日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2015-02-17 19:09:49 | 大分中央ウィークリー

創世記20章13節である。「かつて、神がわたしを父の家か

ら離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に

『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」という。パレスチナに旱魃が襲ってエジプトへ逃避したときにも、これと同じことを12章13節でいっている。

 

人間の社会での習慣の違いもありアブラハムの言い分に説得力があったのか、不明である。さらに本文批評によれば、妹を妻にするというのは人間社会にありそうにない話なので、元来ここになかったものとの見解もある。しかし物語をそのまま受け入れ、神働きとするならその解釈は、もはや、彼の相手が、妹が妻であっても、なかっても、どちらでもよい

 

14節である。「アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、」という。とにかく相手の言い分はどうであれ、アビメレクは自分の得心の行くようにした。それによると先ず見える贈り物でその本心を表そうとしている。「牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、」という。

 

9節で「あなたはしてはならないことをした」といって激怒したが、その怒りの大きさに応えるように、自分の本心、その気持ちを表し、謝罪の意味をこめて十分豊かな贈り物を用意した。6~7節の、夢の中の神の言葉に対するアビメレクの衝撃の大きさは、単なる古代の問題として済まされない。


牧 会 通 信

2015-02-17 17:51:44 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第9歌(カッコ内は筆子、その2)

◯ わたしにはよく見て取れた、師が言ひかけたことを、始めのとは異る次の他の言葉で、蔽い隠したのが。

  それにも拘らず師の言葉がわたしに恐怖を惹き起した、断切られた言葉を恐らく実際よりも悪く曲解したからだ。

「この邪悪な巻貝(ふち)の底に下ることがあるのですか、刑罰としては不具にされた希望があるだけの第一圏(かこい)の誰かが?」

(ここまで前回)

◯かう訪ねると、師は答へた、「わたしらの内の誰かが、わたしが進んでる道を辿るのは、めつたにないことだ。

実を言へば、わたしは一度ここに下つたことがある、霊たちを自身の肉体に呼び戻した、あの残酷なエリトン(「エリトの子」の意、テツサリアの巫女、一兵士の魂を呼び出す)魔術に強ひられて。

わたしが肉体を離れてまもなく、あの魔女はわたしをこの壁の中に入らせた、チュダの園から一つの霊を引出すために。(つづく)

 

◯2015年2月15日は、今年

の第七主日である。日聖協の「聖書

愛読こよみ」は、詩篇31編15

~25節である。15節に「あなた

こそわたしの神」と歌います。これ

は信頼の歌と呼ばれています。男

子一端外に出れば七人の敵あり、

という。それゆえ、この神信頼の

力がすべての敵をねじ伏せます。

敵を恐れる必要は全くありません。

 

◯写真は、去年2月に購入した鉢

植え梅が、今年も花を咲かせまし

た。肥やしもやっていないで、一

年間水だけでしのいだ梅に驚き!