石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争1 京都守護職拝命

2016年10月27日 | 戊辰・会津戦争
会津若松市の週刊アングルに掲載されたものを修正したものです。写真は京都黒谷、浄土宗金戒光明寺です。

         
「京都守護職拝命」

 会津古城研究会長 石田明夫  

平成30年(2018)1月3日は、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いが始まって150年目となります。
その節目に対し、東西両軍の戦死者を慰霊することが必要となることでしょう。会津だけでなく、戊辰戦争に巻き込まれた地域や、会津では城下や会津各地の農家は燃やされ、会津藩士の戦死者は、一か月以上の放置されたことに対し、今でも西軍に対しては、違和感があります。この節目にあたり、今更、和解や仲直りはできないと思います。しかし、山口県民とは、仲良くしてもよいのではないでしょうか。
そこで、戊辰戦争について、改めて、考えたいと思います。
会津藩が戊辰戦争に巻き込まれたのは、京都の治安として新たに設置された「京都守護職」を文久二年(1862)潤8月1日、江戸城に参城し幕府から拝命したことに遡ります。明治40年に会津藩家老だった山川浩が書いた『京都守護始末』によると、そこには、越前の松平春嶽(しゅんがく)、一橋慶喜の策略があり、当時病気だった松平容保公の代理としての横山主税(ちから)に対し、一日も早く登城するよう命じたのです。
その時、家老の西郷頼母と田中土佐は、「薪を負うて火を救うにひとしく、労多くして其の功なからん」と大反対したのです。台命に対し、固辞するも再三でしたが、押し切られました。そして、「君臣京師の地をもって死所となすべきなり」と決断したのです。その決議に対し家老の西郷頼母は、家老職を辞しました。そして、幕府からは、役料として新たに五万石と、金三万両が貸与されたのです。
京都守護職とは、京都所司代、大坂城代、京都、伏見、奈良、大坂の奉行所の統括と治安維持を持つ軍事組織です。会津藩では、12月9日、江戸を出発し、24日、京都に入り黒谷の浄土宗金戒光明寺を本陣にしたのです。

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