石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の城2 若松城・鶴ヶ城

2006年08月31日 | 会津の城

若松城跡(国史跡名)、鶴ヶ城(一般名)、会津若松城(江戸時代の名称)

福島県会津若松市追手町1-1 磐越道会津若松ICから20分  会津若松駅から徒歩30分

会津古城研究会長 石田 明夫

1503  中世葦名氏の7代直盛は、文和3年(1354)黒川城の前進小高木館を築き、立て籠もる山城として小田山城を築き、至徳元年(1584)には、館を城に改修します。城は、黒川(川が黒かったためか羽黒神社の前をながれていたため)に囲まれていたことから黒川城と呼ぶようになります。  天文8年(1539)には、盛瞬によって大改修され、東北を代表する城となります。  永禄11年(1568)には、盛氏が立て籠もる山城を向羽黒山城へ移し、黒川城と併用するようになります。  天正17年(1589)6月5日、摺上原の戦いで20代葦名義広は破れ、11日には、伊達政宗が黒川城入り、400年続いた葦名氏の会津支配は終了します。政宗は天正18年3月からは、町中の人を動員し、黒川城を改修し、石垣を積み始めます。天正18年(1590)8月、政宗は、豊臣秀吉によって宮城県へ移され、蒲生氏郷が92万石で会津の領主となります。文禄元年(1592)6月1日黒川城の改修に着手し、町を若松とします。1590年から1592年の間は、籠城戦用に向羽黒山城の改修をします。 文禄2年(1593)には、7層の天守閣が完成します。慶長3年(1598)には、上杉景勝が120万石で入ります。1598年から1599年の2年間、景勝は向羽黒山城を買い私有しています。慶長5年(1600)2月、神指城の築城に着手しますが、6月徳川家康との対立で築城は中止され、慶長6年(1601)には破城となります。慶長6年、蒲生秀行が入り、慶長15年(1610)には、石垣を大改修しますが、慶長16年(1611)に大地震があり、天守閣が傾きます。  四国の松山から移封した加藤嘉明の子、明成が寛永18年(1641)西出丸や北出丸を石垣に大改修し、天守閣を解体修理し、7層を5層に造り変えます。  会津戦争では、西軍の激しい砲撃で天守閣東面はアームストロングで攻撃され穴だらけけとなりますが、他の面は四斤山砲の攻撃だったことから穴だらけではありませんでした。  明治7年(1874)城の建物は取り壊されます。昭和40年にコンクリートによって天守閣が復元されました。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

会津の城1 向羽黒山城 日本三大山城

2006年08月29日 | 会津の城
日本三大山城の一つ 歴代会津領主の最後の砦 国史跡

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津美里町 会津若松市の南西に位置する焼物の町 磐越道会津若松ICより20分

 永禄11年(1568)16代葦名(あしな)盛氏が8年の歳月をかけて築いた山城。葦名氏は、黒川城(現在の若松城)が居城。いざ戦争があると山城の小田山城に立て籠もることになっていましたが、小田山城は、黒川城に近いことや、敵が小田山城を占拠した場合、黒川城はひとたまりもないことから(事実戊辰戦争では小田山に西軍が陣取り大砲を撃ち込まれ甚大な損害を受けています)最後の砦となる山城を6キロ離れた向羽黒山城に築城しました。面積は約50ヘクタールあります。葦名氏の隠居城ではなく、本格的な山城で、その後も伊達政宗が6ヶ月かけて大改修し、蒲生氏郷も2年、上杉景勝も2年かけて大改修しています。最後の姿は、上杉景勝の手によるものです。越後の春日山城以上にしたものです。石垣もあり、葦名氏と蒲生氏郷が築いています。  城全体を大きな竪堀と竪土塁が囲む「総構え」の造りとなります。上杉景勝が文禄の役の時、朝鮮半島の釜山の西に築いた熊川倭城を模したものです。  慶長6年(1601)関ヶ原の戦いでは、上杉景勝は石田三成方であったことから、敗北し、この城や神指城は破城され米沢に移りました。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

会津の歴史3 秀吉最北の地、湊町の太閤道

2006年08月28日 | 会津の歴史

湊町の原にある秀吉が通った太閤道

会津古城研究会長 石田 明夫

会津若松市湊町原 背あぶり峠の街道脇にある太閤道。

天正18年(1590)8月7日、天下人として最北の地に来た豊臣秀吉は、福島県須賀川市長沼の長沼城に泊まり大宴会をしたのち、8日には郡山市湖南町御代もしくは福良(秀吉は福良か)に宿泊します。9日には会津若松市湊町原の坂内家で身支度をして、背あぶり峠越えの服装に着替え、馬に乗り替えて黒川(現在の会津若松)に入ります。道は、伊達政宗に整備させたもので、平坦地は幅3間、山道は1間で整備したものです。そして峠の頂上で休憩し、お茶を飲み、黒川(現在の若松)へ入りました。東山温泉近くの会津若松市東山町天寧、天寧寺で再度身支度をし黒川の興徳寺に入りました。天下人が来た最北地は会津若松なのです。 会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

会津焼2 会津大塚山窯

2006年08月27日 | 会津の文化

蒲生氏郷が天目茶碗を焼かせた「会津大塚山窯」

会津古城研究会長 石田 明夫

会津若松市一箕町の大塚山   国史跡「会津大塚山古墳」の大塚山斜面にあり 磐越道会津若松ICから10分

0501_099 福島県会津若松市の市街地北東に位置している標高269.6メートルの大塚山は、4世紀前半の全長114メートルの前方後円墳があることで知られています。昭和39年に発掘調査が実施され、出土物は国指定重要文化財にしてされています。  その大塚山の斜面には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、蒲生氏郷氏郷の5大名だけが焼くことができた戦国時代の大窯が1基あります。会津大塚山窯では、天目茶碗や航路も皿が焼かれています。大窯編年では1590年から1610年に該当するもので、前田利家の越中瀬戸窯に非常に良く似ています。そのことから、蒲生氏郷が、職人を前田家から連れてきたことを示しています。出土遺物は破片で、天目茶碗や碗、菊花の押印の皿、窯道具が出土し、その製品は、若松城下、会津若松市神指町の東高久遺跡、高野町の上吉田遺跡、山形県米沢市、酒田市、福島県三春町から出土しています。

 会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

会津の歴史2 院内御廟に運ばれなかった亀石

2006年08月26日 | 会津の歴史

北山石 会津藩主松平家墓所の石

会津古城研究会長 石田 明夫

会津若松市河東町八田 日橋川の南側水田脇にあり 磐越道磐梯河東ICから10分

Photo 会津若松市東山町にある国史跡「会津藩主松平家墓所」に使用している石は、市内河東町北山を中心とする「北山石」という安山岩を使用しています。会津若松市河東町の磐越自動車道近くには、正式には「きふ」と呼ぶ中国の北の守り神「玄武」を形どった亀の形をした「亀石」(ガメラのモデル)に使用しようとした石が残されています。運ぶことが出来なくて放置され石です、大きさは約5メートルある大きな楕円形をしたもので、「お上石」(オオカミ石)と呼ばれています。なかには、墓所まで運こぶ途中で割れたことがあり、その時、責任者は切腹しています。

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