石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争18 白河口の決戦3

2018年01月12日 | 戊辰・会津戦争



白河口の決戦3

 会津古城研究会長 石田明夫  

 白河城は慶応四年(1868)5月1日に西軍に奪われ、その後東軍は7回白河城奪還作戦をしますが、西軍から白河城を取り戻すことはできませんでした。白河城敗戦の責任を取り、白河口総督西郷頼母は、8月2日免職閉門となっています。
 白河城の戦いの中で、東軍でも西軍に恐れられた部隊がありました。「仙台カラスと十六ささげ 無けりゃ官軍 高枕」(十六ささげとは阿部家棚倉藩脱藩兵16名の精神隊)という言葉が、白河で流行ったとされています。
「仙台カラス」とは、白河城の攻防戦の時、腰抜けだった仙台藩の中にあって、夜に活動したゲリラ部隊のことです。それは「細谷カラス」とも呼ばれ、五十石の仙台藩士細谷十太夫直英が率いる夜襲部隊で、白河城が西軍の手に落ちたことを聞き、西白河郡西郷村の穴薬師を拠点に57名が、夜な夜な約8キロ離れた白河城の西軍を奇襲したのです。服装は、夜襲を主としていたことから上から下まで黒ずくめで、衝撃隊カラス組として恐れられていました。
 また「十六ささげ」とは、『「仙台戊辰史』に「〈十六士ハ棚倉城主阿部美濃守ノ臣ニシテ議論協ハザル爲メ脱藩シテ精神隊ナルモノヲ組織シ大内友五郎之ガ隊長トナリ(隊中佐々木某トイフ勇士アリ、棚倉佐々木ノ稱アル所以ナリトノ説アリ)庚申坂口ヨリ次白河ニ攻メ入リテ西軍ヲ苦シメタリトイフ〉」とあり、棚倉藩を脱藩したのが16名であったことから、白河特産の16ささげになぞらえて呼んだ隊で、鎧を着た勇ましい部隊として西軍に恐れられていました。 
 長州藩の楢崎頼三(らいぞう)が白河に駐留していた時は、お盆であったことから、西軍長州藩の兵士の中に白河盆踊りを覚え、それを長州へ持ち帰り踊ったのが今でも山口県で踊られている「白河踊り」なのです。


写真は、福島県西白河郡西郷村にある「穴薬師」

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戊辰・会津戦争17 白河口の決戦2

2018年01月08日 | 戊辰・会津戦争

 

白河口の決戦2

 会津古城研究会長 石田明夫  


慶応四年(1868)閏四月28日、西軍は、白坂口に再び攻め入り、29日会津藩は日向茂太郎と井深右近ら大砲二門で守備していたところを撃破したのです。
5月1日、西軍は、隊を三方に分け進軍しました。まず西と東から薩摩藩の川村隊が攻撃を開始。東軍は兵士の数は多かったのですが、東の南湖北側を守備していた仙台藩は、新式銃も少なく時代遅れの鎧を着た、西洋式の訓練を受けていない部隊でした。西軍は、仙台藩ら奥羽列藩同盟軍の退路を断ちながら攻め、仙台藩は総崩れとなり、あっけなく突破されてしました。
少し遅れて中央本隊は、現在ベルヴィ白河という結婚式場のある小丸山にいた薩摩藩伊地知正治、大垣藩などの大砲隊が、約600メートル離れて対峙した白河城南の稲荷山にいた会津藩総督西郷頼母と副総督横山主税(ちから)らを総攻撃したのです。新式の大砲と、新式銃の威力はすさまじく、会津藩は、稲荷山へ白河城内や他からの応援部隊を投入し、死守しようとしました。
西軍は、会津藩以外は兵力が弱いことを知っていたため、西の消防署のある立石山と東の雷神山の陣地を占拠したことから、会津藩のいた稲荷山は孤立状態となり、その間に西軍は、白河城下入り白河城を占領したのです。
夜明け早朝から正午過ぎまで、約7時間の激しい戦いで、東軍の戦死者は682名に対し、西軍の死者はわずかに12名でした。会津藩はこの戦いで副総督の横山主税、大砲隊長日向茂太郎ら304名が戦死しました。旧奥州街道の稲荷山には北側に「会津藩戦死墓」と「会津藩銷魂碑」、南側に「長州・大垣藩戦死六人之墓」があります。

 
 写真は「会津藩戦死者墓」

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戊辰・会津戦争16 白河口の決戦1

2018年01月07日 | 戊辰・会津戦争

 

白河口の決戦1

 会津古城研究会長 石田明夫  


 宇都宮城を奪還し、北へ進行政策を進めた西軍の次の標的は、白河城の攻略でした。対する東軍の奥羽越列藩同盟は、何としても奥羽の関門、白河城を死守し、ここから先に進めないようにすることでした。
 慶応四年(1868)、白河城(小峰城)は、白河藩主阿正静(まさきよ)公が慶応二年(1866)に、棚倉城へ移封とされていたことから、白河城は城主不在で二本松藩の預かりとなっていました。『中島登覚書』によると潤四月五日、松平容保公より新選組隊長山口二郎(斎藤一)に対し、白河へ出撃命令が出でます。そして新選組は、白河城下の脇本陣柳屋を本陣(建物の一部、当時の蔵が残る)としました。『白河口戊辰戦争記』によると、会津藩は、潤4月20日には白河城を占拠し、潤21日には、白河市白坂の境明神にある「従是北(これよりきた)白川領」の石柱を倒し、「従是北会津領」の木柱を立てています。
 東軍は、潤4月24四日『七年史』栃木県の「太田原を出発し、芦野に宿した」との知らせを受け、白河関の境明神には、新選組の山口次(二)郎を先手とし、会津藩遊撃隊の遠山伊右衛門を派遣し、西軍を待っていました。翌潤4月25日の夜が明けると西軍は、白河関の境明神へ進行し、東軍は、西軍を押返し勝利しました。翌潤4月26日、指揮官として会津藩東方面鎭総督の西郷頼母と副総督の横山主税が白河城に入りました。その頃、会津藩の佐川官兵衛は、越後の長岡藩にいて河井継之助に会っていたのです。
 白河市白坂の境明神には、土塁と陣跡があり、新白河中央病院東側の皮籠にあるコンビニ裏には、戊辰戦で東軍が構築した塹壕(ざんごう)跡(戦国時代の皮籠原防塁跡とは地点が異なる)が直角に折れて135メートル残っています。
 
