若松城跡(国史跡名)、鶴ヶ城(一般名)、会津若松城(江戸時代の名称)
福島県会津若松市追手町1-1 磐越道会津若松ICから20分 会津若松駅から徒歩30分
会津古城研究会長 石田 明夫中世葦名氏の7代直盛は、文和3年(1354)黒川城の前進小高木館を築き、立て籠もる山城として小田山城を築き、至徳元年(1584)には、館を城に改修します。城は、黒川(川が黒かったためか羽黒神社の前をながれていたため)に囲まれていたことから黒川城と呼ぶようになります。 天文8年(1539)には、盛瞬によって大改修され、東北を代表する城となります。 永禄11年(1568)には、盛氏が立て籠もる山城を向羽黒山城へ移し、黒川城と併用するようになります。 天正17年(1589)6月5日、摺上原の戦いで20代葦名義広は破れ、11日には、伊達政宗が黒川城入り、400年続いた葦名氏の会津支配は終了します。政宗は天正18年3月からは、町中の人を動員し、黒川城を改修し、石垣を積み始めます。天正18年(1590)8月、政宗は、豊臣秀吉によって宮城県へ移され、蒲生氏郷が92万石で会津の領主となります。文禄元年(1592)6月1日黒川城の改修に着手し、町を若松とします。1590年から1592年の間は、籠城戦用に向羽黒山城の改修をします。 文禄2年(1593)には、7層の天守閣が完成します。慶長3年(1598)には、上杉景勝が120万石で入ります。1598年から1599年の2年間、景勝は向羽黒山城を買い私有しています。慶長5年(1600)2月、神指城の築城に着手しますが、6月徳川家康との対立で築城は中止され、慶長6年(1601)には破城となります。慶長6年、蒲生秀行が入り、慶長15年(1610)には、石垣を大改修しますが、慶長16年(1611)に大地震があり、天守閣が傾きます。 四国の松山から移封した加藤嘉明の子、明成が寛永18年(1641)西出丸や北出丸を石垣に大改修し、天守閣を解体修理し、7層を5層に造り変えます。 会津戦争では、西軍の激しい砲撃で天守閣東面はアームストロングで攻撃され穴だらけけとなりますが、他の面は四斤山砲の攻撃だったことから穴だらけではありませんでした。 明治7年(1874)城の建物は取り壊されます。昭和40年にコンクリートによって天守閣が復元されました。
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