会津にだけ、前田慶次郎の子孫が住んでいます
会津古城研究会長 石田 明夫福島県
喜多方市塩川町には、「花の慶次」で知られる。前田慶次郎の子孫が住んだ屋敷跡があります。直系は16代になり、現在は、会津若松市に住んでいます。前田慶次郎の屋敷は、前田慶次郎の二男が会津で婿養子に入り、以後前田に改称しています。写真は前田慶次の屋敷跡。子孫がいるのは、会津だけです。慶次郎は、米沢市堂森でなくなっています。
会津にだけ、前田慶次郎の子孫が住んでいます
会津古城研究会長 石田 明夫福島県
喜多方市塩川町には、「花の慶次」で知られる。前田慶次郎の子孫が住んだ屋敷跡があります。直系は16代になり、現在は、会津若松市に住んでいます。前田慶次郎の屋敷は、前田慶次郎の二男が会津で婿養子に入り、以後前田に改称しています。写真は前田慶次の屋敷跡。子孫がいるのは、会津だけです。慶次郎は、米沢市堂森でなくなっています。
天地人直江兼続30、直江兼続が歩いた「米沢街道」
会津古城研究会長 石田 明夫裏磐梯 福島県耶麻郡北塩原村桧原 磐越自動車道猪苗代磐梯高原から30分
大河ドラマ、天地人「直江兼続」が平成21年に放映されるのを機会に、会津と米沢を唯一結んでいた「米沢街道」(米沢からは「会津街道」という)を歩く、米沢市と北塩原村の交流会「旧会津・米沢街道ワンデーマーチ」が7月27日ありました。米沢市長さんや北塩原村長さんをはじめ、それぞれ、限定50人の参加者により、約8キロを歩き、米沢街道の峠頂上で合流し、交流を深めました。
米沢街道は、直江兼続や上杉景勝も歩いた街道、慶長5年(1600)の関ヶ原後、会津120万石から米沢30万石に減封された上杉家。慶長6年(1601)の8月から11月にかけては、2万人から3万人の上杉家臣団が、会津から米沢へこの街道を通り、米沢に移りました。
標高1096メートルの旧街道の峠頂上には、境の塚(壇)が東西にあります。写真は、米沢街道桧原峠の頂上で背後は、境塚。米沢市長と北塩原村長です。
天地人直江兼続28、「愛」と「梵字」の甲冑と会津の愛宕神社
会津古城研究会長 石田 明夫 style="COLOR: #996633">会津若松市 会津若松駅より車で10分 市内東山町慶山直江兼続の甲冑のある「愛」、愛用の兜の上に「愛」の字があることで知られています。「愛」の文字は、愛染明王を表したものといわれています。愛染明王は、愛欲は人の本能、愛の文字から恋愛や夫婦愛に通じ、怒りと武器を持つ姿は、戒めを示したものとされています。または、愛宕神社を信仰していたともされています。「梵字」の兜は、慶長5年に最上攻めに使用されたと伝えられています。愛宕神社は、武運の神様。会津若松市にある愛宕神社は、兼続の屋敷から300mの場所にあり、別当の本尊は普賢菩薩です。「愛」と「梵字」の兜は、会津若松の愛宕神社と関係があるようです。現在神社は、寛永10年(1633)に会津若松市東山町に移され、会津松平藩でも保護していました。
会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ
天地人直江兼続27、会津の上杉謙信廟
会津古城研究会長 石田 明夫会津若松市 会津若松駅より車で10分 若松城内
慶長3年(1598)1月、秀吉から越後から会津へ移封となった上杉景勝。3月には会津へ入ります。8月には春日山から、謙信の遺骸も家来100人で会津へ運びました。そして、若松城内に仮廟所建て、安置したのです。若松城内には、謙信を安置するために、区画した場所を造りました。後に、その場所は、蔵が建てられています。城内はあくまでも仮安置の場所で、慶長5年には、盛大に23回忌法要をしています。その後、神指城の築城に合わせ、神指城の北に、本廟所を移転することになります。ただし、廟は建設途中で完成せず、建物は、取り壊され、慶長6年には米沢へ移されました。
天地人直江兼続26、会津の林泉寺
会津古城研究会長 石田 明夫会津若松市 会津若松駅より車で30分
慶長3年(1598)、越後春日山から会津に移封になった上杉景勝。菩提寺の林泉寺も会津へ移りました。若松城の南に仮として林泉寺が建てられ、後に神指城の北側に建てられましたが、建築途中で、関ヶ原の敗北責任により、米沢へ移されたようです。会津には、林泉寺にゆかりのある寺が残されています。塩鳥山林泉寺は、上杉氏時代に向羽黒山城の三日町口を守備していた山田一族が屋敷近くに建てたようであり、後に洞雲寺と名を変え今に伝えられています。山田家の屋敷は、豊富な水量を誇っている清水で、庭跡となっています。