石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の文化12 切支丹、上荒久田天子神社

2007年02月22日 | 会津の文化

会津若松市上荒久田の天子神社

会津古城研究会長 石田 明夫 style="color: #996633;">福島県会津若松市町北町上荒久田 磐越道会津若松ICより5分

Photo_28 1590年から1627年まで会津を2度支配した蒲生氏、蒲生前期の蒲生氏郷・秀行と蒲生後期の秀行・忠郷の時代は、切支丹信仰が盛んでした。会津若松市内には現在3ヶ所の教会跡が残されています。その後、加藤嘉明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。市内の教会は、現在神社となり信仰されていますが、切支丹の影はまったくありません。現在、上荒久田の教会跡には天子神社が建てられています。

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北の関ヶ原6  母成峠防塁跡

2007年02月20日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続6 戊辰戦争だけでない。直江兼続が築いた母成峠防塁

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県猪苗代町・郡山市 母成グリーンラインにある防塁

Photo_27 慶長5年(1600)に上杉景勝は、徳川家康の会津進攻に備え、領国内の会津へ入る主要ルート上にも防塁を築きました。母成峠は、戊辰戦争の激戦地であり、今に残る遺構は、戊辰戦争のものと考えられがちですが、384メートルある遺構の内、150メートルほどは、関ヶ原時代に上杉景勝が築いたものです。残りは、戊辰戦争時に造られたざんごうです。勢至堂峠、馬入峠、白河市南の防塁、日光市の防塁など、構造は同じで、幅7メートルの空掘、高さ2メートルから4メートルの土塁で直線を基本とした織豊的な土塁と堀になっています。

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北の関ヶ原5  白河・石阿弥陀防塁跡

2007年02月18日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続5、白河市街地南(まほろんの南)、関ヶ原の「石阿弥陀(皮籠原)防塁」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県白河市 県文化財センター白河館「まほろん」の南側にある防塁

Scan20001  慶長5年(1600)に上杉景勝は、徳川家康の会津進攻に備え、領国の南側の主要街道に防塁を築いています。白河の南にあるものもその一つ。まほろんのすぐ南の石阿弥陀地区に現在300メートルほど空堀と土塁が残されています。勢至堂峠や馬入峠、母成峠などの防塁と構造は同じで、幅7メートルの空掘、高さ2メートルから4メートルの土塁で直線を基本とした織豊的な土塁と堀になっています。

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会津の文化11 猪苗代の切支丹、天子神社

2007年02月11日 | 会津の文化

猪苗代町の市街地中心部に位置する切支丹の「天子神社」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県猪苗代町  猪苗代町の市街地中心部

Photo_26 江戸時代前期、蒲生氏郷から蒲生忠郷の時代は、猪苗代地方の切支丹が人口の8割以上にもなったと伝えられています。その後、加藤嘉明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。現在、街中の教会跡にはケヤキの大木があり、近くに小さな天子神社があります。

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会津の城27  裏磐梯の戸山城

2007年02月06日 | 会津の城

東北最高位置にある大規模な「戸山城」

会津古城研究会長 石田 明夫

裏磐梯桧原 猪苗代ICから冬は1時間

070112_022 標高1037メートルの山頂に、1564年に葦名氏家臣の穴沢氏が築いた南北300メートルの大規模な山城。東北では最高位置にある大規模な城で、全国でもこれ以上高い場所に位置する大規模な城は発見されていません。冬は3m以上の積雪になり、現在でも桧原湖では1メートルの積雪があります。手前の南側が大手になります。山頂には熊の冬眠している穴がありますので、一人では行かないように。

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