五、「教会とわたしたち」(468) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」
初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その108)
最終篇に入ります。
第二十二編 神の国永遠の浄福
30,神の国の永遠の浄福と永遠の安息について。
しかし、さまざまの段階の功績に応じて与えられる名誉や栄光がどのようなものであるか、だれが想像をしたり、ましてや言い表わしたりで
きだろうか。これが存在するであろうことには疑いはない。かの祝福された国においてはこのような恵み、すなわち(前回はここまで) 天使
が大天使をうらやむことはないように、下の者が上の者をうらやむことはないであろう。だれも自分が受けたもの以上になろうとは願わな
いが、しかも〔多くの〕賜物を受けている者と密接に結びつけられている。からだにおいても、指は目になろうとは望まない。全身の四肢が
それぞれ調和ある働きを保ちつつ、一つに結ばれているからである。それゆえに、たとえだれかが他の人よりもわずかしか受けていない
としても、彼は分に安んじ、それ以上を望まないという賜物を受けている。
さらにまた、彼らがもはや罪のうちにあって喜ぶことがないからと言っても、自由意思を失ったことにはならない。意志は罪のうちにあって
喜ぶことから解放され、決して罪を犯すことがないことを喜びとするに至るときの方が、いっそう自由である。人間が初めて正しく造られた
ときに与えられていた意志の自由は、罪を犯さないことのできる(posse non peccare)能力であった。しかし、彼は罪を犯すこともできた
のである。ところが、終極的な賜物は、(つづく)(「神の国」出村彰訳)
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