石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史14 飯盛山古墳

2006年10月08日 | 会津の歴史

古墳時代前期の前方後円墳 飯盛山古墳

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市一箕町滝沢 市街地の北東部  磐越道会津若松ICから15分

 02 会津若松市街地の北東に位置する戊辰戦争で白虎隊が自刃した飯盛山の山頂に位置するのが堂ヶ作山古墳。麓より150メートル高い標高368.5メートルの山頂に全長65メートルの前方後円墳と円墳が1基あります。前方部は、南西方向の会津盆地方面を向いています。墳丘は探査調査と測量が実施されています。古墳の形から、会津大塚山古墳より古い4世紀初頭と推定されています。主体部は未発掘で、未指定の古墳です。麓の住宅地からは白虎隊の墓北側から急なやぶの山道を徒歩20分です。また、この山は、戦国時代に山城として造りかえられています。そのため、古墳後円部がやや削平され、広くなっています。なぞのキリシタンと推定される洞窟も山頂近くにあります。

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会津の歴史13 4世紀前半の堂ヶ作山古墳

2006年10月07日 | 会津の歴史

古墳時代前期の前方後円墳 堂ヶ作山古墳

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市一箕町滝沢 市街地の北東部  磐越道会津若松ICから15分

_067_1 会津若松市街地の北東に位置する戊辰戦争で白虎隊が自刃した飯盛山の北側に位置するのが堂ヶ作山古墳。麓より150メートル高い標高382.2メートルの山頂に全長84メートルの前方後円墳があります。前方部は、北西方向の盆地方面を向いています。墳丘は試掘調査が実施され、朱彩土器や古墳の形から、会津大塚山古墳より古い4世紀前半と推定されています。主体部は未発掘で、未指定の古墳です。麓の住宅地からは神社脇から急なやぶの山道を徒歩20分です。熊に注意。戊辰戦争の時、新政府軍は、慶応4年(1868)8月23日早朝、戸ノ口原で会津藩軍を簡単に撃破し、滝沢峠を進み、この山頂から会津盆地を眺め、若松城下の進攻ルートを決めています。

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会津の歴史12 縄文晩期から弥生時代の墓料遺跡

2006年10月06日 | 会津の歴史

弥生時代中期の再葬墓 墓料遺跡

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市一箕町八幡字滝沢 市街地の北東部  磐越道会津若松ICから15分

060930_017 会津若松市街地の北東に位置する県立会津短期大学の北側の住宅地に囲まれた水田と畑の墓料遺跡(ぼりよういせき)。縄文時代晩期から弥生時代の中期にかけての再葬墓という墓跡。完形の土器を含め100個体がまとまって出土した遺跡で、縄文時代の土偶や弥生時代前期に属する土器も出土しています。周囲には、東日本の古墳時代前期を代表する会津大塚山古墳、堂ヶ作山古墳、飯盛山古墳などの一箕古墳群があります。地区名の墓料とこの遺跡とは関係無く、江戸時代に会津松平家が、墓所として市内東山町の院内御廟と定めた時、市内東山町の院内とともに墓を守るために充てた地区であることから墓料と名づけられました。

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会津の文化2  桧枝岐村橋場のバンバ

2006年10月05日 | 会津の歴史

桧枝岐村愛宕神社参道にある「橋場のバンパ」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津郡桧枝岐村 会津若松から2時間、田島から1時間

061004_035 村の中心部に位置する愛宕神社は、桧枝岐歌舞伎が演じられるところとして知られています。その参道にある石造がおんば様です。おんば様は、全国にあるものですが、特に会津地方のものは、信仰形態が特有なものです。会津で一般的なものは猪苗代町の関都や会津若松市西七日町のように安産として知られています。また、磐梯町大寺や会津若松市上三寄大豆田のように橋を守る橋守、飯豊山や吾妻山のように修験の結界があります。桧枝岐のものは、修験の結界が変化したもので、縁切り、縁結びとして信仰されています。本来は、山岳信仰の悪いことをした人や女性が川から先の神域に入れないことを意味する結界であったものが、いつしか、川から先を別な世界として縁切り、そして縁結びが加わったものです。そのため、バンバの前には、結界の川の名残として池があるのです。結界の縁に対し、切れるはさみは悪い縁を切るもの、切れないはさみは良い縁を切れないようにするものです。頭の椀は、椀をかぶせて頭を良くなるよう知恵が頭から逃げないようにしたものです。

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会津焼4  東北最古の磁器

2006年10月04日 | 会津の文化

東北最古の磁器 文化13年(1816)銘の白磁

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津美里町本郷 会津若松市の西隣に位置する町

Photo_14 江戸時代磁器は、九州伊万里の専売として知られ、各藩でも白磁の製法を盛んに研究していた。瀬戸では、文化5年(1808)に加藤民吉によって白磁が完成している。東日本では、「砕石手」(さいせきで)と呼ぶのが会津本郷窯で寛政12年(1800)に瀬戸より早く磁器化に成功します。しかし、白く焼くことはできませんでした。白磁に成功するのは、文化13年(1816)で、記念銘が書かれている「釘隠」(くぎかくし)が円通寺にあります。この年までに白磁が成功するのです。東日本で最も早い白磁の成功です。なお、宮城県白石市にも文化9年の白磁の徳利がありますが、その後の製品がほとんど無いことから、まだ実態は不明なため、会津本郷より早いとはまだ断定できないからです。

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