石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争39 娘子隊の戦い1

2019年10月04日 | 戊辰・会津戦争


 娘子隊の戦い1

 会津古城研究会長 石田明夫 

 会津藩では、白虎隊と共に女子も会津戦争に加わっていたことはよく知られ、山本(新島)八重とともに、会津若松市神指町東城戸の湯川に架かる柳橋の北約600メートルの越後街道で戦った婦女子らを娘子隊(軍)(正式な隊ではありません)がいました。それらは、中野幸子(数え44歳)、子の竹子(22歳)・優子(16歳)、依田まき子(35歳)、水島菊子(18歳)、岡村すま子(咲子とも)(30歳)の6人でした。
 『会津戊辰戦争』のなかで、
 「籠城の6日目(8月28日)中野幸子さんが入城されたが、わたし(山本八重)を見て『何故娘子軍に加はりませんでした』と、わたしは『妾(わたし)は鉄砲にて戦(行くさ)する考えで居りました』」
と山本八重は答えています。八重も娘子隊(軍)に誘われていたことが分かります。幸子は、江戸詰めで勘定役中野平内(へいない)の妻でした。中野家は、会津藩が江戸から避難した時、会津坂下町内西側の道場を開いていた玉木家に一時世話となり滞在したこともあります。
 娘子隊の名称については、定まったものではなく、八重の西隣に住んでいた水島菊子が
『会津婦女隊従軍の思ひ出』のなかで、城に入ろうとした時、すでに城門が閉まっていたことか入れず
「モウ城門は閉つて居ます。仕方なく引返(西に行く)しますと、中野竹子様母子、姉妹御3人方に御出会ひし、そこへ岡村すま子様も来られましたので、そこで婦女隊が出来た訳です。」
 と述べているように「婦女隊」とも呼んでいたようです。また『会津戊辰戦史』には、会津藩と男性からは「女隊」と呼ばれていたようです。娘子隊(軍)の名は、正式なものでなく、婦女子の一団で呼び合っていた名称なのです。

 写真は、会津若松市米代にある山本八重・水島菊子宅跡。手前の駐車場部分が水島宅で奥の住宅部分が山本宅跡です。

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戊辰・会津戦争38 新選組・土方歳三会津を去る2

2019年09月30日 | 戊辰・会津戦争


 新選組・土方歳三会津を去る2

 会津古城研究会長 石田明夫 

 旧幕府軍の大鳥圭介は、1868年8月21日(現在の新暦で10月6日)郡山市と猪苗代町の境目に位置する母成峠の戦いに敗北した後、裏磐梯の秋元原から桧原の雄子沢を経て大塩温泉に向かいます。『南柯紀行』には、道は悪く物資は乏しく困り果て、大塩宿に着くと、大きな家の内に入り、病人のために毛布を提供してもらおうとしますが、物資がなく、大鳥らが持参した毛布を出して貸して与える程であったという。
 8月24日、大鳥圭介は、米沢藩に入り弾薬を借りに行こうとしますが、米沢藩では、標高1100メートルを越す桧原峠を下った綱木宿近くを封鎖し、入国を断わり、早々に帰るようと言われます。夜も近いので、談判して綱木宿に1泊の許可を取りますが、宿泊場所や兵糧の確保に窮し、弾薬は無いと断られ、米沢藩が変心したのを察したのです。
 8月25日、兵を米沢藩の綱木宿から会津藩の桧原宿へ戻します。すると、帰り道、米沢藩が傍らの大木を倒し、街道を封鎖し始めていました。そのことから、桧原峠を完全に封鎖したのは、25日のようでした。
 大鳥圭介らとともに米沢藩入ったのは、桑名藩主の他に、旧幕府の当時日本一の医師で、若松記で日新館大病院を指揮していた松本良順と土方歳三も25日に米沢に入っています。しかし、ことごとく米沢藩の協力は得られなかったのです。
 『谷口四郎兵衛日記』によると、大塩温泉に戻った土方は、会津に残ることにした大鳥に対し、
「新選組のことをよろしく頼む」
と依頼し、仙台藩の協力を得ようと、土湯峠を越えて行きます。ここでいう新選組は、会津に残った会津新選組14名のことで、残った斎藤一は、当時山口次郎と名乗り
「一たび会津にきたれば、今落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠儀にあらず」
の言葉を残し、大鳥圭介とともに会津に残ります。
 大鳥圭介と齋藤一は喜多方市の塩川へ行くことから、土方と齋藤一が分かれたのは、26日で、会津新選組は、9月22日の開城後も南会津で会津藩が降伏する9月27日まで戦い、斎藤一は、一ノ瀬伝八の名で降伏し、塩川送りとなっています。


