摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

等彌神社(とみじんじゃ:桜井市桜井字能登)- 伊勢神宮の中重鳥居を譲り受けた、紅葉も美しい古代祭祀霊畤

2019年08月24日 | 奈良・大和


神社の前の通りはもちろんの事、桜井市駅周辺からも、5月5日の例祭を知らせるおびただしい数の旗が立てられていて、現在も地域で篤く信仰されている事が感じられました。宗像神社から歩いたのですが、マップアプリでは隣の天理教桜井大教会の敷地に案内されてしまいました。志貴御県坐神社も天理教の隣(というより天理教が後でしょうが)だったなと少し気になりました。。。


・神社前通り

まず目に入る一の鳥居(タイトル写真)、実は伊勢神宮内宮の正殿の最も近くにあった中重鳥居だったもので、2013年の式年遷宮の機会にこの等彌神社より申請して譲渡され、2015年に設置されたものです。そしてすぐ先にある二の鳥居の先からは、こんもりと茂った木々でしっとりと薄暗く、荘厳とも云いたい空間になります。身が引き締まりました。のほほんと歩ける雰囲気ではないです。ただ、秋には紅葉が美しく、ライトアップもしていて親しみやすさも有ります。神社名は、鳥見山の名を万葉仮名で記したものと、宮司の佐藤高静氏は説明されています。


・二の鳥居


・参道

上記のように伊勢神宮に厚遇されるのは、やはり「日本書紀」の神武天皇4年、神武帝が勝利をおさめ建国した後に、この鳥見山で天津神々にそのご報告をする「大嘗会」が営まれたご由緒によるのでしょうか。”霊畤を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小野(カミツヲノ)の榛原、下小野(シモツヲノ)の榛原”と称し、天神を祀ったとあります。


・下津尾社 拝殿


・下津尾社本殿を横から

「延喜式」神名帳の式上郡式内小社。本殿は「日本書紀」にある通り2つに分かれており、奥の上津尾社が天照大神(オオヒルメムチ命)、降りた所の下津尾社が八幡大神と春日大神をご祭神とすると神社は説明しています。社記によると、1112年、豪雨による山崩れにより、現在の上津尾社の背後の斎場山から現在地付近に遷ったそうです。明治8年に能登宮が再建されるまでは、下津尾社が中心でした。下津尾社の前方にはかつて神宮寺として能登寺があり、鎌倉~室町にかけての巴紋軒丸瓦が出土し往時を忍ばせます。

境内一帯としても古代の遺跡地であり、晩期縄文式土器、末期弥生式土器、土師器などが出土。また、旧社地の斎場山からは祭祀用臼玉多数が、霊畤拝所標石のところから高杯形土師器多数が出土しています。埴輪窯も発見されており、形象埴輪や飛鳥時代の土師器、須恵器も出土しました。


・上津尾社拝殿


・下津尾社本殿を横から覗く

ご由緒にある神武帝と当社の関係は、幕末の頃から高まったものだそうで、その印として昭和11年に参道入り口に”神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑”が建てられています。しかし、「日本書紀通証」や「書記集解」などの研究書は、鳥見の霊畤を式上郡から宇陀郡にかけての広大な地域で考えており、当社と結びつける「大日本史」のような見解は少ないのだとか。「日本書紀通釈」では、鳥見の霊畤の所在地は宇陀郡榛原村の鳥見山で、墨坂の北に霊畤の跡が有ると述べられているようです。

なお、「新撰姓氏録」には、登美連は饒速日命の6世孫伊香色乎命の後だとしており、「古事記」に饒速日命が登美彦の妹、登美夜姫を娶すと有る事から、ご祭神を饒速日命とする「特選神名牒」などの説も有るらしいです。
(参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」、ウーマンライフWEB 版奈良県観光公式サイト


・入口に掲示の案内図



東出雲王国伝承では、鳥見山は、元々東出雲王国・富(向)氏の分家で高槻市の"登美の里"を経由してこの地に入った豪族、登美氏にちなんで”登美山”と書かれた、と云います(昭和初期の石碑にもこの字が刻まれています)。当時はトビ山と読んだそうです。アマ氏(海部氏、尾張氏)や磯城・登美氏らがヤマトを支配していた時代、現在等彌神社のある登美山の上に代表者が集まり、三輪山を遥拝する祭が行われていました。「古語拾遺」には、”天富命が、霊畤を登美山の中に立てた”と書かれています。

それが、九州からの2回目の東征軍に攻められた際に、その三輪山南方地域が東征軍に占領されてしまいます。そこで登美氏~賀茂氏は三輪山東方の鳥見山を新たな霊畤にして密かに遥拝を続けたのです。それが宇陀市榛原の北側でした。だから、鳥見山が2つ存在するらしいです。


・例祭に向けてテントなど準備していました


登美氏と磯城県主は同じだと出雲伝承は語るので、それを前提とすると、共に饒速日命の後とされる(奈良市の登弥神社では饒速日命をご祭神として祀る)のは物部氏が登美氏より優勢になった事からそのように書かれただろう、との理解になります。登美氏は純粋に出雲系だと出雲伝承の系図は語ります。

伊勢神宮内宮の鳥居を譲り受けた話ですが、伊勢と三輪は同体で、元が三輪山だと三輪流神道で信仰されてきたし、出雲伝承もその通りですから、伊勢神宮が三輪山を遥拝した地の等彌神社に優先して鳥居を譲渡するのは、むしろ当然の事と云って良いのではないでしょうか。つまり、そういうことで伊勢神宮と等彌神社が申し合わせたと想像すると、とても面白いです。


拝礼の際は、”登美の里町のございます大阪は高槻市からやってまいりました”と念じました。。。次の機会は、鳥見山に登りたいと思います。


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