 写真は「白坂にあるざんごう跡」

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戊辰・会津戦争15 奥羽列藩同盟の成立

2018年01月05日 | 戊辰・会津戦争

  

奥羽列藩同盟の成立

 会津古城研究会長 石田明夫  


 宇都宮城を西軍が奪還した1868年4月23日、仙台藩は、奥羽鎮撫総督府の再三の会津藩攻撃命令に対し、郡山市熱海町の中山と竹ノ内へ攻入り、会津藩を攻撃しています。閏4月(この年は4月が二回あり潤4月がある)1日、郡山周辺で会津藩と仙台藩との小規模な銃撃戦がありますが、仙台藩と二本松藩は西軍の言いなりだったのです。
 閏4月4日、松平容保公の恭順降伏の嘆願を受けた仙台藩と米沢藩は、『仙台藩記』会津藩の討伐中止を奥羽鎮撫総督府に申し出、会津藩への攻撃を中止します。そして、仙台藩の白石城では、奥羽諸藩へ会津藩救済に向けての書状を送り、奥羽列藩同盟へと流れが動いたのです。翌5日容保公は、新選組へ山口二郎(齋藤一)を隊長とする130余人を白河方面への派遣を命じています。12日白石城では『戊辰事情慨旨』によると、奥羽二十七の諸藩が集結し、会津藩救済の嘆願書に著名し、会津藩と庄内藩への攻撃中止を申し合わせています。18日には、棚倉藩、相馬藩、三春藩、岩城藩らが会津藩への攻撃を中止しました。
 嘆願書に対する西軍の参謀世良修蔵(しゅうぞう)の返答は「容保は朝敵、天地容(ゆるす)るべからざる罪人」と厳しいものでした。世良はさらに19日、福島において、奥羽の動向と援軍要請の手紙を薩摩藩士の大山格之助に託しますが、手紙が福島藩士から仙台藩士へ渡り、手紙には「奥羽を皆敵と見て」とあったことから、仙台藩では激怒し、翌20日、世良は阿武隈川原で仙台藩士に惨殺されます。その日、会津藩は、白河城を抑えています。23日、奥羽諸藩が白石城に集結し、ここに「奥羽列藩同盟」が成立したのです。
 
 写真は「奥羽諸藩が集合した白石城」

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戊辰・会津戦争14 宇都宮戦争と日光を救った者

2018年01月04日 | 戊辰・会津戦争

宇都宮戦争と日光を救った者

 会津古城研究会長 石田明夫  

 江戸城開城が決定されると、西軍の標的は、旧幕府軍の一掃と会津藩攻撃に向けられました。1868年3月23日、西軍は奥羽鎮撫総督の九条道孝らが仙台に入り、25日には、仙台藩と米沢藩に対し会津征伐を命じます。同日『戊辰事情慨旨』では、米沢藩と仙台藩の使者が若松城下に入り、会津藩救済を談合しています。そのため、両藩とも会津藩攻撃の行動はしませんでした。
 4月7日、西軍が宇都宮城に入ると、徹底抗戦派旧幕府軍の大鳥圭介が率いるフランス軍事使節団から特別訓練を受けた旧幕府軍精鋭部隊が、宇都宮城の西軍と激しい戦いとなりました。旧幕府軍は、会津藩の秋月登之助や新選組の土方歳三ら総勢二千人でした。19日には、宇都宮城を攻撃し、東軍が城を占拠したのです。しかし、23日、西軍は、薩摩藩の大山巌が指揮する四斤山砲を主力とする砲兵隊らを投入したことで、城は再び西軍の手に落ちたのです。この日、新選組の土方歳三は、足首を撃抜かれる大ケガを負い、その後、会津の東山温泉で治療することになりました。この時『会津藩大砲隊戊辰戦記』に、会津藩砲兵隊長の日向内記(後に戸ノ口原で白虎隊隊長となる)は、戦わずして今市から若松に引揚げたため、隊長を罷免されています。
 敗北した旧幕府軍の大鳥らは、日光へ向かいます。26日には、東照宮焼失を心配した会津藩らが東照宮御神体を会津へ運んだのです。
 日光は、徳川家にとって江戸城と並ぶ大変重要な場所です。それを戦禍から守ったのは、土佐藩の板垣退助で、大鳥圭介に日光を渡すよう使者を送ったこと、日光の僧道純と慈立が、土佐藩の谷干城(たにたてき)へ戦争回避を直訴したことです。大鳥が日光での弾薬補給を諦め、会津田島へ退却することを決めたことも偶然に一致し、日光は残ったのです。
 
 写真は「宇都宮城と背後の高ビルは宇都宮市役所」

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