会津の彼岸獅子とは
会津古城研究会長 石田 明夫福島県会津地方

喜多方市下柴の獅子は、寛永年間(1624~43)に下野国の古橋覚太夫が伝授したのが始まりといいわれます。会津若松市高野町木流の獅子は、寛永5年(1628)に下野国佐野野口村の青木角助が、木流村の竹林杢助(たけばやしもくすけ)に獅子を伝授したといいます。橋本木流の後藤家に村の代表として、伝来の由来書、巻物、獅子頭が伝わっています。 会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ
会津の彼岸獅子とは
会津古城研究会長 石田 明夫福島県会津地方
会津若松市上荒久田の天子神社
会津古城研究会長 石田 明夫 style="color: #996633;">福島県会津若松市町北町上荒久田 磐越道会津若松ICより5分 1590年から1627年まで会津を2度支配した蒲生氏、蒲生前期の蒲生氏郷・秀行と蒲生後期の秀行・忠郷の時代は、切支丹信仰が盛んでした。会津若松市内には現在3ヶ所の教会跡が残されています。その後、加藤嘉明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。市内の教会は、現在神社となり信仰されていますが、切支丹の影はまったくありません。現在、上荒久田の教会跡には天子神社が建てられています。
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猪苗代町の市街地中心部に位置する切支丹の「天子神社」
会津古城研究会長 石田 明夫福島県猪苗代町 猪苗代町の市街地中心部
江戸時代前期、蒲生氏郷から蒲生忠郷の時代は、猪苗代地方の切支丹が人口の8割以上にもなったと伝えられています。その後、加藤嘉明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。現在、街中の教会跡にはケヤキの大木があり、近くに小さな天子神社があります。
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歳ノ神「賽ノ神」 会津地方
会津古城研究会長 石田 明夫 style="color: #996633;">福島県会津若松市高野町平塚 全国的には、「どんど焼き」と言われていますが、会津では「歳の神・サイノカミ」と呼ばれいますが旧暦の大晦日の行事で、本来は「塞ノ神」と表していましたが、今では「歳の神」(本来の意味が無くなってきました)と表記しています。黒い灰を、顔などに他人から塗られると、厄除けになるとされていましたが、今では会津では黒い灰は塗らなくなりました。また、男女二つ(大小)造っていましたが、今では1つだけとなっています。心棒は他の集落や神社などから御神木と称して運び出し、竹や豆殻をいれ、勢い良く音がする(どんどんと音がすることから「どんと焼き」ともいう)ようしました。実施日は、旧暦で実施していましたが、今では新暦となり13日・14日・15日・16日に実施することが多いようです。
会津坂下(あいづばんげ)町・会津美里町の俵引き
会津古城研究会長 石田 明夫福島県河沼郡会津坂下町 磐越道会津若松・会津坂下ICから20分
会津坂下町(14日)や会津美里町(昔は14日でしたが、現在は第2土曜日)で毎年開催される俵引きは、豊作を願う新年の祝いの行事で、至徳元年(1584)に葦名直盛が、会津若松市の大町(現在の米代一丁目国道118・後現在地に大町は移る)で住吉神社を祀り10日に市を開催していたのが始まりで、商人司(代表)の簗田氏が仕切っていました。文禄元年(1592)には、蒲生氏郷が現在地へ大町を移し初市も大町へ移しました。その時、俵引きをして祝ったのが会津の俵引きの始まりです。俵引きは、磐梯町の舟曳き祭りが、会津の俵引きの古い形態になります。会津坂下町の初市が14日であったことから、その日に合わせ、役場前の通りで東西に分かれ引き合って祝ったのが現在まで続いています。
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