五、「教会とわたしたち」(299)
4.近代の教会の夜明け
―宗教改革―スコットランド
(このジェームス六世が1歳の誕生日を迎える直前、1567年6月、父ダーリン卿は不審な死を遂げ、母メアリーと引き離された。ジェームスが王位に就いたが、やがて父の暗殺の嫌疑が母メアリーの三番目の夫に及び、母は1568年イングランドに亡命し、以後、1587年に処刑されるまでジェームス六世と会うことはなかった。エディンバラ条約締結以後、政治的権力を、プロテスタント貴族が握ったので、幼年ジェームス六世の摂政も、プロテスタント信仰者でノックスを支え、改革運動に大いに貢献した母方の叔父に当たるマリー伯、ジェームス・スチュアートが任命された。そのため、(ここまで前回)
スコットランド改革教会はその将来が安定したかに見えたがそうではなかった。幼年ジェームスが1666年7月に戴冠式を挙げて即位し、マリー伯がその摂政となったので、かえって前皇女メアリーの残党たちを刺激した。その摂政マリー伯に安心できない社会状況がなお続いた。マリー伯によってその地位を追われたボスウエルハムのハミルトンが、仲間と共にマリー伯暗殺の謀略をめぐらし、1570年、ついに彼を暗殺した。この突発事件は全国民を驚かせた。マリー伯の死は全国民によって痛く惜しまれ、彼の敵すらも彼の死を惜しんだといわれるほどであった。またこのことは(つづく)
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