融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

区切りと継続と

2006年11月04日 | 気付いたこと築いたこと
土曜日だというのに朝から試験があった。
「翻訳家のための上級ライティング」クラスの最終試験。

このクラスの宿題には随分悩まされたけれど、
授業そのものは大変に面白かった。
レジスターとは何か、から始まって、
伝記の書き方、ニュース記事、雑誌記事、ビジネスレターにレポート、契約書、学術論文・・・各テキストの形態の分析、作成。。
毎回先生がコピーで渡してくれるテキストが良く出来ていて、今後もなにかと使えそうだ。
例えば、学術論文上の言い回し。安直な断定表現を避けるためには、
"It is important for students to learn to be confidently uncertain."
とある。「自信満々でボカせ」ってことか。なんだか笑える。
文頭に It would appear that...と付ける。それでボカせますよ、とか。


今日までに2つの試験が終了。木曜日に「パブリック・スピーキング」のクラスで小さな弁論大会みたいなのをやって、これまた他の学生のスピーチも聞けて楽しかった。

いずれのクラスもとにかく「パス」できることを祈る。

こちらは最後の授業のときに学生が、教師とクラスそのものへの評価を提出する。そういった制度は確か日本でも慶応とかでは導入されているんだっけ?この制度の是非については実のところをよく知らないけれど、とにかくこちらの先生方は熱心だし、学生からの質問や要求にこたえようとする態度が、(少なくとも私が元いた)日本の大学院よりずっとキビキビしていて気持ちがいい。

さて。あとはコアなる通訳・翻訳の試験に向けて。
自分を「開いて」いかなくては。
思えば試験勉強なんて、きっかけにすぎない。
ただただ、途方にくれるほど続いていく道のりの
一通過点、一区切り、省みるチャンスをくれるもの。
嗚呼、人生とは之、開かれた作品。。。どこまでも。どこまでも。

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2 コメント

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Unknown (こぼれたモカは戻らない。)
2006-11-04 21:09:46
「人生とは開かれた作品」とは、まさに通訳・翻訳者への言葉かもしれないわね。ことばが、通訳・翻訳者の身体を通過して、言語体系だけでなく文化も習慣も異なるAからBへと伝達される。って書くとなんてことはないけど、その一回一回にコミュニーケーションの小さな奇跡が起きているのよね。もちろん、同一言語間のコミュニケーションでも同じことではあるけれど・・・。

でも、唐突だけど、では、なぜコミュニケーションが成立するのかということについては、あるレベルを超えると全く何もいえないのよね。だから、それは全部は教えられない。最後は、えいっ、と実践される現場へと出て行って、習得するほかはないものなのね。

やっぱりウンベルト・エーコ的というか記号論的楽観主義よりも、ヴィトゲンシュタイン的に「そういったことは、語り得ないんだからしょうがないじゃん」といったほうが、今はまだ誠実な気がするのよね。
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こぼれたモカは戻らない。様 (ajskrim)
2006-11-04 21:43:04
誠実なコメントをありがとうございます。そう。所詮は語りえないものに向かう行為。言葉を使っていながら、なんと皮肉なことでしょう。たえず伝達の失敗可能性に晒されている私たち。ああ悲しき哉。

語りえないものにどうして向かいたくなるのかは本当に不思議。確かにエーコ的に言ってしまうのは胡散臭くもあるか。あるいは、ああ苦しいなぁとか言いながら現実界を彷徨ってみたいと思います、というほうが、沈黙せねばならないというのより、少しだけ気持ち慰めになるかな。。。
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