Beingness の参考 - 離脱 - 01 - マイスター・エックハルト -
マイスター・エックハルトは、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者。 エックハルトは、ドイツのテューリンゲンにて生まれる。タンバハという村で生まれたと推測されている。 パリ大学にてマイスターの称号を受ける。トマス・アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行った。
~宗教とスピリチュアルの終焉~ 全23回
講読23[最終回]【論述編】 離脱 全てを突破した悟りの果てに - YouTube
講読23[最終回]【論述編】 離脱 全てを突破した悟りの果てに
2014/11/28 に公開
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart,1260年頃 - 1328年頃)説教集より「論述」を朗読。
講読編では朗読の合間に、解釈やコメントを流れ来るままに入れています。
~宗教とスピリチュアルの終焉~ 最終回 離脱は「離脱を離脱」してこそ離脱である
種々の聖典や聖者の言葉は、表現方法や視点や精神段階に応じて違いがあるが、本質的にはただ一つのことを説いている。
聖書や仏典の用語に惑わされず、それらを突き抜け、本質のみを引き出し一つにまとめていく。
「神を突破する」とは、「涅槃や悟りの境地をさらに超える」とは?
イエス、老子、ブッダ、ヨガ、ヴェーダなどが「同じ」であるとは?
なぜ心を徹底的に「貧しく」する必要があるのか。
「祈り」「瞑想」様々な行法やヨガの真の意義について・・・などなど。
「ただ今ここに留まる・在る」だけでは、まだ究極ではない。
マイスター・エックハルトのどこまでも「徹底した」真理に触れてみましょう。
参考サイト:
マイスター・エックハルト
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart) 1260年頃 - 1328年頃
エックハルトは1260年頃ドイツで生まれた。亡くなったのは1328年頃とされている。パリ大学神学部教授であり、また多くの修道院の建設にも精力的に活動した人であった。
もし私が存在していなかったらば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったら、神は「神」でなかったであろう。 (説教)
マイスター・エックハルトとは誰だったのか - NAVER まとめ
Bloga enneagramica (ブロガ・エニアグラミカ) : マイスター・エックハルトに真のキリスト教の何たるかを教えたのは、イスラム教徒のアヴィケンナであった
「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」
マイスター・エックハルト - K's Picture Book
マイスター・エックハルト
マイスター・エックハルトは1260年頃ドイツ中部に生まれました。 そのころ、トマス・アクィナスはパリ大学神学教授であり、ボナヴェントゥラがフランシスコ会の総長に選ばれています。 日本では親鸞が1262年に亡くなっています。
エックハルトはカトリックの神父です。 ドミニコ会に入り、パリ大学人文学部、ケルン神学大学に学び、後にはパリ大学の神学教授、そしてドミニコ会総長代理にもなった人です。
直感の人 マイスター・エックハルト - 思考の部屋
エックハルト 「離脱について」
エックハルトは、
「つまり神は、御自身が見出す限りの(人間側の)準備と受容性に従って働かれるのである。もしある人間の心の中にまだあれやこれやという区別があれば、そこには神が最高の場で働かれることを妨げるものが入っている可能性がある。それゆえその心が最高の場に向けて準備するならば、その心は純粋な無を拠り所とせねばならない。そして純粋な無の中には、ありうる限りの最大の可能性がある。<離脱>を持つ心が最高の場に達した場合、その場は無に基づかねばならない。なぜなら、無の内にこそ最大の受容性が存在するからである。」「神が私の心の中の最大の場へ向けて何かを書こうとされる場合には、あれとかこれとか言われるものは私の心から取り除かれねばならない。そうすれば私の心は<離脱>をかちとることになる。このようにして神はそのような心の中で最高の場に向けて、御自身の最高意志に従って働かれうるのである。こいうわけで<離脱>に達した心の対象は、あれでもこれでもないのである。」
と述べている。
「離脱」はいつあるのか、「神は永遠の内の一(いつ)なる今においていつも働く。」(上記エックハルト説話集P150)とエックハルトは述べる。
-----
マイスター・エックハルトは、直観の人である。 「大いなる存在が、自分とともにある」を更に越える「直感の人」であると思う。
マイスター・エックハルトにおける「謙虚さ」理解について
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/.../Ekufurasis_4_Matsuzawa.pdf
松沢裕樹 著 - 2014
続きます。
Beingness の参考 - 離脱 - 02 - マイスター・エックハルト -
(2016-02-16 11:14:51 | Beingness)
マイスター・エックハルトは、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者。 エックハルトは、ドイツのテューリンゲンにて生まれる。タンバハという村で生まれたと推測されている。 パリ大学にてマイスターの称号を受ける。トマス・アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行った。
~宗教とスピリチュアルの終焉~ 全23回
講読23[最終回]【論述編】 離脱 全てを突破した悟りの果てに - YouTube
講読23[最終回]【論述編】 離脱 全てを突破した悟りの果てに
2014/11/28 に公開
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart,1260年頃 - 1328年頃)説教集より「論述」を朗読。
講読編では朗読の合間に、解釈やコメントを流れ来るままに入れています。
~宗教とスピリチュアルの終焉~ 最終回 離脱は「離脱を離脱」してこそ離脱である
種々の聖典や聖者の言葉は、表現方法や視点や精神段階に応じて違いがあるが、本質的にはただ一つのことを説いている。
聖書や仏典の用語に惑わされず、それらを突き抜け、本質のみを引き出し一つにまとめていく。
「神を突破する」とは、「涅槃や悟りの境地をさらに超える」とは?
