[ つくりやまこふん ]
こちらの大古墳も岡山に来たら是非とも墳丘に登りたいと思っていた古墳でした。周囲は岡山平野の広々した田畑が広がっている地ですが、古墳そばに適度な広さの駐車場と造山古墳ビジターセンターが整備されています。2019年に完成した綺麗なセンターは博物館というほどの規模でないですが、岡山県が考える古代史変遷のパネル展示と、ビデオ鑑賞スペースが整えられています。出土資料の展示はありませんが、少々の書籍類の販売はされていて、「造山古墳群伝承物語」という図録のような体裁の出版物を、タイトルに惹かれて購入しました。
麓から後円部を望む。墳丘の断面を見せる部分があります
【造山古墳概要】
全長約350メートル、後円部径約200メートル、高さ約24メートル、後方部幅約215メートルを測る前方後円墳です。ここより大きいのは堺の大仙古墳、石津ヶ丘ミサンザイ古墳、そして古市の誉田御廟山古墳という陵墓しかありませんから、自由に立ち入って墳丘に登れる古墳としては日本一の大きさです。大正10年に周辺の陪塚とされる6つの古墳と共に国指定史跡となりました。古墳は、低い丘陵を切断し土盛りや削平などをして形を整えて造られたもので、近畿地方の古墳のように(注:奈良盆地や古市・百舌鳥の陵墓級の古墳を指していると思われます)廻りの濠をしっかり掘ってそれで盛るという造り方とは異なるらしいです。
三段築造、くびれ部両側に造り出しを設け、墳丘表面には葺石がふかれ各段には円筒埴輪がめぐらされていました。このほか、盾、靫、蓋、家形などの形象埴輪も見つかっています。埋葬施設などの詳細は未調査なので不明ですが、古墳の有り様からみて、被葬者は吉備全域を統括していた大首長であったと考えられます。
前方部の階段を登っての後円部方面
前方部の神社境内に置かれている刳り抜き形の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩(つまり高槻市の今城塚古墳の石棺とおなじ「馬門石」)で、蓋石の方は直弧紋が刻まれているなど九州特有の特徴を持っています。近くの新庄車塚古墳から運ばれたとか、当古墳の前方部から出土したとも伝えれられます。
2022年には後円部に始めてメスをいれた発掘調査も行われました。2023年からは、後円部の崩れた部分を修理しもともとの古墳の姿を復元する工事も行っていると、墳丘上の説明パネルに書かれていました。
前方部中央から後円部を見る
【「造山古墳群伝承物語」】
関西大学勤務時に造山古墳のミュオグラフィ測定を行われた角谷賢二氏が所長を務める国際美術研究所と、造山古墳の地域でボランティア活動を通じて造山古墳を見守り普及活動をしてきた造山古墳鮮生会の連名で発行、岡山大学の清家章教授と岡山市教育委員会が協力しています。初回発行は2022年12月です。角谷氏と清家氏の交流から発案されたもので、最新科学を用いた調査が進む一方、その前に地域の方々と歩んできた「歴史」があり、その地域の人しか知らない伝承や出土資料を散逸してしまう前にまとめようと製作された冊子です。造山古墳だけでなく周囲に今も残る各陪冢に関する遺物その他に関わる地域の方々のインタビュー内容が、箇条書き形式で記載されています。各ページには映像へリンクするQRコードも掲示され、映像でも確認(まだあまり見ていませんが)できます。その中から、造山古墳に関する主な話題をピックアップします。
後円部から造山古墳ビジターセンター(真ん中)方面
【造山古墳出土の埴輪】
造山古墳は埋葬施設が発掘されていないので、出土物として確認されているのは埴輪のみのようです。岡山市埋蔵文化財センターに展示されている、墳丘から出土した円筒埴輪について、センター長の安川満氏が述べられています。突帯により7段となっている全体が残る中型の円筒埴輪と、部分的に発掘された(おそらく)12段円筒埴輪です。ともに黒い焼きムラがなく、穴窯による焼成です。ハケ目はBb種ヨコハケで、太田茶臼山古墳の主なものと同じですね。古墳は5世紀前半から中頃の築造と考えられます。
岡山市埋蔵文化センターにはこれらとは別の寄贈された円筒埴輪もあります。まず、個人の方が自宅で長い間飾っていた(!?)のを寄贈されたものです。こちらもヨコハケに工具を止めた痕跡があり、造山古墳からの出土で間違いないそうです。さらに、元々高松中学校が所蔵していた円筒埴輪があり、これはかつて春成秀爾先生が報告されたものです。こちらには黒斑がありますが、安川氏は焼く時に他の埴輪と接した部分ではと推定されています。
後円部から北側の絶景
造山古墳の円筒埴輪は7段と12段で、陪冢にあったような4段は見つかってないです。なお、岡山県で次に大きい前方後円墳である作山古墳の方では円筒埴輪は4段と7段が見つかっています。やはり造山古墳の埋葬者が大王級の人である事が想像されます。
