石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争13 江戸城無血開城と会津藩士の出陣

2017年07月19日 | 戊辰・会津戦争

江戸城無血開城と会津藩士の出陣

 会津古城研究会長 石田明夫  

 新政府の西軍は、鳥羽伏見の戦いに勝利すると、慶応4年(1868)1月10日、徳川慶喜、会津藩の松平容保公ら27名に対し官位の剥奪と屋敷の没収を決定しました。その日、会津藩大砲隊などは『大砲隊戊辰戦記』によると紀州にいたのです。
 その後、幕府内部では、主戦派の勘定奉行兼陸軍奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と軍艦頭の榎本武揚(たけあき)が作戦を練っていましたが、徳川家存続を図るため慶喜は戦わず恭順を決めていたことから陸軍総裁に穏健派の勝海舟を任命し、自ら寛永寺に移り謹慎の身となったのです。
 しかし、謹慎だけでは西軍は、慶喜を許すことはなく東海道、東山道、北陸道から江戸進攻を決定し、2月9日には、東征大総督が決められ、3月15日を江戸城進撃と定めたのです。そこで、慶喜の命を受けた山岡鉄舟が、西郷隆盛のいた駿府に乗込み、直談判をして、徳川家の寛大な処分と江戸城明け渡しが決められ、山岡は江戸に戻り幕府の陸軍総裁の勝海舟へ報告したのです。そして、3月13日・14日、江戸の薩摩藩邸(港区三田・会津藩下屋敷の隣が薩摩藩邸)で勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ、無抵抗の慶喜を許すこととなったのです。そのころ会津藩では、3月12日『若松記草稿』によると、会津藩の四方を防備するため、容保公が三ノ丸において藩士に出陣を命じています。
 4月11日江戸城は、無血開城となりましたが、新政府の徳川家処分に不満を持つ幕府の陸軍歩兵頭大鳥圭介と、海軍副総裁で八隻の軍艦を率いていた榎本武揚らが江戸を出て徹底抗戦を決意し、会津戦争へ向かっていったのです。
 
 写真は「会津藩下屋敷跡・東京三井倶楽部」

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