 写真は、土方歳三と斎藤一が8月26日に分かれた福島県耶麻郡北塩原村大塩の大塩裏磐梯温泉

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戊辰・会津戦争37  新選組・土方歳三会津を去る1

2019年09月26日 | 戊辰・会津戦争


 新選組・土方歳三会津を去る1

 会津古城研究会長 石田明夫 

 慶応四年(1868)8月21日、母成峠の戦いで新選組の土方歳三と斎藤一は、最後まで戦いますが敗れ、新選組の半分は旧幕府の大鳥圭介とともに、猪苗代町の大原村から裏磐梯の秋元原を経て、北塩原村の大塩温泉を目指しました。齋藤一ら40人は、猪苗代湖岸から背炙り山を経て、東山天寧寺に向かいました。その後、斎藤一は城下の宿に宿泊しています。
 8月23日、二本松街道の大寺口を守っていた桑名藩は、若松城下北東入り口へ移り、蚕養口で戦い敗戦し、塩川を経て大塩温泉向かったのです。『戊辰戦争見聞略記』に、会津若松を発した桑名藩の松平定敬(さだたか)公一行は、夜になり大塩温泉に到着します。村人は逃げ去り、人影は見えなかったのです。食糧さえなく大変窮しました。桑名藩の石井勇次郎は、夜ある人(土方歳三)を訪ねます。
「会津から落ちてここに集まっている兵は千人はいるだろう、それに竹中・大鳥(圭介)君もここにいる」
「自分が定敬公と竹中・大鳥両人に談判して速やかに兵を整え、会津若松を救う作戦を立てようと思う。この村は幸い要地だ、ここを本営にしたいと思うがどうか。」
と相談を受け、大塩温泉では、旧幕府軍と新選組、桑名藩ら約千人が集結し、若松を救う計画を立てたのです。しかし、定敬公は、すでに米沢へ向かうため大塩を出発し、勇次郎は走って桧原で定敬公と会います。
 24日、桑名藩は、早暁に桧原宿を出発、国境の桧原峠に到着します。米沢藩の綱木村の関門は閉じられ、直談判してようやく入りますが、門の外は避難者であふれ、食べ物も与えらず、餓死者も多く出て目も当てられない状況となりました。
「定敬公がおいでになったことは米沢に報告し、指示あるまでここを通すことはできない」
と門番が言うので、米沢藩が同盟に背いたことを知ったのです。


