天地人直江兼続10、直江兼続の野望、神指城は東日本の府となる予定だった巨大な経済都市
会津古城研究会長 石田 明夫福島県会津若松市神指町 磐越道会津若松インターから5分
上杉景勝・直江兼続が夢に描いた神指城は、1600に築きましたが、徳川家康の会津進攻で築城中なかばで中止した城です。城は、中央の大坂・京都、西の広島、東の神指という秀吉の構想のもとに築城された当時では先端的な平城です。城を造るの神指町の13の村を強制撤去し、12万人を動員。石垣は会津若松市の東山町慶山から運びました。若松城の2倍、本丸と二ノ丸だけで55ヘクタールという大規模な平城で、本丸の石垣と門は完成していましたが、家康の進攻に備え、白河方面の防御を強化するため12万人の人夫を白河口へ移動したのです。関ヶ原で石田三成方についた景勝と兼続は、敗者となり、城は破城を命じられ、慶長6年6月以降に石垣や門は壊されました。
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