石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原25  米沢の前田慶次屋敷跡

2008年06月19日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続25前田慶次の米沢における屋敷跡  

会津古城研究会長 石田 明夫

山形県米沢市 米沢駅より車で10分

0001慶長6年(1601)、関ヶ原の敗戦後、会津を去った上杉景勝と直江兼続。他家の誘いを断り、禄高も減らされるを承知で米沢に移った前田慶次。屋敷は、米沢東の郊外で、山麓に丘が点在する工業団地のある堂森地区に慶次の屋敷とされる慶次清水が残っている。東には野球場がある。スコアボードの西に、雑木林があり、清水への通路が100mほど続いている。そこで小学生と会った。ゲームで前田慶次のことは知っているという。また、水汲みに訪れる人もあり、豊富な水量を誇っている。清水は2ヶ所並んであり、庭跡の可能性もある。屋敷を取囲むような土塁や水路は確認できない。慶次は、ここで病死したという。

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北の関ヶ原24  神指城の姿1

2008年06月17日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続24神指城の姿1 本丸に残る石垣  

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市神指町 会津若松ICより西へ5分

005_2 慶長3年(1598)、会津に入った上杉景勝と直江兼続。ただちに、領内の街道や橋、宿場、支城の整備をします。そして、本拠地の若松では、上杉家最後の砦となる会津美里町本郷の向羽黒山城を2年間かけて大改修します。その改修が済むと、慶長5年間から本拠地の城となる神指城の築城に着手したのです。本丸には、直径1メートルから2メートルの溶結凝灰岩の石垣が残されています。石垣は、会津若松市東山町大字石山の石切山から石引き道で運ばれたものです。石垣は、慶長6年6月以降に関ヶ原の敗北責任により、破城され、運ばれたことから地中と一部に確認されるだけです。

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北の関ヶ原23  会津の前田慶次の屋敷跡

2008年06月05日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続23前田慶次の会津における屋敷跡  

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県喜多方市 会津若松ICより20分

0001  慶長3年(1598)、会津に入った上杉景勝。直江兼続を慕って、前田利家の甥とも伝えられるかぶき者。米沢で亡くなるが、会津時代には、会津盆地の北部に屋敷をもらい住んでいました。周りは、盆地の水田地帯です。慶次は、関ヶ原敗北後、慶長6年に米沢へ移り住んだ。初代慶次は利大と名乗り、子孫が代々住んでいたが、現在は会津若松に住んでいます。

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