石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争11 西出丸での銭貨鋳造

2017年05月29日 | 戊辰・会津戦争

「西出丸での銭貨鋳造」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 戊辰・会津戦争が終結したとたん会津では、各地で「ニセ金」が鋳造され大混乱となりました。明治2年5月、西出丸で鋳造に関わった職人らが「軍司方」と称し、贋金を造ったためです。その手法は。万延年間の(1860)の二分金と二朱金を真似たもので、金ではなく、金メッキを施して流通させたものでした。「会津のニセ金」として知られ、明治政府は贋金の製造と流通を禁止し、約1200人を捕え、約18万両を回収しています。
 これらの人の多くが、慶応四年春、海老名郡治を奉行として、120万両(現在の価値で約48億円)の銭貨を「御城吹」と称し、武器を買う軍事資金ため鋳造した人たちです。
 4月19日、『簿暦』に、山川大蔵は鋳金(贋金)について唐津藩の旧幕府老中小笠原長行と御薬園で相談しています。『会津戊辰戦史』に「西出丸に鋳造所を設け、該金金工等をして二分金及び、その他を鋳造せしめ、その鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納額は、六十萬両に達し、守城前後の金融を圓滑ならしむることを得たり。」と、藩士や庶民から金銀を集め、西出丸で職人に銭貨を鋳造させ、供出した金銀の半分を藩士らに戻し、残りは軍資金にしたのです。
 籠城戦中の8月25日、鋳造金の持出し事件があり、翌26日には、城内の銭貨を運び出したのです。関東学院大学を創立した日向内記の孫、坂田祐(たすく)は、『新編恩寵の生涯』の中で、明治時代、貨幣を新潟港から秋田港に運び、青森県の斗南藩へ持って行ったという。真相は、26日、家老の西郷頼母が容保公から密命を受けて銭貨を運び出し、27日高久から舟で西会津町上野尻へ運び、一時埋め、明治に入り掘り出して運んだのです。

写真は「明治2年に作られた会津のニセ金」

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

戊辰・会津戦争10 会津藩の武器購入

2017年05月20日 | 戊辰・会津戦争

「会津藩の武器購入」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 慶応四年(1868)の戊辰戦争が始まると、会津藩では、武器を調達するため、オランダ国籍でプロシャ(ドイツ)人のヘンリー・スネル、エドワルド・スネル兄弟から購入するようになります。『会津藩武器購入に関する一問題』に、慶応四(1868)年3月23日、会津藩では、エドワルド・スネルから、オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)を一挺洋銀九枚で、合計780挺を7020ドルで買っています。買ったのは、会津藩商人の鈴木多門が、新潟港経由で買ったのです。同じ日、若松城三ノ丸では、フランス人から銃隊歩法訓練受け、須藤時一郎、柴五六郎ら20数人は、フランス語で、小隊止まれを「小隊アルハイ」と言っていました。
 会津藩では、金を用意できず船の荷を受け取ることが出来なかったこともあります。旧幕府の「順動(じゅんどう)丸」を借上げ、3月13日に江戸を出発し、箱館経由で4月11日新潟港へ入港したものの運送代2700両の内、700両しか用意できず、結局、荷は揚げられず、船は移動し、5月24日、新潟県の寺泊港で停泊中、薩摩藩の乾行(けんこう)丸と長州藩の丁卯(ていぼう)丸から砲撃を受け艦は焼失しています。同じ日『甘粕継成日記』によると、武器商人のヘンリー・スネルは、髪を剃り、日本製の羽織に袴姿で名を平松武兵衛と称し、若松城内で松平容保公と会い、城下西(材木町の西若松駅南西隣)に屋敷が与えられました。
 西軍の長州藩と薩摩藩では、イギリスから莫大な資金援助と、スペンサー銃、アームストロング砲などの武器援助もあり、会津藩とは圧倒的な軍事力の差があったのです。そこで、会津藩では、資金援助がないことから、西出丸で埋蔵金を作ることになるのです。

写真は「会津若松市材木町、スネルの屋敷跡」

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

戊辰・会津戦争9 白虎隊の誕生

2017年05月14日 | 戊辰・会津戦争

「白虎隊の誕生」

  会津古城研究会長 石田明夫   
                  
 慶応四年(1868)2月4日、松平容保公は、家督を喜徳(よしのり)公に譲り恭順を表しますが、24日には、年少のためす政務は再び容保に託されています。7日には『会津戊戦史』によると、佐川官兵衛を司令官として、18歳から35歳までの江戸詰め会津藩兵にフランス人を招き訓練をしました。また、会津国境を守るため地方御家人や農兵による防備を定めたのです。同日、旧幕府兵約2000人(後の衝鉾隊・しょうほうたい)が会津藩援護のため江戸から会津へ向かいました。2月21日には、『会津藩大砲隊戊辰戦記』によると、江戸の小川町で、会津藩砲兵隊長の山川大蔵らがフランス人の「シャノアン」「メツリノー」から大砲隊だけ特訓を受けています。
 3月10日、会津藩は、フランス式に軍政改革をしました。『七年史』によると、服装は、すべて西洋式の黒の洋装にしましたが、名称だけは中国に伝わる東西南北の四神名に例え、年齢によって南神の「朱雀(すざく)隊」、東神の「青龍(せいりゆう)隊」、北神の「玄武(げんぶ)隊」、西神の「白虎隊」に編成し、さらに身分による階級でもって区分したのです。それぞれの隊は、大よそ100名編成で「一番隊」と称する中隊に分けられていました。その他砲兵隊、土工兵と呼ぶ築城兵などがあり、元帥、軍艦、軍艦副役、幌役、職司と、西洋式の役職も定めました。合計31番隊、約2800名の正規兵が誕生しました。
 白虎隊は、数え16・7歳が入り、中隊は、他の隊とは異なり半分の約50名編成となっていて、15歳以下は、「幼年組」として位置づけられていました。その号令は、フランス人から教練されたことから「アン」「ドウ」「トロワ」とフランス語でした。

