摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

檜原神社(桜井市三輪)- 三ツ鳥居 を持つ”元伊勢”の、ある古典に記されたご祭神 -

2019年06月12日 | 奈良・大和


穴師坐兵主神社から歩いて、ここは割と距離がある所ですが、いよいよ三輪山の麓に入っていきます。左手に森を見ながら歩くと、あの三つ鳥居のある社の境内にたどり着きます。

 

【境内】

瑞垣の中には、その三つ鳥居と豊鋤入姫を祀る豊鍬入姫宮のみが鎮座する、独特の境内の神社です。しかし、当社や旧平等寺(大神大社の神宮寺で、神仏分離令により廃止されたが、現在は再興されている)所蔵の古地図や「享保中大神社覚書」での記述から、昔は拝殿や鳥居、御橋などが設けられていた事は明確です。

 

 

【ご由緒】

御由緒は、記紀説話の基本中の基本です。元々崇神天皇の住まう殿内に、天照大神と倭大国魂の二神を並祀していましたが、疫病が大流行したので、豊鋤入姫に託して天照大神が遷されたのがこの地でした(倭大国魂は大和神社の旧鎮座地へ)。そして、倭姫によって伊勢に遷されたので、ここは「元伊勢」の称号を持ちます(御朱印にもスタンプで明記)。一方、「倭姫命世記」の記載や伊勢神宮の社伝では、一時祀られたのは三輪山だとされているのですが、記紀は笠縫邑だと云っているのです。

【ご祭神】

祭神は、「大神神社摂末社由緒調査書」が記す社伝では、天照大御神を中央、伊弉諾尊を左、そして伊弉冊尊を右に祀るとしています。当社の創祀は、慶長年間(1596-1615年)に、伊勢神宮内宮の荒木田氏が神主として、天照大神をお迎えしたと「三輪神社略縁起並独案内」に書かれてるそうですが、これは間違いで、「大和志料」は、平等寺の古地図から慶長年間以前には創祀されており、荒木田氏が勧請したのは当社の末社の事だろうという事です。末社って何?とも思いますが。。。という事で、式外社です。なお、三ツ鳥居の復元は1965年、そして豊鍬入姫宮は1986年に鎮斎されてます。

また、「和州旧跡幽考」という古典に、”豊受気大神のしばらく鎮座した跡という所が檜原にあるが、そのようにいう書物をしらない”という気になる記述も見受けられるようです。

(以上、参考文献:谷川健一編「日本の神々」)


・注連縄越しに二上山が。奈良県景観資産です

 

【伝承】

東出雲伝承の話は、丁度、上記の「和州旧跡霊考」の話に繋がるのではないかと思います。このような文献が有るという事が、とても興味深いです。つまり、以前の伊勢神宮の月夜見神社・月読神社の記事で触れさせていただいた通り、笠縫邑におられた神は豊受大神の元々のお姿の神であり、九州から東征してきたイクメ王と連合した姫巫女である、゛豊来入姫゛が、豊国宇佐の神をこの笠縫に遷したという話です。

そして、太陽神同様、この神も丹後の海部氏を介して、伊勢に遷り、そこで祀られていたという主張でした。天武・持統帝の伊勢神宮重視とそれに沿った神宮の祭祀改革により、豊受大神は天照大神の食事をつかさどる神、という説明に変えられたらしいです。だから、”元伊勢”である事は史実ということになるのです。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 穴師坐兵主神社、相撲神社(... | トップ | 狭井神社・久延彦神社(桜井... »
最新の画像もっと見る

奈良・大和」カテゴリの最新記事