石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史33 東北最古の田村山古墳

2007年03月15日 | 会津の歴史

会津盆地中央にある3世紀の田村山古墳(前方後円墳)  会津若松市

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市北会津町田村山  磐越道新鶴パーキングから5分

Photo_30 会津盆地の中央に位置する会津若松市北会津町田村山は、山の字が付きますがまったく山は無い水田地帯です。その中に、田村山古墳があります。全長24.85メートル、後円部の直径17.4メートル、高さ2.15メートルの前方後円墳です。昭和3年3月に村人によって発掘され、内部から舶来製(中国製)の「内行花文鏡」2面と直刀、玉管玉が出土しました。鏡は、1面はわざと割った破鏡と完形のものでしたが、完形の鏡は、鉄瓶の蓋と思い、割られてしまいました。鏡の年代は、3世紀末と推定される東北最古のもので、会津大塚山古墳空出土した日本製の鏡よりも50年古いものです。また、周溝からは弥生時代の土器が出土しています。学術調査がされていないことから、正確な年代は不明ですが、東北最古の古墳のようです。

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会津の文化13  彼岸獅子

2007年03月14日 | 会津の文化

会津の彼岸獅子とは

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津地方

彼岸獅子とは、会津地方で春彼岸に行われる獅子舞です。獅子舞は、太夫獅子、雄獅子、雌獅子の3人一組で演じられています。頭に獅子頭を被り、鳳凰を染めた袷(あわせ)着物を着て、手甲、小太鼓、両手にバチ、白足袋が一般的です。種目は、三人枚舞と一人舞がある。三人舞いは、山下ろし、大切り、袖舞、バチ舞、柴さがし、雌獅子隠しがあります。一人舞いは、弊舞、棒舞、弓くぐり、太夫獅子舞、雄獅子舞、雌獅子舞があります。会津の獅子舞は、源頼義、義家が安部一族を討つ時に舞ったともいわれ、天正2年(1574)に疫病が流行り、神に獅子舞を奉納して病気を追い払ったとも、寛永20年(1643)に保科正之が山形から会津に移封になったとき、一緒に伝えられたといいいます。正保2年(1654)に那須市野沢より小松の獅子が伝わったといわれています。文化4年の記録では、春彼岸の7日間、一箕町滝沢、門田町南青木、神指町高久では獅子踊りをしていた記録があり、これが現在、春に行われるようになったものとみられます。
 喜多方市下柴の獅子は、寛永年間(1624~43)に下野国の古橋覚太夫が伝授したのが始まりといいわれます。会津若松市高野町木流の獅子は、寛永5年(1628)に下野国佐野野口村の青木角助が、木流村の竹林杢助(たけばやしもくすけ)に獅子を伝授したといいます。橋本木流の後藤家に村の代表として、伝来の由来書、巻物、獅子頭が伝わっています。

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会津の城29  若松城西出丸の建物配置

2007年03月05日 | 会津の城

鶴ヶ城西出丸の江戸時代建物配置。  会津若松市 国史跡

会津古城研究会長 石田 明夫

会津若松市追手町1-1

Scan20006_1 若松城は、葦名氏が南北朝時代の文和3年(1354)に築いた小高木館、小田垣館が最初で、至徳元年(1584)に改修され黒川城と呼ばれるようになり増す。天文13年(1544)に大改修され、伊達政宗の改修、蒲生氏郷の文禄元年(1592)の天守閣と高石垣の大改修、蒲生秀行の慶長年間の改修、寛永18年(1641)の加藤明成の西出丸、北出丸、廊下橋西側の石垣改修があり、江戸時代には10回以上の改修がされています。西出丸には、建物が図にあるように配置されていました。この図は、若松県があった明治2年から6年の間に描かれたもので、江戸時代の建物取壊し以前を示しています。明治時代に新たに建てられた建物は新規建物と表記されています。

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会津の城28 若松城内の年号石垣2

2007年03月03日 | 会津の城

鶴ヶ城にある天保3年の刻字がされた石垣     会津若松市 国史跡

会津古城研究会長 石田 明夫

会津若松市追手町1-1

070303_048 若松城は、葦名氏が南北朝時代の文和3年(1354)に築いた小高木館、小田垣館が最初で、至徳元年(1584)に改修され黒川城と呼ばれるようになり増す。天文13年(1544)に大改修され、伊達政宗の改修、蒲生氏郷の文禄元年(1592)の天守閣と高石垣の大改修、蒲生秀行の慶長年間の改修、寛永18年(1641)の加藤明成の西出丸、北出丸、廊下橋西側の石垣改修があり、江戸時代には10回以上の改修がされています。城内には、2ヶ所年号ある石垣があります。写真は天保3(1833)の改修時に刻字された石垣です。2ヶ所の刻字された石垣は、写真に撮ることは難しい位置にあります。

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会津戦争8  新選組清水屋旅館跡

2007年03月01日 | 戊辰・会津戦争

会津戦争で新選組が宿泊した「清水屋旅館跡」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市七日町 磐越道会津若松ICより15分

041004_001_3 会津戦争で会津に入った新選組の人は、若松にいるときに、七日町の「清水屋旅館」に宿泊していました。今では大東銀行若松支店となっています。明治時代から昭和にかけては、3階建ての木造の旅館として、若松一著名でした。3階建ての建物は、白木屋もあり筋向かいに位置し、旅館としては最も大きなものの一つでした。なお、清水屋旅館は、上町に分家があり、明治時代の自由民権運動の活動家が宿泊しています。

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