石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の文化13  彼岸獅子

2007年03月14日 | 会津の文化

会津の彼岸獅子とは

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津地方

彼岸獅子とは、会津地方で春彼岸に行われる獅子舞です。獅子舞は、太夫獅子、雄獅子、雌獅子の3人一組で演じられています。頭に獅子頭を被り、鳳凰を染めた袷(あわせ)着物を着て、手甲、小太鼓、両手にバチ、白足袋が一般的です。種目は、三人枚舞と一人舞がある。三人舞いは、山下ろし、大切り、袖舞、バチ舞、柴さがし、雌獅子隠しがあります。一人舞いは、弊舞、棒舞、弓くぐり、太夫獅子舞、雄獅子舞、雌獅子舞があります。会津の獅子舞は、源頼義、義家が安部一族を討つ時に舞ったともいわれ、天正2年(1574)に疫病が流行り、神に獅子舞を奉納して病気を追い払ったとも、寛永20年(1643)に保科正之が山形から会津に移封になったとき、一緒に伝えられたといいいます。正保2年(1654)に那須市野沢より小松の獅子が伝わったといわれています。文化4年の記録では、春彼岸の7日間、一箕町滝沢、門田町南青木、神指町高久では獅子踊りをしていた記録があり、これが現在、春に行われるようになったものとみられます。
 喜多方市下柴の獅子は、寛永年間(1624~43)に下野国の古橋覚太夫が伝授したのが始まりといいわれます。会津若松市高野町木流の獅子は、寛永5年(1628)に下野国佐野野口村の青木角助が、木流村の竹林杢助(たけばやしもくすけ)に獅子を伝授したといいます。橋本木流の後藤家に村の代表として、伝来の由来書、巻物、獅子頭が伝わっています。

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会津の文化12 切支丹、上荒久田天子神社

2007年02月22日 | 会津の文化

会津若松市上荒久田の天子神社

会津古城研究会長 石田 明夫 style="color: #996633;">福島県会津若松市町北町上荒久田 磐越道会津若松ICより5分

Photo_28 1590年から1627年まで会津を2度支配した蒲生氏、蒲生前期の蒲生氏郷・秀行と蒲生後期の秀行・忠郷の時代は、切支丹信仰が盛んでした。会津若松市内には現在3ヶ所の教会跡が残されています。その後、加藤嘉明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。市内の教会は、現在神社となり信仰されていますが、切支丹の影はまったくありません。現在、上荒久田の教会跡には天子神社が建てられています。

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会津の文化11 猪苗代の切支丹、天子神社

2007年02月11日 | 会津の文化

猪苗代町の市街地中心部に位置する切支丹の「天子神社」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県猪苗代町  猪苗代町の市街地中心部

Photo_26 江戸時代前期、蒲生氏郷から蒲生忠郷の時代は、猪苗代地方の切支丹が人口の8割以上にもなったと伝えられています。その後、加藤嘉明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。現在、街中の教会跡にはケヤキの大木があり、近くに小さな天子神社があります。

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会津の文化10  歳ノ神

2007年01月16日 | 会津の文化

歳ノ神「賽ノ神」 会津地方

会津古城研究会長 石田 明夫 style="color: #996633;">福島県会津若松市高野町平塚

070116_023 全国的には、「どんど焼き」と言われていますが、会津では「歳の神・サイノカミ」と呼ばれいますが旧暦の大晦日の行事で、本来は「塞ノ神」と表していましたが、今では「歳の神」(本来の意味が無くなってきました)と表記しています。黒い灰を、顔などに他人から塗られると、厄除けになるとされていましたが、今では会津では黒い灰は塗らなくなりました。また、男女二つ(大小)造っていましたが、今では1つだけとなっています。心棒は他の集落や神社などから御神木と称して運び出し、竹や豆殻をいれ、勢い良く音がする(どんどんと音がすることから「どんと焼き」ともいう)ようしました。実施日は、旧暦で実施していましたが、今では新暦となり13日・14日・15日・16日に実施することが多いようです。

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会津の文化9 会津の俵引き

2007年01月13日 | 会津の文化

会津坂下(あいづばんげ)町・会津美里町の俵引き 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県河沼郡会津坂下町 磐越道会津若松・会津坂下ICから20分

会津坂下町(14日)や会津美里町(昔は14日でしたが、現在は第2土曜日)で毎年開催される俵引きは、豊作を願う新年の祝いの行事で、至徳元年(1584)に葦名直盛が、会津若松市の大町(現在の米代一丁目国道118・後現在地に大町は移る)で住吉神社を祀り10日に市を開催していたのが始まりで、商人司(代表)の簗田氏が仕切っていました。文禄元年(1592)には、蒲生氏郷が現在地へ大町を移し初市も大町へ移しました。その時、俵引きをして祝ったのが会津の俵引きの始まりです。俵引きは、磐梯町の舟曳き祭りが、会津の俵引きの古い形態になります。会津坂下町の初市が14日であったことから、その日に合わせ、役場前の通りで東西に分かれ引き合って祝ったのが現在まで続いています。

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