石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原3  南会津の鴫山城

2006年09月29日 | 北の関ヶ原

 南会津町田島の鴫山城(しぎやまじょう)  長沼氏の城・直江兼続弟大国氏の城

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津郡南会津町田島 会津若松市・那須塩原ICから1時間

Photo_13 中世から戦国時代、南会津の拠点は、長沼氏の田島、河原田氏の伊南古町、山ノ内氏の金山横田でした。各氏は、今でこそ産業は推定していますが、当時は材木や蝋燭(ろうそく)炭、そして隠れた重要な産物として金があったからこそ栄えていました。拠点となる山城の近くには金の鉱山がかつてありました。また、黒鉱と呼ばれたものは石英、亜鉛、鉛、わずかな銀と銀を含んだ鉱石で、南会津地方で重要な産物でした。南会津の要衝として田島があります。そこにある長沼氏の城が鴫山城です。長沼氏が築きましたが、現在の城は、蒲生氏による石垣の構築、大きな竪堀と二重土塁構築の上杉氏があります。特に大改修したのは慶長5年(1600)の徳川家康の会津進攻に対する上杉氏の防御線として直江兼続が大改修し、弟の大国但馬守実頼が配置されています。 

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会津の城8   南会津の久川城

2006年09月28日 | 会津の城

南会津町伊南 河原田氏の城 久川城

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津町小塩 会津若松市から1時間30分、田島から30分

060715_035 天正17年(1589)伊達政宗が会津の葦名義広を磐梯山麓の摺上原で破り、南会津に進攻してきます。その時、古町の南東に位置する山城の駒寄城は、大軍で防御するには適さないほど高く、急なことから、西側対岸の地に城を移しました。そして町も新たに作り、新町ができます。古町は、新町より古いことから付けられたものです。久川城には、東側の石垣の虎口があり(現在なし)、南側にも土塁の虎口があります。中心の本丸は、いかにも織豊的な竪堀や土塁が直線的に造られ、櫓台もあります。河原田氏が最初に築きましたが、蒲生忠郷が大改修しています 

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北の関ヶ原2   南会津山王峠

2006年09月26日 | 北の関ヶ原

 山王峠の石仏と陣地の遺構

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県南会津郡南会津町、栃木県日光市藤原町

Photo_12 福島県と栃木県の境となる国道121号の山王峠は、現在はトンネルとなっています。その前の旧道は、トンネル西側の舗装された旧道の峠を通っていました。江戸時代の峠は、旧道のさらに西にありました。江戸時代の街道は、福島県側では道の形さえ不明になっています。南の栃木県側も藪となり不明な部分もありますが、道の形は残っています。峠の頂上の道は、狭いものです。関ヶ原の時(1600年)、直江兼続は、2万人を配置し、徳川家康の会津進攻に備え、日光市藤原町横川に大規模な防塁を築き、下流にも土塁を築き川を堰き止めた陣(鶴ヶ渕城)を築いていました。その遺構は今でも残っています。たま、峠の頂上には、軍道を長大に築き、防御線を張っていました。会津戦争では、直江兼続が築いた平場、防塁を改修して使用し、また道路をざんごうとして改修し、使用しているようです。峠の頂上の見晴らしの良い場所には、台場跡が数段残っています。江戸時代の峠の頂上には、日光市中三依の大黒屋が建てた馬頭観音の石仏があります。現地までは、福島県側から約1時間栃木県側からは約40分かかります。

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北の関ヶ原1 猪苗代湖南、馬入峠の防塁跡

2006年09月25日 | 北の関ヶ原

慶長5年(1600)上杉氏築城 馬入峠の防塁

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県岩瀬郡長沼町、郡山市湖南町 大型車通行不可 道狭し

060828_054 福島県の中央、猪苗代湖の南、郡山市湖南町をとおる国道294号線勢至堂峠の西に位置する県道馬入峠の頂上、標高865メートルに、慶長5年(1600)に上杉景勝が徳川家康の会津進攻に備えて築いた土塁と空掘、内枡形虎口の防塁跡があります。街道を挟んで227メートルあります。土塁の高さは2メートルから5メートル、空掘の幅は7メートル、土塁の上場は1メートルで、一部土塁の外側が二重土塁となっています。戊辰戦争でも会津藩軍が再利用しています。また、峠の会津側には、会津戦争時に掘った2人から3人用の銃座のようなざんごうがいくつかあります。

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会津の城7  裏磐梯の岩山城

2006年09月24日 | 会津の城

桧原湖の中にある堂場山に築かれた岩山城。伊達政宗に皆殺しされた城

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村桧原 桧原湖の北側にあり 磐越自動車道猪苗代icから40分

_006_1 標高822メートルの桧原湖は、会津若松市の背あぶり山と同じ高さです。北側に湖中に突き出た半島が標高889メートルの堂場山で、その半島上に岩山城があります。裏磐梯を治めていた葦名氏(あしなし)家臣の穴沢氏は、永禄7年(1564)に桧原の山神社の北西側に大規模な山城の戸山城を築きます。しかし、翌年の永禄8年7月17日に伊達氏が約800人で背後の尾根から攻められます。城は女性も含む城番の約20人で防戦し、落城はしませんでした。しかし、背後に弱いことが判明したことから、同年に堂場山に岩山城を築き、山城を移します。天正12年(1584)11月26日、桧原の地に風呂屋(当時は各家に風呂はなく、風呂といってもサウナに近いもので、風呂屋は芝居や酒も出した一大娯楽でした)が来て、一族を含め村人の多くが風呂や酒を飲んでいたところを伊達政宗が約1500人で襲います。穴沢一族の約9割が亡くなり、岩山城に立て籠った者も攻められ、一族のほとんどが討ち死にします。残ったわずかな者が大塩の柏木城へ移りました。この城は、穴沢氏の政宗に対する恨みの城なのです。城は、大きく3ヶ所に分かれ、大きな土塁が二ヶ所、平場や虎口があります。頂上には物見台があります。

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