写真は東京「皇居和田倉門脇にあった会津藩上屋敷跡」

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ
 

戊辰・会津戦争8 容保公会津に帰る

2017年05月11日 | 戊辰・会津戦争
「容保公会津に帰る」

  会津古城研究会長 石田明夫   
                  

 西軍は、慶応四年(1868)1月16日、秋田藩主の佐竹氏、翌日には『仙台藩史』によると仙台藩主の伊達氏に対し、会津藩などの征討を命じています。同日、容保公は、鳥羽伏見の負傷者が集まっていた江戸の三田会津藩下屋敷に見舞いに行きました。20日には、徳川慶喜(よしのぶ)が見舞いに来て、その時、大坂城から退却したことを攻めた家臣がいたという。
 2月12日慶喜は、恭順の意を表すために、江戸城を離れ、上野の寛永寺大慈院に移ります。翌日、会津藩家老の神保修理は、江戸の会津藩下屋敷で、大坂城より将軍と容保公が大坂城を出たことを責めたことに対し、切腹を命じられています。その悔しさの和歌は
「帰りこん時 親のおもうころ
  はかなきたより きくべかりけり」
と「親のおもうころ」と残されています。
 同日、西郷頼母は、江戸を出発したのです。
16日容保公は、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)に、恭順、謹慎、沙汰を待つことを記した朝廷への謝罪状を託し、江戸の上屋敷和田倉邸(東京駅から西へ皇居入る和田倉門脇)を出て会津へ向いました。また、この日容保公は、藩士にフランス式軍事教練を命じ、江戸小川町で訓練をしています。そして、梶原平馬らは、横浜でプロシアのスネル兄弟から小銃や大砲を購入しています。18日から3月1日の間、会津藩士と家族が江戸を離れています。
22日容保公は、会津へ到着し『諸月番申渡書』によると、27日には家臣に対し、「薩長(薩摩・長州)二藩は、私怨を酬いろうとして王師(天皇)の名を借りて、兵を我に加えようとしていると忠告があり、非常に備えよ」と、非常事態宣言をしました。

写真は東京「会津藩下屋敷跡、三井倶楽部庭園」

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ

戊辰・会津戦争7 容保公江戸に帰る

2017年05月08日 | 戊辰・会津戦争

「容保公江戸に帰る」

  会津古城研究会長 石田明夫   

 鳥羽伏見の戦いが勃発した時会津藩の兵力は、『会津戊辰戦争』によると、田中土佐隊の520人や大砲隊260人をはじめ920人であり、容保公の弟桑名藩は、約400人でした。慶応4年(1868)1月6日、京都淀の戦いで敗れた会津藩兵は、大坂へ敗走しました。鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士261人の慰霊碑は、京都黒谷光明寺西雲院にあり、毎年慰霊祭が行われ、例年6月上旬の日曜日となっています。
 鳥羽伏見の戦いで、錦旗が出たことを聞いた徳川慶喜は『会津戊辰戦争』によると、天皇に逆らうことを嫌い「我が命令を用ひざるが腹立たしさに如何やうとも、勝手にせよといひ放しこそ一期の不覚なれ」といい、従者にも「勝手にせよ」と言い、無責任さを露呈したのです。六日、『徳川慶喜公伝』には、夜十時頃慶喜らは、秘かに大坂城の後ろの門から出て容保公は、同行させられるとは思っていなかったという。そして、アメリカの艦船に乗込み、幕府の開陽丸に乗換え、8日江戸へ発したのです。
 慶喜と容保公は12日、『若松記草稿』によると、江戸の浜御殿(浜離宮)に上陸し江戸城に入り、容保公は上屋敷の和田倉邸に帰ります。その時容保公は、江戸に帰った理由を家臣に明かすことはなかったという。御辰韓は、家臣の浅羽忠之助が大坂城より秘かに持出しています。
 会津藩兵は、将軍や藩主がいなくなったことで8日、陸路で紀州へ向いますが、紀州藩は、入国を拒否し、陸路で入った藩士185八人を乗船させ江戸へ送り込み、西軍に恭順したのです。15日、正角丸は、江戸の品川に入港し、負傷者は三田下屋敷へ入りました。

写真は京都「黒谷・光明寺西雲院の会津藩戦死者慰霊碑」

会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