イエス、老子、ブッダ、ヨガ、ヴェーダなどが「同じ」であるとは?
なぜ心を徹底的に「貧しく」する必要があるのか。
「祈り」「瞑想」様々な行法やヨガの真の意義について・・・などなど。
「ただ今ここに留まる・在る」だけでは、まだ究極ではない。
マイスター・エックハルトのどこまでも「徹底した」真理に触れてみましょう。
参考サイト:
マイスター・エックハルト
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart) 1260年頃 - 1328年頃
エックハルトは1260年頃ドイツで生まれた。亡くなったのは1328年頃とされている。パリ大学神学部教授であり、また多くの修道院の建設にも精力的に活動した人であった。
もし私が存在していなかったらば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったら、神は「神」でなかったであろう。 (説教)
マイスター・エックハルトとは誰だったのか - NAVER まとめ
Bloga enneagramica (ブロガ・エニアグラミカ) : マイスター・エックハルトに真のキリスト教の何たるかを教えたのは、イスラム教徒のアヴィケンナであった
「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」
マイスター・エックハルト - K's Picture Book
マイスター・エックハルト
マイスター・エックハルトは1260年頃ドイツ中部に生まれました。 そのころ、トマス・アクィナスはパリ大学神学教授であり、ボナヴェントゥラがフランシスコ会の総長に選ばれています。 日本では親鸞が1262年に亡くなっています。
エックハルトはカトリックの神父です。 ドミニコ会に入り、パリ大学人文学部、ケルン神学大学に学び、後にはパリ大学の神学教授、そしてドミニコ会総長代理にもなった人です。
直感の人 マイスター・エックハルト - 思考の部屋
エックハルト 「離脱について」
エックハルトは、
「つまり神は、御自身が見出す限りの(人間側の)準備と受容性に従って働かれるのである。もしある人間の心の中にまだあれやこれやという区別があれば、そこには神が最高の場で働かれることを妨げるものが入っている可能性がある。それゆえその心が最高の場に向けて準備するならば、その心は純粋な無を拠り所とせねばならない。そして純粋な無の中には、ありうる限りの最大の可能性がある。<離脱>を持つ心が最高の場に達した場合、その場は無に基づかねばならない。なぜなら、無の内にこそ最大の受容性が存在するからである。」「神が私の心の中の最大の場へ向けて何かを書こうとされる場合には、あれとかこれとか言われるものは私の心から取り除かれねばならない。そうすれば私の心は<離脱>をかちとることになる。このようにして神はそのような心の中で最高の場に向けて、御自身の最高意志に従って働かれうるのである。こいうわけで<離脱>に達した心の対象は、あれでもこれでもないのである。」
と述べている。
「離脱」はいつあるのか、「神は永遠の内の一(いつ)なる今においていつも働く。」(上記エックハルト説話集P150)とエックハルトは述べる。
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マイスター・エックハルトは、直観の人である。 「大いなる存在が、自分とともにある」を更に越える「直感の人」であると思う。
マイスター・エックハルトにおける「謙虚さ」理解について
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/.../Ekufurasis_4_Matsuzawa.pdf
松沢裕樹 著 - 2014
続きます。
Beingness の参考 - 離脱 - 02 - マイスター・エックハルト -
(2016-02-16 11:14:51 | Beingness)