日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

夕礼拝  2015年9月20日(日) 

2015-09-21 03:01:12 | 大分中央ウィークリー

説 教 「心に光を与える神」            牧師 南茂 昭夫

創世記        1章    1~   5節   

マタイによる福音書  6章    1~   8節

賛美歌 219、 353、 475、 28

     (1)          

本日は、マタイによる福音書6章1節の本文からです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」といいます。わたしたちの信仰の生活について具体的に教えるものの代表的なものは主イエスの山上の説教であります。5章1節から7章全体29節で終わるのであります。マタイでは、このような説教が五つあります。その第一は、この山上の説教です。

第二は、十二人の弟子を選び派遣されるときの弟子たちへの説教。第三は一三章一節からで、大勢の群衆と話された説教、第四は、また弟子たちに話され一八章一~三五節です。第五はオリーブ山で、最後に弟子たちに話され、二四章三節から二五章四六節など、でした。それぞれに工夫されて具体的な例(たとえ)を挙げてのお話がされています。それらは皆、「イエスはこれらの言葉を語り終えると」という、定型文で結ばれています。

(2)

山上の説教のこの部分は、宗教的な「施しと祈り」であります。いわゆる信仰の実践としての基本となる二つであります。信仰者の外への働きかけと、祈りによる自分自身の信仰の訓練でありました。まず、「人の前で善行を」といいます。ここは口語訳聖書では、「自分の義を」となっています。ギリシャ語本文は「義(ディカイオスネー)」であります。この「義」という言葉は、神ご自身の属性の一つで、「愛」と並んで大事なものです。

属性であるから単なる人間が隣人とのバランスで考えたり思いついたりする道徳的正義以上のものであります。聖なる神より来るところの絶対的命令であり、これに背く者は神の怒りと審判とが伴う。旧約においては神の義は律法を通して示され、新約においては、キリストが律法を満たしてくださるのであるから、キリストの福音を信ずる信仰によってあらわされます。

従って主イエスは「人の(目の)前で行わないように」といいます。しかし公的な場所での信仰の実践を抑制しておられるのではありません。人に見てもらって偽善者となるのを注意しておられるのです。とくに施しの時です。

2節です。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」と言っておられます。

(3)

ここの「施し」という原語はギリシャ語では、エレモスネーですが、ヘブライ語では「義」の「ツェデク」です。ヘブライ語では「義」すなわち、それは「施し」なのです。イエスは、ここで特別に注意するためにヘブライ語的感覚でここでは1節の「善行(「義」)」と並べて使っておられるようです。この時代のユダヤでは、毎日各町村で多くの人が貧民のために、また二人の会堂役員が家ごとに「施し」を集めて歩き、安息日には会堂でそれを集計するという方法をとっていたようです(Ⅰコリ16・2)。ここではファリサイ派の人たちのことを偽善者と言っています。神に対して信仰の敬虔を装っていたようです。

3節「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。といいます。秘密にしておきなさいという意味です。信仰の敬虔を保持するためでした。そのことは要するに神にのみ知らせるためでありました。従って4節で「父が、あなたに報いてくださる」というのでありました。

さてもう一つ大事な信仰の生活があります。「祈り」でありました。これはキリスト者はその生活に欠いてはならないものであります。祈りは実践でしか学べないといったのは、19世紀スコットランドの神学者P・Tフォーサイスでありました。それゆえ信仰の生活では必須の生活手段でありました。彼はこう書いている。「祈りについて書くことは困難で恐ろしくさえあり、聖なる契約の箱に触れるような恐怖を感じさせる。祈りの原理よりもその実践により多く労苦したものでなければ、祈りについて、資格はない。」(「祈りの精神」ヨルダン社、斉藤剛毅訳、13頁」といい切っています。

ところが、イエスの警告は8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」といっておられます。つまりくどくど多くを祈る必要がないといっておられるのであります。ですから、そのために必要なのは、わたしたちの心の中の暗闇を照らすところの、すべてを御存じである父なる神の光であります。何をどのように祈るのか、真っ暗闇の心の中を神の光であられるイエスによって照らしていただかねばなりません。

(4)

旧約聖書は創世記1章1~5節です。その3節。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」といわれています。創世記のここでは4節の朝晩の光でありますが、実際には今日に至る永遠の「光」の創造でありますから、新約聖書のイエスがお出でになった現在は、イエスのいう心の暗闇を照らす「光」です。信仰こそ唯一の神の業(ヨハ6・29)でありますから、イエスが信じられるなら、すべてが満たされて、くどくど祈る必要がありません。

救い主イエスの父なる神よ。大人も子供も、イエスが真の光として御出でになり、信じて十字架と復活のイエスを信じていつも短く祈らせてください。原発が再び稼働されました。当事者に原発の危険をより強く認識させてください。若者にはキリストの十字架の贖いの恵みを、病人には癒しを、高齢者には復活の命を、神学生には勉学の力を、主の御名よって、アーメン


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