石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史29 淡水の貝塚、「田中原貝塚」

2006年12月31日 | 会津の歴史

全国的に珍しい純淡水産貝塚「田中原貝塚」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市河東町宮腰 磐越道会津若松ICから5分

16429_002 貝塚は、縄文時代から弥生時代にかけて多く見られる遺跡で、当時のゴミ捨て場です。とくに貝殻をすてたことから、腐りずらい貝が多いことから貝塚とよばれます。全国的には、海に近い沿岸や当時入江だった場所にみられますが、琵琶湖と諏訪湖、会津には、内陸の貝塚があります。会津では3ヶ所あり、最も規模が大きいものが宮腰遺跡と呼ぶ田中原貝塚です。貝層の厚さは30センチあり、現在でもカラス貝より小さく、マシジミより大きいマツカサ貝が散布しています。現在ではマサカサ貝は会津では見ることが出来ません。時代は弥生時代後期の遺跡で、竪穴住居跡、石斧、石包丁が出土しています。

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会津の城24  柳津町の安久津城

2006年12月30日 | 会津の城

柳津小中学校東側の山城「安久津城」 柳津町鳴神山

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県河沼郡柳津町 柳津町役場東側 磐越道会津坂下ICから15分

1652_030 会津の霊場として知られる柳津町の虚空蔵堂、町の南東側、柳津小中学校校庭東に位置する鳴神山に山城の安久津城があります。山頂に祠があり、そこが中心の主郭になり、斜面には畝状の竪堀があります。背後の尾根とは、堀切で遮断されています。大手は西に面して造られています。発見は石田です。

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会津の歴史28 米沢・桧原街道

2006年12月29日 | 会津の歴史

若松から桧原経由「米沢街道」 北塩原村大塩萱峠

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村

061203_026_1 若松から米沢に行くには、現在では喜多方市経由大峠ですが、戦国時代や江戸時代には若松から、熊倉、大塩、桧原を経て米沢市綱木経由していました。大塩の萱峠には、今でも幅1間の街道があり、松の大木もあります。舗装された村道で、生活道路でもあることから、会津盆地と桧原湖北側を結ぶ道として除雪され通行止めになることはありません。

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会津の歴史27 会津五薬師「雨屋薬師」

2006年12月27日 | 会津の歴史

会津五薬師、南の薬師「雨屋薬師」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市大戸町下雨屋

061224_019 会津五薬師は、中央薬師の国宝勝常寺、東の薬師は国史跡恵日寺、西の薬師は国重要文化財の宇内薬師、北の薬師は北山薬師、南の薬師は雨屋薬師です。南と西については、時代によって変化があります。五薬師は、平安時代に建立された薬師三尊を安置する恵日寺・勝常寺配下の寺院で構成されていますが、五薬師成立は不明です。「旧事雑考」には、会津美里町の国史跡「向羽黒山城跡」が築かれた永禄11年(1586)の漢詩「巌館銘」の中に、五薬師とあるのが最も確実で古い資料です。その時、南は火玉堂寺とありますが、その寺は、その後火災で廃寺となったことから、「耶麻郡誌」では、南の薬師を雨屋薬師としています。雨屋薬師は、石村・面川金山の上に立つ寺で、古代から金の採掘にかかわる寺として建てられています。この金山は、江戸前半の最盛期、蒲生時代には、1000戸が精錬に関わった村として造られ「新町」(現在は荒町)が造られたほどです。

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会津の歴史26 会津五薬師「北山薬師」

2006年12月24日 | 会津の歴史

会津五薬師北の薬師「北山薬師」 北塩原村

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村

061203_118 会津五薬師の一つ、俗に漆の薬師と呼ばれる北山薬師は、無住の寺です。岩山にあります。二つ児参りの寺として知られています。階段の途中には石像のおんば様があります。漆の薬師とは、周辺に漆がたくさんあったことに由来します。

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