石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争12 若松城下の女性と娘子軍の誕生

2017年06月09日 | 戊辰・会津戦争

「若松城下の女性と娘子軍の誕生」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 江戸詰めだった会津藩士と家族は、西軍の進行により若松城下へ帰ることになります。江戸詰めで代々住んでいた家臣も会津の遠縁を頼り、若松城下へ戻りました。
 『会津戊辰戦争』によると、城下の女性たちの中には若松城下で「娘子軍(じょうしぐん)」と呼ばれる女性だけの軍事訓練をする団体が結成さたという。それは、江戸詰めの家臣や家族が会津に戻り、鳥羽伏見の敗戦の話が伝わるとともに、会津の藩士の中にも戦死の知らせや、遺髪や形見の軍服が届いたりしたことによります。
そこで、婦人のなかには、江戸詰めで江戸勘定役中野平内(へいない)の妻の中野こう子、竹子・優子ら親子と、会津在住の依田まき子、水島菊子、山本八重らといくつかのグループが非常に備えて、武芸を習うもの者が20数人誕生したのです。『会津戊辰戦争』には、城下の水島菊子と姉の依田(よだ)まき子は、まき子の夫が鳥羽伏見で戦死したことにより、「夫の仇(あだ)なれば、是非一太刀たりとも怨まんものと思い」と、思いは一つで肉親の仇討ちでまとまっていたのです。しかし、「指揮者は定まらず」とあることから、統率する者はいなかたようです。その中でも江戸詰めであったこう子(43歳)は、年上であったため、一定の指揮をしていました。
 会津藩では、『会津戊辰戦史』で、女子が戦いに参加することは、男子としては恥ずべきものと考えていたことから、正式に許すことはなく、女性の集団を「女隊」「婦人決死隊」と呼んでいました。婦人たちは「娘子軍」と呼び薙刀(なぎなた)を日々練習していたのです。その後、8月25日、神指町東城戸において、中野こう子、竹子親子は柳橋の戦いで奮戦することになります。


写真は「中野竹子に似せた石像」

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