白河口の決戦3
会津古城研究会長 石田明夫
白河城は慶応四年(1868)5月1日に西軍に奪われ、その後東軍は7回白河城奪還作戦をしますが、西軍から白河城を取り戻すことはできませんでした。白河城敗戦の責任を取り、白河口総督西郷頼母は、8月2日免職閉門となっています。
白河城の戦いの中で、東軍でも西軍に恐れられた部隊がありました。「仙台カラスと十六ささげ 無けりゃ官軍 高枕」(十六ささげとは阿部家棚倉藩脱藩兵16名の精神隊)という言葉が、白河で流行ったとされています。
「仙台カラス」とは、白河城の攻防戦の時、腰抜けだった仙台藩の中にあって、夜に活動したゲリラ部隊のことです。それは「細谷カラス」とも呼ばれ、五十石の仙台藩士細谷十太夫直英が率いる夜襲部隊で、白河城が西軍の手に落ちたことを聞き、西白河郡西郷村の穴薬師を拠点に57名が、夜な夜な約8キロ離れた白河城の西軍を奇襲したのです。服装は、夜襲を主としていたことから上から下まで黒ずくめで、衝撃隊カラス組として恐れられていました。
また「十六ささげ」とは、『「仙台戊辰史』に「〈十六士ハ棚倉城主阿部美濃守ノ臣ニシテ議論協ハザル爲メ脱藩シテ精神隊ナルモノヲ組織シ大内友五郎之ガ隊長トナリ(隊中佐々木某トイフ勇士アリ、棚倉佐々木ノ稱アル所以ナリトノ説アリ)庚申坂口ヨリ次白河ニ攻メ入リテ西軍ヲ苦シメタリトイフ〉」とあり、棚倉藩を脱藩したのが16名であったことから、白河特産の16ささげになぞらえて呼んだ隊で、鎧を着た勇ましい部隊として西軍に恐れられていました。
長州藩の楢崎頼三(らいぞう)が白河に駐留していた時は、お盆であったことから、西軍長州藩の兵士の中に白河盆踊りを覚え、それを長州へ持ち帰り踊ったのが今でも山口県で踊られている「白河踊り」なのです。
写真は、福島県西白河郡西郷村にある「穴薬師」
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