創世記24章35節である。「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。」と。アブラハムの僕はリベカのことを一言も言わず、主人アブラハムのことを語り始めた。おそらく17章のアブラハムが99歳の時の神の祝福の言葉を思い出していたのであろう。17章6節、「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。~」ということを。
「主はわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、~」と語り始めた。旅の十頭の羊を思い出させながら、主人のアブラハムにあったままを語り始めました。聞き手の信頼を勝ち取る話法である。使徒言行録の2章、ペンテコステの時のペトロの説教も同じように「今は朝の9時ですから~酒によっているのではありません。」と語り始めた。
36節である。「奥様のサラは、年をとっていましたのに、わたしの主人との間に男の子を産みました。その子にわたしの主人は全財産をお譲りになったのです。」という。「サラは、年をとっていましたのに、」というところは、17章1節に、三つの契約を一方的に立てられた。その一つは、先週の「多くの国民の父」となること。第二は、「カナンの土地を、与える。」と。第三は、彼の妻サラによって「あなたに男の子を与えよう。」というもの。このときに、「百歳の男に子供が~」といって笑ったと(17:17)ある。
第三の神の約束が実現して、今ここで僕がいう。「奥様のサラは、年をとっていましたのに、わたしの主人との間に男の子を産みました。」と。神の実行力は不思議である。人には実現不可能と思わせて、笑わせられるが、それは人間の神実存についての不明の愚かさを知らせるためのものであった。ここでは神の実行力を淡々と僕に語らせる。
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