石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争3 蛤御門の変

2017年04月30日 | 戊辰・会津戦争


「蛤御門の変」

  会津古城研究会長 石田明夫
   
 文久三年(1863)、長州藩らの動きも活発で、三条実美ら急進派公家と一緒になり、約3千名によって攘夷派を一掃しようと、8月18日、クーデターが発生します。京都御所を警護していた会津藩や薩摩藩の働きにより、長州藩の計画は失敗、三条ら公家七人が山口県下関の功山寺へ下る「七卿落ち」となります。なお功山寺には、万骨塔という慰霊碑があり、白虎隊士や山川健二郎の石碑もあります。
 クーデターに失敗した長州藩士らでしたが、前にも増して多く京都へ終結したのです。そこで元治(げんじ)元年(1864)3月、会津藩の所属となった新選組は、京都市中の巡回警備を強化したのです。6月5日、倒幕を画策していた過激浪士が集会をしているという情報を得た新選組は、会津藩に出動を要請しますが会津藩は動かず、夜十時半頃、単独で襲撃をしたのが「池田屋事件」でした。その働きによって近藤勇は、幕府から三十両と会津の「三善(みよし)長道」の刀と酒一樽を賜っています。その陰には、会津藩の中間で強気を挫き弱気を助ける侠客(きょうかく)の小鉄がいて、俗に「会津小鉄」と呼ばれる十手持ちがいました。
 池田屋事件の知らせを受けた長州藩では、京への挙兵を開始し、7月19日、京都御所を目指して三方から攻めたのです。普段は閉し、往来をしなかったことから「禁門」と呼んでいた門へ、長州藩の来島又兵衛ら三百名が進撃したのです。会津藩では、御所内の禁門、六門と、水戸藩より警護を引き継いだ蛤御門を警護し、一瀬伝五郎らが防戦し、薩摩藩の協力を得て長州藩を撃退したのです。この時、会津藩では60名、長州藩では265名が蛤御門の変で戦死しました。
  写真は山口県下関「功山寺」

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戊辰・会津戦争2 孝明天皇の信頼と新選組誕生

2017年04月29日 | 戊辰・会津戦争
              
「孝明天皇の信頼と新選組誕生」

  会津古城研究会長 石田明夫 

 会津藩が、京都に入った時には、警察組織の京都所司代がすでにあり、その時の所司代は長岡藩主牧野忠恭(ただやす)で、天皇は、孝明天皇でした。孝明天皇は、嘉永6年(1853)六月三日、三浦半島の浦賀に来航したペリーらの欧米人が大嫌いな攘夷主義者でした。そして、天皇の妹「和宮」(かずのみや)が文久元年(1861)11月15日江戸城に入り、十四代将軍徳川家茂の正室となり、徳川家と天皇家との接戦した時期でもありました。文久3年(1863)7月30日には、天皇の前で馬揃えが命じられ、甲冑を着て整然とした千名の会津藩兵の姿に感銘し、10月9日には、孝明天皇から錦陣羽織の生地や銀200枚と「たやすからざる世に 武士の忠誠の心を喜びてよめる」と書いた御辰韓を送っています。
しかし、嘉永2年(1849)に、孝明天皇が公家らの教育を目的に設置した学問所の「学習院」で学んだ長州藩の高杉晋作(4月14日が命日)らは、鉄砲の時代に時代遅れ甲冑姿で現れた会津藩対し、失笑し、幕府に対抗できると確信したのです。さらに、学習院で学んだ連中が、「天誅」(てんちゅう)と称し、京都でしたい放題を繰り返していたのです。
幕府は、文久2年12月、反幕府派を抑えるため、江戸市ヶ谷の甲良屋敷、近藤周助の道場「試衛館」に、庄内藩の浪人清河八郎が協力し浪士を集めたのです。後の「新選組」につながり、天然理心流の近藤勇(調布の農民宮川勝五郎の子)、沖田総司(白河藩阿部家、江戸下屋敷・六本木ヒルズ付近)、そこに土方歳三(日野石田村の農家・散薬屋)、齋藤一(明石藩士山口祐助の子という)らがいました。
 写真は京都御所「蛤御門」

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