五、「教会とわたしたち」(459) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」
初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その99)
最終篇に入ります。
第二十二編 神の国永遠の浄福
29.来るべき世において聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。
わたしらちが神のもとへ行くのは信仰によってであり、またそれは肉体の働きではなく、こころの働きであることにはすべての人の考えに一致している。しかし、霊のからだがどのような能力を持つのか、わたしたちは知らない。わたしが語っていることを、だれも体験したことがないからである。わたしたちの理解力が及ばず、聖書の権威も助けにならないような場合には、「人の考えは乱れがちで、その見るところも不確かである」という知恵(ソロモンの知恵 九・一四)あてはまる。
哲学者たちの(前回はここまで) 論議によれば、叡智的な事物は精神によって、物質的な事物は感覚によって知覚される。肉体は叡智的な事物を知覚し得ないし、精神は物質的な事物を知覚することができない。そして、もしこの論議が正しければ、たとえ霊のからだといっても、肉眼をもって神を見ることは全く不可能だということになるであろう。しかし、この帰結は理性そのものと預言者たちの権威とによってしりぞけられる。神が身体的事柄を知っておられることを否定するような真理の敵は、いったいだれであろうか。神はこれらを認知するための眼を備えたからだを持っておられるとでも言うのだろうか。・・・・・・
そのときに、わたしたちが新しい天と地の物質的からだを、(つづく)(「神の国」出村彰訳)
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