日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

故人記念特別伝道礼拝2015年9月20日 (司会 長老 辛島 光一)

2015-09-21 02:48:27 | 今週の朝礼拝と夕礼拝礼拝説教全文

説 教「神の業がこの人に現れるため」      牧師 南茂 昭夫

イザヤ書        42章     5~  9節

ヨハネによる福音書    9章     1~ 12節

賛美歌(交36) 7、351、463、28  

(1)                    

まず、ヨハネの福音書9章1節です。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目に見えない人を見かけられた。」といいます。いわゆる、ヨハネのここ9章は盲人に関する話であり、更に言えはイエスによる盲人開眼の神の御業についてのお話であります。世にいう聖書の奇跡物語の一つであります。

これは8章の終りと連続しています。「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」といいますから、「身を隠して」といいますのは神殿の中で神殿当局のユダヤ人に追い出されるようにして神殿を後にされました。そして、ここの始まりでは、「さて、イエスは通りすがりに」となっているのであります。その道の神殿からさほど遠くない「通りすがり」と思われます。

(2)

そしてここに問題が発生しました。「生まれつき目の見えない人を見かけられた。」といいます。この人は、道端で物乞いしていた盲人です。こういうケースはこの町ではよく見かけるものですから、おそらく通り過ぎようとされたのかもしれません。ところが弟子たちの方が、よい宗教的教材と考えたのでしょう。この盲人を教材にしてイエスに対して、問題を投げかけたのでありました。目の不自由な盲人には実に失礼な話でありました。

2節、「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ(「先生」という意味、筆者)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』~」といいます。まあ、失礼な話ですが、思えば気の毒なことに、この人は生まれつきの盲人でありました。聖書の世界の紀元1世紀の頃のユダヤの社会での普通の考え方ようであります。しかしこの考えは人間の社会では今日といえども通用する話であります。仏教用語では、〝前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされる〟ことをいいます。いわゆる因果応報の思想であります。二千年の時間的隔たりがありません。

さて、この時のイエスのお答えが続きますが、単に新しいお言葉で済まされないお言葉です。それは当時のユダヤの社会はもとよりこの世の世界中の時代を越えた真理であります。天地創造の神、全知万能の神の実在を現わすだけではなく、人がここで全能の神に出遭うお言葉であります。

(3)

反対にいえば、今の有限の世界のわたしたちの全存在がその根底から問われる、また支えられるお言葉であります。3節です。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」と。イエスは、その男の盲目についての質問に対する単なる返答では済まされないのです。つまり人間の苦難全体と人間にそれがどうかかわっているかについての、先の因果応報の思想との、人間の因果性との関係の探求という点で、非常に重要な発言が吐露されるということであります。「だれの罪か」との質問をお受けになって、そのお答えは「神の業がこの人に現れるためである。」というのでした。安閑として人間本位に暮らしている人間には厳しいお答えです。極めて重要であります。

このイエスはきっぱりと、「だれの罪か」に対して、鉄槌をかざして拒否されているといえます。「ああ、そうか、ええことをおっしゃる」ではないのです。わたしたちに水やガス、電気が必要です。大事です。けれどもそれで支えられて歩いていますし、そうでありましょう。しかしそれは考えが甘すぎる。人間にはもっと大事なものがあると、厳しくおっしゃるのです。

何がどのようになったのか。5~9節をお読みします。「『わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いしていたのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』という者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」と。イエスの「世の光」が一端人間の目に入ると、他の人は見違えて人の意見が分かれるほど人が変わったと伝えています。つまり、これが新しい信仰の人間の姿です。

どういうことかといいますと、難しいかもしれませんが、このようにして泥を塗って人の目に光を入れるということは、この世の目に見えることだけがすべてであると考える人間の世界に対して、眼科の医師が白内障の目を明るくするのをも含めて、神が、この世の有限性の指導権を克服した、ということをわたしたちに、大分市の世界に厳しく主イエスが泥で説教するのです。

(4)

旧約聖書は、第ニイザヤです。前538年バビロンの捕囚からのユダヤ人の解放を告げるイザヤです。いわく、42章6節。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形作り、あなたを立てた。」と。この信仰が人間に必要、必須条件です。

われらの救い主イエスの父なる神よ。子供たちも大人も、あなたがその最善をもってわたしたちと契約を結んであたらしい世界の創造に、日常生活で神の創造の業に与らせ、あなたのお言葉に聞いて従う信仰者としてください。原発の再稼働を増やさないように。若者には創造の神を信じ従わせ、病人に癒し、高齢者に復活の命、神学生に学びを、主の御名によって。アーメン


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