の天つ神の要素は、記紀編纂者の観念上の操作によって排除されました。しかし、その神格は日向神社として後世まで残りました。伊勢流・三輪流神道に反映しているのは、観念上の操作ではどうにもならない信仰の強さであろう、と結論付けられています。
(以上、参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」)
【伝承】
東出雲王国伝承では、伊勢の日神は、元々は出雲の太陽女神、幸姫命(いわゆヤチマタ比売)だと云います。それを、分家の登美氏、天日方奇日方命(今の日向神社のご祭神の一人と同じ御方)が三輪山に遷します。しかし、九州からの東征軍の争乱などから、丹後の海部氏を介し、伊勢に遷ったと説明しています。つまり、三輪と伊勢のご祭神は同体だという話と通じるようにみえます。持統帝の強い意向により天照大神が誕生することも含めて、三輪から伊勢へ遷ったというおおまかな流れは、大和氏の論考がおおよそ言い当てていたように思います。