日橋川と摺上原の戦い
会津古城研究会長 石田 明夫福島県会津若松市河東町・耶麻郡磐梯町 磐越道磐梯河東ICから5分
福島県の中央に位置する猪苗代湖から新潟市の日本海へ流れる日橋川(にっぱしがわ)。その川は、戦国時代、『新編会津風土記』によると猪苗代湖から流れる唯一の出口、戸ノ口付近を戸ノ口川、磐梯町大寺付近を新橋川(にっぱしがわ)、会津若松市河東町堂島付近を堂島川、塩川町付近を塩川、大川と合流する湯川村付近を大川(おおかわ。現在は阿賀川と呼ぶ)、只見川と合流する下流を揚川(あががわ)と呼んでいました。日橋川は、急流で川幅も広く深いことから、橋を架けることができませんでした。それが、ようやく架けられたのが磐梯町大寺と会津若松市河東町八田野の新橋でした。そしてその付近を新橋川と呼ぶようになり、それが日橋川と変化したものです。この橋では、天正17年(1589)6月5日、伊達政宗と会津の葦名義広が磐梯山麓で戦った摺上原の戦いの時、敗れた葦名勢が退却する時に殺到した場所で、葦名氏を裏切って政宗に付いた猪苗代勢と政宗配下の黒はばき党がこの橋を先に落としていたことから渡れず、川に落ちて多数溺れ死んでいます。堂島川は、島のように蛇行した部分に、喜多方市にある熊野神社の旧地で那智社の堂があったので堂島と呼ばれたものです。大川は、広く大きな川だったからです。只見川と合流すると、水かさが揚がることから付けられたものが揚川で、字が「阿賀川」と変化し、新潟県に入ると原野を流れることから「阿賀野川」と付けられています。写真は磐梯町付近の日橋川で、新橋が架かっていた場所。橋の北側には、橋を守る「橋姫神社」おんば様があり、安産としても信仰されています。 会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