高松中学校では今も歴史クラブによる埴輪などのコレクションが残っていて、その中に造山周辺で収集した家形埴輪の破片があります。造山古墳鮮生会の会長で本書でも多く伝承を語っておられる定廣好和氏が、中学校時代の昭和35年に収集したものです。それにしても、長い年月の間に埴輪が地域の人たちに持ち出されている様が何となく感じられます。
後円部墳丘。後円部は45メートルの平坦部があり、微妙に一筋の凹みがあります
【古地図と造山古墳の周濠跡】
造山古墳周辺の古地図をたよりに、周濠の有った可能性についての伝承が種々語られています。古地図は明治20年に地方自治制実施用として策定された切絵図を元に、昭和60年に西岡馨氏が調整したものです。その地図では、後円部の円弧に沿って田んぼが2列に並んでいました。先の定廣氏は堀や周提が存在した根拠だろうという自説を語っておられます。後円部の東側には、「掘り返し」という小字名も残ってその事を思わせます。
定廣氏は造山古墳の第1周提の内側のところに自宅を構えておられるそうですが、そのあたりの道の真ん中あたりが沈んでいるところがあり、定廣氏は堀だったかもしれない証拠と見ておられます。小さい頃には何軒か家が建っていましたが、それ以外の処は膝の上あたりまでぬかるむような湿地だったとのこと。定廣氏の家は今だに建て付きが悪く、年数が経つほど沈んでいくとおっしゃっています。
後円部から前方部方面。3列の桜の木が地域の人たちで植えられました
古墳周辺をかつて発掘調査されたという岡山大学の新納泉名誉教授によると、上記概要で記したように丘陵から平地に移っていく場所に古墳を造っていて、前方部と後円部で標高がだいぶ違うので、一周をまわるような濠を造るのは無理なようです。しかし、後円部の東側やくびれ部上、前方部の西側、前方部の端などを発掘調査した結果からすると、後円部の東側あたりは少なくとも一重の濠を造っていた事は確かだと考えられています。
造山古墳の陪塚は6つ残りますが、定廣氏による伝承では地元では「7つぐろ」と呼ばれていて、その消えたと思われる古墳が古地図に鉛筆で記されているそうです。地元ではこの造山古墳の後円部の正面にあたる地をジングリ山と読んでいます。
前方部の三宝荒神社。境内の奥行方向は前方部の短手方向です。やはり大きいです
【前方部の三宝荒神社と石棺】
前方部には三宝荒神社が鎮座していて、その境内に舟形石棺や、石棺の蓋と思しき石が置かれています。神社について、安川満氏は記録や伝承はほとんどなく、創建や由緒、来歴は不明なようです。一方、定廣氏は、はるか昔には神社は下にあり、それが後円部の東側すぐの所の「堂の元」の地名として残っているという伝承を語っています。
馬門石の石棺。蓋は写真を撮っていません
本殿には棟札が残り、その一つから弘化2(1845)年に前身の建物から建て替えられた事がわかります。また境内の石階脇にある石碑には文政4(1821)年と刻まれ石階の奉納に関わるとみられることから、1821年に周囲の石垣も整備された可能性が高いと安川氏は考えられます。そしてこの時に、舟形石棺などは掘り出されたか、または持ち込まれたとみられるのです。さほど多くない造成土を近隣の古墳(新庄車塚古墳)を切り崩してまで持ち込むとは考えにくく、やはり当社境内や周辺を掘削して造成土を採取したのではないかと考えておきたい、と安川氏はまとめられています。
組み合わせ式のような彫り込み
大正2(1913)年に、陪塚の榊山古墳や千足古墳が乱掘されていた事から、和田千吉氏が出土物の調査に訪れました。この時和田氏は村民から「石棺が70年ほど前に此の宮の前より出て・・」との伝えを聞いています。となると70年前は1840年代であり、棟札の神社建て替えの時期と重なります。社殿再建と造成の事業が重なって話が伝わったものだろうとのことです。
石棺は刳り抜き式ですが、板状の石を組み合わせたような形態をしているとされていて、目視でも確認できました。横から見ると、左右の小口の形状が異なり、九州でみられる舟形石棺です。畿内は組み合わせ式の長持型石棺が王墓の石棺として一般的ですが、この石棺はその畿内の影響を受けたような形だと、安川氏は見られています。
本殿と厄神石
(参考文献:造山古墳説明掲示、「造山古墳群伝承物語」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 山陽」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、久世仁士「百舌鳥古墳群をあるく」「古市古墳群をあるく」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)