 写真は、会津若松市蚕養町法華寺の堂内にある西軍が乱入した際に切りつけた刀傷

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戊辰・会津戦争36 若松城下への乱入 

2019年06月30日 | 戊辰・会津戦争


 若松城下への乱入

 会津古城研究会長 石田明夫 

 戊辰戦争のあった1868年8月23日の天気は、明治天皇昭憲(しょうけん)皇太后のロシア語とフランス語の通訳だった山川健次郎の姉操(みさお)が、明治42年『婦人世界』七月号に
「その日は朝から雨が降って、何となく肌寒いやうな日でございました。」
と雨が降る寒いひとあり、そして城に入る時間は
「まだ朝飯前でございました」
とあります。
 会津藩士の妻、間瀬みつは、若松城の鐘が鳴ったのが「朝六ツ半頃」とあることから朝七時過ぎのことでした。
新島(山本)八重は『婦人世界』十一月号の「男装して会津城に入りたる当時の苦心」で
「着物も袴も総(すべて)男装して、麻の草履を履き、両刀を把(たば)さんで、元籠七連発銃を肩に担いで参りました。他の婦人は薙刀(なぎなた)を持っておりましたが、家が砲術師範で、私もその方の心得が少々ございましたから鉄砲にいたしたのでございます。それに弟の三郎と申しますのが、その春、山城国鳥羽の戦いで討死(実際は、鳥羽で負傷し、江戸の会津藩屋敷で死去しました)したので、その形見として着物と袴(はかま)がつきましたから、私は弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だという心持で、その形見の装束を着て、
『一は主君ため、一は弟のため、命のかぎり戦う決心』
で城に入りましたのでございます。」
と、主君のため、家族のため必死に戦ったのです。
八重は、大河ドラマ「八重の桜」で採用された服装の男装して城に入ったのです。
さらに、城内の本丸に入ると、光景はすさまじく  
「白無垢の上に腥(なまぐさ)い血潮の色」では「御婦人などは、白無垢に生生しい血潮の滴っているのを着ておられました。これは多分、家族に卑怯者があって、城中に入って戦うのは厭(いや)だといふのを手に掛けて、その足でまいられましたのでございませう。~御本丸へまいりますと、大書院には、大勢の女中が照姫様を取囲んで警護いたしておりますが、皆、懐剣を持って、いざといはば、城を枕に殉死する覚悟をいたしておりました。」
とあり、足手まといになる者は自害の手伝いや手に掛けて城に入り、皆、殉死覚悟だったのです。

 写真は山本八重の弟、三郎が負傷した京都・鳥羽の戦場跡。

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戊辰・会津戦争35 蚕養口の戦い 

2019年04月09日 | 戊辰・会津戦争


 蚕養口の戦い

 会津古城研究会長 石田明夫 

 
 桑名藩の藩士石井勇次郎が、青森で謹慎中の書き残した『戊辰戦争見聞略記』によると、1868年8月23日、会津藩の滝沢本陣から退却した松平容保公と弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)公は、若松城の大手前(甲賀町郭門)まで来ると
「両公馬ヲ止メ、暫ク談セラル」
 と話し込み、容保公は入城し、定敬公は、援軍を頼みに米沢に赴くこととなったという。その時、桑藩士らは、なぜ兄弟共に籠城しないのか不思議がったという。
 桑名藩本隊は、会津藩家老の萱野権兵衛とともに磐梯町大寺にいたことから、西軍が若松城下に乱入したことを聞くと、急遽兵を引き上げ、致人(しじん)隊、雷神隊、神風隊が大寺口へ向ったのです。すると、蚕養口では、偶然西軍の後ろに出たため激しく戦うこととなります。弾薬が尽き死者やけが人が出たので、定敬公のいる北塩原の大塩村に向かったのです。
 『若松記』では、午後2時頃、桑名藩と萱野権兵衛隊は、蚕養口に進軍すると、西軍は蚕養神社を楯に防戦し、退却する西軍を追いかけ大須賀屋のところまで行き、そこから砲撃戦となったという。西軍は、日蓮宗妙法寺の卵塔(僧侶の墓)付近や市中の蔵に穴を開け、砲撃、発砲し、四方から弾が飛んできたという。午後5時頃、暗くなったので蚕養神社へ撤退したという。ここでは、会津藩兵3人、桑名藩兵3人が戦死しています。桑名藩は、藩主がいる大塩宿を目指し、萱野権兵衛は、神指の高久村を目指したのです。
 西軍は、東山町の慶山付近から中村(平安町)付近へ目がけても攻めてきました。家老の田中土佐らは、甲賀町口で畳を四、五枚重ねて壁を築いたのですが、西軍の弾は、畳を貫くものでした。死傷者が出たことから、門柱や大木、石垣の陰から撃ち、城内から白虎隊士中一番隊が出撃し、三宅半吾邸裏の外堀土塁上から防戦したという。
 その後、家老の田中土佐は、神保内蔵助と出会い「もう、これではいかぬ」と言って、郭内の医者土屋一庵宅(「籠太」北側)に入り、火を放ち、一庵とともに自刃したのです。

 写真は、蚕養国神社。戊辰戦争で焼失しその後再建。

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