創世記24章66節である。「僕は、自分が成し遂げたことをすべてに報告した。」という。「すべて~報告した」というが、長い旅路のことであるから、立ち話はできない。どこかに腰を下して、24章11節あたりの、ナホルの町外れの井戸のそばに休憩をとって祈ったときからの劇的な出会いの話を話し始めたのであろう。
その報告を今、聞いた。しかし無事に目的を達成したことを振り返って単なる旅行記を読むのでない。編集者とともに神の大きなご計画と神の働きとしての嫁探しの旅であったことを考えねばならない。われわれも神と共にある人生はかくのごときである。
67節である。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを向かえて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」と。嫁を探して長旅を終えて、無事イサクのところにつれて来られたリベカはベールをかぶってそばに立っていたのであろう。そのリベカと出会ったときのヤコブの気持ちはどうであったか。その喜びを察して余りある。詩編19編8節に「太陽は、花婿が天蓋から出るように 天の果てから出で立ち 天の果てを目指して行く」と歌われる。その先、「千里の道も遠しとせず」といわれる、花婿としての新しい旅立ちであった。
早速ながらイサクは、連れて行くべきところは、前もって決めていたようである。127歳でその生涯を閉じた(23・1)母サラが住んで生活していた天幕であった。その天幕で、恐らく簡潔な家族だけの結婚式を挙げたのであろうか。「彼はリベカを向かえて妻とした。」といわれる。そしてイサクの嫁リベカへの気持ちは、押して知るべしであった。ここに「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」という。
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